[#表紙(表紙2.jpg)] DIVE!! 下 森 絵都 目 次  三部 SSスペシャル'99  1 WAVE  2 ARE3YOU OK?  3 STAR KNOWS  4 NEXT STAGE COMMING  5 SLUMP  6 NEVER EVER LOSE  7 MEET THE MONSTER  8 OLD BOY'S AMBITION  9 BOY'S DESIRE  10 CHAMPION TOMOKI  11 SS SPECIAL'99  四部 コンクリート・ドラゴン  1 DREAM MATCH  2 TRUE DIAMONDS  3 DEAREST BROTHER  4 OH, MY JINX!  4.5 ONE DAY, IT'LL COME  5 WHERE'S HE GOING?  6 WHERE'S SHE GOING?  7 LINE  8 PERFECT WHITE  9 RETURN GAME  10 FINAL STAGE     YOICHI     SHIBUKI     TOMOKI  11 TAKE OFF [#改ページ]  三部 SSスペシャル'99 [#改ページ]  まるで真夏に雪でも舞いおりてきたかのようだった。  オリンピック代表への内定は、選ばれた要一《よういち》自身にとってもあまりに唐突な、思いもよらない大事件だった。 「おめでとう。まだ内密の話だが、五輪代表選考委員会は今日、君と寺本健一郎《てらもとけんいちろう》の二名をシドニー代表に選出した」  八月三十一日。二学期の始業式を翌日に控えたこの夜、父の敬介《けいすけ》に告げられた瞬間の興奮は永遠に忘れない。  オリンピック代表に内定?  このおれが?  あのオリンピックに? 「マジかよ……」  いつかはそんな日が来ればいいと思ってはいた。いや、必ずこの手でつかみとるつもりだった。が、正直、こんなにも早くチャンスがめぐってくるとは思いもしなかった。  どくどくと脈が速まる。むやみに胸が躍る。体の軸が狂ったように足下がぐらついて、熱いものが腹のあたりからこみあげてくる。こうした状態を人は『歓喜の嵐』などと呼ぶのかもしれないと、だいぶあとになってから要一は思ったけれど、しかし生来、冷静な彼は現実に立ち返るのも早かった。 「でも、なんで?」  最初の突風が吹きぬけた要一の頭には、飛込み関係者ならばだれもが抱くはずの疑問が残ったのだ。 「シドニー代表は、四月か五月の選考会で決めるんじゃなかったんですか。それに、おれと寺本さんだけって……あとの一人は?」 「代表は、君と寺本の二名のみだ。たしかに日本は三人の枠を持っていたが、わけあって今回は二人にしぼられた」  実の息子が代表の座を射止めたにもかかわらず、テーブル越しにむかいあう敬介の表情は重かった。MDC《ミズキダイビングクラブ》のヘッドコーチでもある彼は、選ばれた息子の幸運と、選ばれなかった教え子たちの不運を秤《はかり》にかけているのか。  複雑な思いは要一にもあった。寺本と要一の二名に代表が決まったということは、この時点で知季《ともき》や飛沫《しぶき》のシドニー行きが消えたということでもある。 「トモたちはこのこと、知ってるんですか?」  要一が尋ねると、敬介は眉間《みけん》に深々としわをよせ、 「さっき麻木《あさき》コーチに電話をしたところ、たまたまそこに沖津《おきつ》もいた。麻木コーチは沖津に事のあらましを告げて、明日にはトモとレイジにも話をすると言っている。なにぶん癌の告知が当然の国で育った娘さんだからな。私としては正式な発表があるまで伏せておくつもりでいたんだが……」 「バレるまで黙っておこうと?」 「いや、こんなにも早く内定が下されたことからもわかるだろうが、今回の代表選出には複雑な裏事情がある。日水連から正式な見解が示されるまでは、いたずらにあの子らを刺激せんほうがいいと思ってな」 「裏事情?」 「しかし、こうなったからにはやむをえん。明日にでも招集をかけ、私からもできるかぎりの説明をするつもりだよ。君も何かききたいことがあったら、そのときにきいてくれ」  自分の息子だけ特別扱いはできない。それは一貫した敬介の主義であり、要一の望むところでもあった。 「わかりました。じゃあ、明日」  要一の同意でこの話は翌日に持ちこされ、敬介が疲れた面持ちで浴室へむかうと、入れかわりに夕食の皿を洗っていた母の頼子《よりこ》がやってきた。 「オリンピック代表おめでとう、富士谷《ふじたに》選手。今の喜びをだれに伝えたいですか?」 「天国の母に」 「生きてるわよ」 「じゃあなんで黙ってたんだよ、知ってたくせに」  さっきまで一緒に夕食を食べていながら、このビッグニュースをおくびにもださずにいた頼子を要一はにらんだ。 「だってお父さんが自分の口から伝えるって言うから。それに私もなんだかぽーっとしちゃって、おかしな気分でね」 「なんすか、それ」 「だってまさか親子三人、全員がオリンピックにでることになるなんて……。ずいぶんと業の深い親子って感じじゃない」  やはり元オリンピック飛込み選手である母にもまた、父とは別種の複雑な思いがあるようだ。心持ち潤んだ瞳《ひとみ》の焦点がおかしな具合にぼやけている。いまだ実感のわかない要一には、二人して幻の雪だるまでも転がしているように思えてならなかった。  オリンピック代表に内定——。  自室へもどり、ベッドの縁に腰かけて、この信じがたい事実をじっくりと、ゆっくりと頭でくりかえしてみる。  くりかえしても、くりかえしても、やはり信じがたい。  ときおり大きな舞台で活躍したスポーツ選手たちが、「翌朝の新聞を読んでようやく実感がわいた」などとコメントしているのを見るけれど、これまでネジのゆるいやつらだと思っていた彼らに、要一はこのとき初めて共感した。間近で巨塔をながめてもその全景が瞳に収まらないように、あまりに大きな幸運は手にした本人の視界をふさぐ。他者の目を通した事実(『○○選手、不動の金!』『無欲の銀にコーチも感涙!』『第二の母に捧げる堂々の銅!』等々)を紙面で確認して、初めて人は自分の得たものの大きさを知るのかもしれない。  しかし、まだ内定の段階で新聞がそれを報じるわけもなく、要一には自分の幸運を確認する手だてがない。  オリンピック代表に決まったら、じゃんじゃんと分刻みに電話が鳴りつづけ、祝いの品々がとめどなく押しよせてくると思っていたわけではなかった。が、それにしても、この静けさはなんだろう? 小さいころから飛込み一色の毎日を送ってきた要一には、この朗報を伝える友達もいない。唯一、親しくしているのは同じ飛込み仲間くらいで、しかし彼らは要一のライバルでもある。  知季。飛沫。レイジ。  彼らのことを思うと要一の胸はふさいだ。こんなにも早くシドニー行きを見送ることになった彼らは、一体この急展開をどう受けとめるのだろう。再び戦うために津軽《つがる》からもどってきた飛沫の思いは……?  いけない、と要一は陰にかたむきだした思考をあわてて叱りつける。  だれもがいつかは負ける。敗者の気持ちは敗者になればわかる。それまではあくまで勝者の思考で突き進まなければならない。  疾走しつづける自分の迷いなき背中のみが敗者への餞《はなむけ》だ。  迷わないため、立ち止まらないために要一は黒いスポーツウエアの上下に身を包み、食後のジョギングへくりだすことにした。  家の近辺には自分で定めた幾通りかのジョギングコースがあり、その日の天気や体調、時間帯などによって使いわけている。要一はそのどれを選んでも目をつぶったって走れそうな気がする。それくらい何度も、何年も走りつづけてきた。  この日は夕立が降ったせいでやや道が湿り、だいぶ宵闇《よいやみ》も垂れこめていたため、足場の悪い小路やデートスポットは避け、大通りに沿った中距離コースを行くことにした。  一人きりのジョギングは孤独で、最初は恥ずかしくもあったけど、今ではだれかと並んで走ることのほうが恥ずかしく思える。  一人きりだからこそ自分の息づかいがよくきこえる。  筋肉の軋《きし》みや痛みに敏感でいられる。  星のぱらつく空の下、一定のピッチで地を蹴《け》りながら汗ばんだ肉体の声に耳をかたむけているうちに、ようやく要一の胸にはオリンピック代表に選ばれた感慨のようなものがわいてきた。こうした毎日の、こうした時間の積み重ねでおれは代表の座をつかんだのだ、と。  小二の夏に飛込みをはじめて、とにかくだれにも負けたくなくて、自分よりもずっと図体の大きな選手に果敢に対抗した。となりの子が入水の練習を五回やっていたら、自分はなんとしても六回以上はやった。逆立ちを十秒続けた子がいれば、自分は二十秒。そうして年月が流れ、仲間たちが次々と飛込みをやめていき、気がつくとMDCのトップに立っていた。  それから先は自分との闘い。今日は腕立てふせを百回やろうと決めたら、その決定を下した自分に勝つために百十回はやった。今日はジョギングを一時間やろうと決めたら、一分でも二分でもそれより長く走った。もうダメだ……と悲鳴を上げる肉体を精神力でねじふせ、つねに限界以上の努力を自分に課してきた。  額から吹きだす汗に視界がゆがんだ。  濃紫《こむらさき》の闇に沈む町をひた走りながら、要一は今なら「やった!」と両手を突きあげてもいいような気がした。  幻の雪だるまと闘う日が来るなど、このときはまだ夢にも思っていなかったのだ。 [#改ページ]   1…WAVE  青空の下で水しぶきを散らす夏が去り、練習の場が再び辰巳《たつみ》の東京国際水泳場へと移った九月一日。オリンピック内定から一夜明けたその日、要一は急遽《きゆうきよ》、あるところを訪ねることになった。  高校の始業式を終えて帰宅した要一を、敬介が似合わない背広姿で待ちうけていたのだ。 「悪いが、今日は練習を休んでくれないか。五輪内定の件をご報告したところ、ミズキの社長がぜひ君に会いたいとおっしゃってな。急な話だが、ミズキ本社までご挨拶《あいさつ》にうかがうことになった」 「ミズキ本社に?」  要一の所属するMDCを直営している大手スポーツメーカーのミズキ。御茶の水のオフィス街にあるその本社は、要一にとってある意味、敵陣でもあった。日本飛込み界の発展を願ってMDCを設立した前会長——麻木|夏陽子《かよこ》の祖父の死後、ミズキの経営陣がMDCを厄介視しているのは周知の事実だ。飼育に金がかかるわりに芸のない象でも手放すように、赤字経営の続くMDCの運営から彼らが手を引きたがっていることも。  その敵陣からいきなりの呼びだしである。  御茶の水まで電車をのりついでいく要一の足は重かった。もしも父親がミズキの傘下で働いていなければ、こんな要求など平気ではねつけてやれたのに。そう思うとよけいにいまいましく、こうしてのこのこ出向いていく自分の卑屈さも腹立たしい。そびえたつ高層ビル群の一角にひときわ目を引く〈MIZUKI〉のロゴを見たときは、こんなビルを維持する金があるならやぶれたマットを直してくれ、と因縁のひとつもつけたくなった。  そんな要一を十二階の社長室で迎えたのは、ある意味、極めて老獪《ろうかい》な古狸だった。 「オリンピック内定おめでとう、富士谷ジュニアくん! いやいや、要一くんだったね」  要一の顔を見るなり、ミズキ社長はたるんだ老顔にまんべんなく笑いじわを刻んで言ったのだ。 「いや、君の話はちょくちょくきいていたよ。いつかはやってくれると陰ながら応援していたが、いやいや、ついにやってくれたね。オリンピック内定の報告を受けたときは、してやったりと思わず手を打ったよ。ついてはぜひ、私からも直接お祝いを言わせてほしくてね。悪いがここまでご足労願ったわけだ」  猫でも逃げだすようなその猫なで声は、「なんて現金な」を通りこし、「よくぞここまで」の域に達していた。これだけろこつだとまじめに腹を立てるのもばからしく、要一は気勢をそがれて立ちつくした。  そもそも要一は「いや」や「いやいや」を連発する人間を信用していない。飛込みの関係者やマスコミの人間にもときどきいるけれど、この手のタイプにかぎって成績の悪い選手には態度がぞんざいで、スポットライトを浴びている者にだけ愛想よくすりよってくる。彼らには必ず目的がある。  こいつの目的はなんだろう?  用心深く社長の表情をうかがう要一の横で、「いえいえ」と敬介が腰をかがめた。 「ここまでこれたのも本当にミズキさんのお陰さんでして……」 「いやいや、これもひとえに富士谷くんという有能なコーチがあってこその快挙だよ。創設七年、よくぞここまで彼らを引っぱってきてくれた。創設者の会長も天国でさぞかしお喜びだろうよ。これでメダルでもとったら天国からもどってくるかもしれないな、がはは」 「いえいえ、メダルなんてとてもとても……」  社長の「いやいや」も気にさわるが、敬介の「いえいえ」にもある種の媚《こ》びを感じる。要一が二人のやりとりに辟易《へきえき》し、「まあまあ」と割って入りたくなったところで、社長が二人を奥の応接室へとうながした。 「いや、まあ、立ち話というのもナンだからね」  めったに冷房を入れない要一には少々空調の効きすぎた応接室。体を冷やさぬよう、携えていた制服のブレザーをはおりながら足を踏み入れると、ガラスのサイドテーブルをL字に囲んだソファには、すでに社員らしき男の姿があった。 「初めまして」  と、要一の顔を見るなり、起立して名刺をさしだしてくる。 「広報宣伝部の高田《たかだ》です」  部長、という肩書きのわりにまだ若い顔立ちの高田は、朗らかな笑顔の下で抜け目なく要一をチェックしていた。頭の天辺から足下まで、まじまじと粘っこい視線を這《は》わせると、やがて「うん」と検印でも押すようにうなずいて、 「写真よりもずっといい。顔よし、スタイルよし、肌の状態もよし! とくに手足の長さはさすがですね。このシルエットならそこいらのタレントよりずっと絵になる。うん、イケてますよ、社長」 「だろう。いや、私もさっき見て思ったよ」 「これでしゃべりもイケてたら、引退後はスポーツ解説者っていうのもアリかな。あ、でも飛込みの解説者って暇そうですけどね」  悪びれもせずに言ってのけると、高田は要一にむきなおって軽く右手を持ちあげた。 「要一くんさ、こう、右手を上げて、『とんでもハプニング、ぼくらもびっくりオーシャンブルーの青い奇跡』って言ってみてくんない?」 「は?」  とんでもハプニング? 「なんすか、それ」 「いいから、いいから、頼むよ」  何がいいのかわからずに要一がじっとしていると、横から敬介にせっつかれた。 「ほら、要一」  要一はいらだち、幽霊のようにだらりと右手を持ちあげた。 「とんでもハプニング、ぼくらもなんとかなんとかの奇跡」 「いいねえ、そのふてくされたいまどきの高校生っぽさ! 社長、やっぱこれイケてますって」  イケてるという言葉自体がもうすでにイケてないのだということを、要一がどうしても高田に教えてやりたくなったそのとき、二人のやりとりを満足げにながめていた社長が思わぬ一言を発した。 「ああ、こりゃイケてるよ、高田くん。いや、おもしろいCMになりそうじゃないか」 「CM?」  つまりはこういうことだった。  スポーツ用品全般を扱うミズキは、現在、スポーツドリンクの開発にとりくんでいる。『オーシャンブルー』と称するその第一号は来夏にも大々的に全国発売される見込みで、すでに宣伝用のイベントやCM製作を始動している。そのCMに要一を起用したい、というのである。 「十メートルのプラットフォームに一人の少年がたたずんでいる。天からの陽を浴びて輝く彼の肉体! やがてその体が大きく飛翔《ひしよう》し、美しい回転を描きながら水中に消える。プールにもぐった少年は水底でオーシャンブルーのペットボトルを発見。それをにぎりしめて浮上し、ばしゃりと水から顔をだす。と、いつのまにか彼は果てしない海の只中《ただなか》にいるんだ。少年は驚き、手にしたペットボトルをハッと見る。そして一言、『とんでもハプニング、ぼくらもびっくりオーシャンブルーの青い奇跡!』」  ね、イケてるでしょう、と高田は大きな前歯をむきだして笑った。 「っていってもまだラフの段階で、これからディテールを煮つめていくつもりですけどね。もともとこの商品、夏の五輪とリンクさせて売りだす予定なんで、CMのほうもそんなに急ぎじゃないんですよ。ま、とりあえず要一くんには心の準備をしておいてもらって、くわしい話はまた追ってご連絡ってことで……」  要一がまだイエスともノーとも言わないうちに、高田はすべて確定事項のようにまくしたて、敬介も社長も納得済みの様子でそれをきいている。  おかしな感じだった。みんなが自分の話をすればするほど、ここにいる自分は無視されていくような。だれにも見えない透明人間にでもなっていくような……。  何かが動きだしている。  自分を中心に。  なのに自分とは関係のないところで。  要一はそんな奇妙な感覚に囚《とら》われていた。  そもそも要一は自分がなぜオリンピック代表に選ばれたのかさえまだ知らなかった。この日の夕刻から開かれるミーティングで敬介の説明を受けないことには、選考の基準も経緯もまったく見当がつかない。  一体、日水連はどんな方針の転換をしたのか?  なぜこんなにも早く代表を決めたのか?  要一が考えにふけっているうちに高田は去り、入れかわりにまた別の社員たちが現れては何かをまくしたてていったけれど、要一はもはや上の空で何もきいていなかった。おめでとう。よくやった。がんばれ。期待している。メダルとってこい。どうせそんなフレーズのオンパレードだ。十メートルの台に立ったこともない彼らの期待など、どうして自分が背負わなきゃならないんだろう?  結局この日、要一が記憶にしっかり留めたのは、帰りぎわに社長と交わした約束だけだった。 「MDCのだれか一人でもシドニーへ行ったら、ミズキはMDCをつぶさない。そう麻木コーチに約束したのを憶えてますか?」  わざわざ練習を休んで来たからには、せめて言質《げんち》くらいはみやげに持ち帰りたい。最後の最後に如才《じよさい》なく切りだした要一に、「いやいや、これは参った!」とおおげさにのけぞりながらも、社長は気前よく請け合った。 「もちろん約束は守るとも。君がメダルでもとってきた暁には、MDCのオリジナル水着を作ってクラブの全員に配ってもいい」 「それより、陸トレ用のマットが三年前からやぶれてるんですけど」 「すぐに新しいのを贈ろう」 「っていうか、直せばまだ使えます」  要一の挑発的な切り返しに、社長はかろうじて口元の笑みを保ったものの、その目はもはや笑っていなかった。 「エコロジカルな高校生ダイバー、か。いやいや、君はまったくユニークなキャラクターだよ」  つむじまで冷えきるような応接室からようやく解放されたのは、午後三時。ミズキのロゴ入りTシャツやらタオルやらをごっそり持たされて本社をあとにすると、敬介が要一を気づかうように声をかけた。 「慣れない経験で消耗しただろう。私のときもそうだったが、五輪は巨大な波のようなものだ。気をゆるめればたちまち呑《の》みこまれてしまう」  右耳から入ってきたその言葉を、要一は左耳から落とすように首をかたむけた。 「あの頭の弱そうなCMが最初の波ですかね」  敬介は表情をこわばらせながらも生まじめに対応した。 「コマーシャルの話は私も今朝きいたばかりで、正直、驚いているよ。正式な話が来るまではなんとも言えないが、しかし、まだまだマイナーな飛込みを人々の目に触れさせるチャンスではあるんじゃないのかな。何にせよ、衆目を集めるのは悪いことじゃない」 「あのCMをきっかけに飛込みブームでも起こそうってわけですか」 「一人でも二人でもいいんだ。君のコマーシャルを見てだれかが飛込みをやってみたいという気持ちになってくれたら、それだけでいい。選手層の拡大は飛込み界全体の宿願だからな」 「そのわりに日水連は若手の育成に消極的で、たいした強化費もだしてくれませんけどね。選手のかせいだ賞金やCM出演料はしっかり回収するくせに」 「一時的にプールするだけだ。君らの引退後には返してくれる」 「何割かをピンハネした上で、ですけどね」  毒づく要一を敬介は瞳《ひとみ》で牽制《けんせい》した。 「日水連のやりかたに君が懐疑的なのは知っている。しかし、君を代表に選出したのはその日水連であることも忘れるな」 「選んでもらったんだから文句を言うなって?」  敬介は答えず目をそらし、慣れない革靴を運ぶ足を速めた。  MDCにとって日水連はミズキと同様、決して歯向かうことのできない大組織だ。全国のSC《スイミングクラブ》にDC《ダイビングクラブ》、学校団体から個人サークルに至るまで、水泳に携わるすべての集団を統率する日水連に盾ついて、いいことなどひとつもない。足早に前を行く敬介の背中はそう語っている。  ビルの谷間を走る風は生暖かく、ときおり足下に現れる影もなんらかの遮断物ですぐ消えた。急ピッチで歩きつづける敬介の、今にも見失いそうな背中を追うべきか、それともこのまま見失うべきか要一は迷った。迷っているうちに信号が赤になり、横断歩道の前で足を止めた敬介に自然と追いついた。  目のすみに要一をとらえるなり、敬介は勢いよくふりむいて言った。 「ところで、マットの件はよく言ってくれたな。私もずっと気になっていたんだ。あれが直れば、みんな喜ぶぞ」 「はあ」  見事な話題の転換に要一がたじろいでいるうちに信号が青になり、二人は再び同じ歩調で歩きだす。  敬介といると要一はいつもスプリングボードの先でぐらぐらとゆられている気分になる。 [#改ページ]   2…ARE YOU OK?  くだんのミーティングは午後六時からミズキスポーツクラブで開かれることになっていた。クラブへ直行する父と新宿で別れた要一はいったん家にもどり、六時までの空き時間にジョギングと筋トレで軽く汗を流した。どうせなら早めにクラブへ行って陸トレをすればいいのだが、代表からもれた知季たちと顔を合わせるのはやはり気が重い。いつもならぎりぎりセーフの時刻に自転車へ飛びのった要一が、この日にかぎって五分ほど遅刻したのもそんな物憂さのせいかもしれない。  午後六時五分。いつになく神妙な面持ちで要一が視聴覚室の戸を開けると、狭い室内にはすでにコーチが三人とクラブメイトが三人、深い穴の底のような静けさの中でむかいあっていた。  パイプ椅子の上の六つの顔が一斉に戸口をふりかえり、要一はたまらずに目をそらす。  自分は勝った理由をききに、知季たちは負けた理由をききにここへ来た。ふだんより赤く見える知季の目に、レイジのこわばった口元に、その隔《へだ》たりを痛感した。  と、ふいにそのとき、パチパチと大きな拍手が鳴りわたった。 「オリンピック内定、おめでとう。しっかりコアラ抱いてこいよ」  見ると、ついきのう津軽からもどったばかりの飛沫が、パイプ椅子にふんぞりかえって両手を打っている。この急展開をどうとらえているのかは知らないが、その顔には津軽で会ったときのような苦悩の色はない。  要一は妙にほっとして飛沫に笑いかけ、右端の空席へ腰かけた。  とたん、それを合図のようにして敬介が口火を切った。 「もうきいていると思うが、昨日、次期五輪の飛込み代表が決定した。まだ内々の話だが、その事実が伝わった以上、君たちにも納得のいく説明をするのが私の義務だと思ってな。こうして集まってもらったわけだ」  いつにも増して表情のかたい敬介は、ある意味、敗者には酷《こく》でもあるこの会をあえて事務的に進めようとしているようにも見える。 「まずは今回、日水連の五輪代表選考委員会が例年よりも早い時期に代表を選出したことについてだが……」  敬介の声に、知季とレイジがぴくりと顔を上げた。 「君たちが最もいぶかっているのはそこだろう。通常、オリンピックイヤーの春に開かれる代表選考会が、なぜ今回にかぎって行われず、こんなにも早く会議で代表が決まったのか。たしかに解せない話だろうが、しかし、これには日水連側にもそれなりの事情があるんだ」 「事情?」  要一が片眉《かたまゆ》を持ちあげた。 「五月に就任した日水連の前原《まえばら》会長が、メダルの獲得に並々ならぬ意欲を燃やしているのは君らも知っているね。彼のやりかたには賛否両論あるが、待っていてもメダルは転がりこんでこないのは事実だ。とくに飛込みのような採点競技の勝負は本番の前からはじまっている」  採点競技の勝負。敬介の語るそれは飛込み競技の常識であり、宿命でもあった。飛込みはシンクロナイズドスイミングと同様、試合のはじまる前からある程度、結果が決まっている。事前にどれだけ選手の名前を売っておけるか、その実力をジャッジにアピールできるかが勝負の鍵《かぎ》をにぎる。ぽっと出の新人が突然オリンピックへ現れても、ジャッジは決して高得点を与えない。たとえその新人がどんなにぬきんでた演技を見せても、だ。  つまり、オリンピックで良い成績をあげるには、それ以前に名の通った国際大会で活躍しておく必要があるのである。 「日水連が今回、例年よりも早期に代表を選出したのはそのためだ。来年は五輪の前に、ふたつの大きな国際大会が開催される。一月にニュージーランドで開かれるFINAのワールドカップと、五月にフロリダで開かれるFINAのワールドシリーズだ。孫《ソン》コーチの助言もあって、日水連はこの二試合に五輪代表を送りこむことにした。そのためには年内に代表を選出しておく必要があったというわけだ」  そこまでを一気に語ると、敬介は額に浮いた汗をトレーナーの袖《そで》でぬぐった。初秋とはいえ、まだ湿度は高く、風を通さない視聴覚室はじっとりと蒸している。窓を開ければいいという単純な打開策に気づく者もいない。 「ぼくたちはオリンピックにでたいでたいってそれだけだったけど、日水連はでたあとの成績にまでこだわってた。そういうことですよね」  息づまる沈黙をやぶったのはレイジだった。 「でも、そんなにメダルがほしいんだったら、なんで日水連は代表を二人にしたんですか? 三人のほうがメダルの確率も高いのに」 「人数を増やせばメダル獲得の確率も上がるとはかぎらない。実際のところ、日本がメダルを獲得するためには、代表を寺本一人にしぼるのが一番なんだよ」 「寺本さん一人に?」 「寺本はすでに世界に名の通ったダイバーだ。このままいけばメダルも決して夢ではない。しかし、さっきも言ったが飛込みはジャッジへの印象が重要な鍵をにぎる競技だ。へたな同国人を出場させて失敗でもされたら、日本人はこんなものかという悪印象を与えて、寺本の点まで辛くされかねない」 「……」  厳しい現実を前にレイジが口をつぐむと、「いやな話だ」と飛沫が横からぼやき声を吐きだした。 「オリンピックは参加することに意義がある、なんてだれが言ったよ」 「べつにオリンピックにかぎった話じゃないし、今にはじまった話でもないんだぜ」  即座に言い返したのは要一だ。 「日水連はもうだいぶ前から、一部の実力者以外を国際試合から締めだしてる。たとえ選手が自力で遠征費を用意したとしても、日水連の推薦がなけりゃ国際試合へはでられないんだ。入賞圏内にいる日本人選手の足を引っぱられたらこまるから、日水連はよほどの選手でなきゃ大きな大会には推薦しないよ。一部の実力者を守るためにその他大勢を犠牲にする。それがやつらのやりかたなんだ」  要一の声が怒気を帯びていたのは、実際、彼がそのやりかたの憂き目を見てきたからにほかならない。要一はこれまでアメリカでの合宿で国際感覚を育《はぐく》みながら、幾度となく国際試合への出場を希望してきた。しかし、日水連の返答は「もう少し国内大会で力をつけてから」の一点張り。世界の舞台で戦う力は、世界の舞台で経験を積むことでしか鍛えられないのに、要一は長いことそのチャンスを与えられずにきたのだ。 「今度のオリンピックにしても、日水連が寺本さんを守ろうとすることは目に見えてた。寺本さんが一人でシドニーへ行くのがメダルへの近道だっていうのもわかる。でも……じゃあなんで日水連はそうしなかったんだ? なぜおれも代表に加えたんですか」 「日水連も、それだけゆれているということだろう」  めずらしく感情をあらわにした要一に、敬介はくぐもった声を返した。 「彼らはたしかに寺本健一郎という希有《けう》な才能に期待を集めている。しかし、かえってそれが寺本の負担になるのではないかとの声もあるんだよ。寺本は一流のダイバーだが、日本人選手特有の精神的な弱さを持っている。五輪の大舞台にたった一人でのりこんでいく重圧に彼が勝てるのかどうか……。日水連は結局、二人の代表を送りこむという安全策を選んだんだろうよ。チームメイトがいれば互いに励ましあうことで相乗効果も生まれるし、万が一、寺本がコケたときの安全パイにもなる」  安全パイ。  父の口からもれた率直すぎる一言に、要一はのけぞって笑った。笑うしかなかった。オリンピック代表の内定を知らされた瞬間のときめきが、夜道を走りながら感じたあの高揚感が無惨《むざん》にしぼんでいく。 「おれは安全パイですか。寺本さんをリラックスさせるための付き人みたいなもんですか」 「いや、それは……」 「あなたが代表に選ばれたのは、今の日本でナンバーツーの実力を持っていると認められたからよ」  バカ正直に言葉をつまらせた敬介に代わって、夏陽子が口を開いた。 「今の日本飛込み界は女子が絶不調で、男子も寺本健一郎に匹敵するほどの実力者はいない。日本選手権で万年二位に甘んじてきた金田《かねだ》が、この夏の国体を最後に引退するのは知ってるわよね? その金田を追っていた倉内《くらうち》も今は肩の故障で休んでいる。そこで急遽《きゆうきよ》、あなたの名前が浮上してきたわけ。あなたの安定した演技とキャリアはだれもが認めてるわ。しかも先月の合同合宿を通じて、富士谷要一の名前はアジアにも知れわたった。この選手ならシドニーでも戦える。孫コーチからもそう太鼓判を押された上での代表内定よ」 「でも……」 「それ以外のことはなにもかも、あなたとは関係のない外野の話だわ。半分ボケの入った大人たちなんて無視して超然としてればいいのよ」  選考の理由など気にとめず、大人たちの思惑《おもわく》から選手は自由であればいい——たしかにそのとおりかもしれないし、選考会へむけての努力が水の泡と帰した今、知季たちと同等のショックを受けているはずの夏陽子だからこそ、その言葉にはうわっつらではない重みと説得力が感じられる。が、しかし……。  何かが胸に引っかかる。それはなんだろうと考えていた要一の脳裏に、ふいに今日会った高田の顔がよみがえった。 「CM……」  ひざの上でにぎりしめた拳《こぶし》がすっと冷たくなった。 「あのCMの話……おれにでろとか言ってたあれ、まさかオリンピックの選考に関係ないですよね」  にわかに顔色を変えた要一を、しかし敬介は一蹴《いつしゆう》した。 「あるわけないだろう。バカを言うな」 「だって、おかしいじゃないですか。おれの内定が決まったのはつい昨日なのに、やつらはすでにCMの筋書きまで決めていた」 「それはそれで前々から話が進められていたんだろう」 「でも、あのドリンクは夏のオリンピックとリンクして売りだされるって言ってましたよね。もし偶然なら、あまりにタイミングがよすぎませんか」  眉間《みけん》に深いしわを刻んで敬介が押し黙る。要一の疑問に一理あるのを認め、当惑しているようだ。  見かねて割って入ったのは大島《おおしま》だった。 「あのな、要一さ、オリンピックは巨額の金を生むビッグビジネスだから、そりゃあ裏ではいろいろあるだろうさ。でも、それは表で生きるおれたちの耳には意外と入ってこないもんなんだ。おまえの内定にしても、そのCMとからんでるのかもしれないし、からんでないかもしれない。正直、おれはどっちでもいいと思うよ。大事なのはひとつだけ、さっき麻木コーチが言ったように、おまえが今、日本でナンバーツーの実力を持ってるってことだけだ。それで十分じゃないか」  本当にそうなのか?  それだけで十分なのか?  納得したわけではない。それでも要一がそれ以上の追及を控えたのは、そこに知季や飛沫、レイジの目があったからだ。選ばれた自分が選ばれなかった彼らの前でオリンピックの選考に難癖をつけている。見方によってはそれはひどく傲慢《ごうまん》な行為であるようにも思えた。  しかし、知季はそれでいいのか?  飛沫はいいのか?  レイジはいいのか?  要一は探るように彼らの顔を見まわした。何かをこらえるようにじっと足下を見すえながらも、しかし彼らは決してその何かを口にだそうとはしない。この選考に異議を唱えることは、要一の内定にケチをつけることでもあるのだ。 「今回の内定はたしかに唐突だったし、釈然《しやくぜん》としない点もあるだろう」  要一の沈黙を了解ととったのか、敬介が再び口を開いた。 「しかし、飛込みにかぎらず、スポーツとはすべからく時の運に左右されるものだ。これまでもそのために多くの先輩方が涙を呑《の》んできた。選にもれた諸君には酷かもしれんが、ここはひとつ気持ちを切りかえて、五年後のアテネをめざしてもらうしかない。今は五年後など遠い未来のように思えるかもしれんが……」  しかし、と敬介は無理やり希望をたぐりよせるように言った。 「しかし、要一がシドニーへの切符をつかんだことで、その未来が君たちに与えられたのも事実なんだ。ミズキの社長は今日、MDCの運営を今後も続けることを約束してくださったよ。MDCは存続する。君たちはまだまだがんばれる。今こそ意地を見せてくれ」  最後は祈るようにつぶやいた。  要一がシドニー行きを決めたことでMDCの首がつながった。もちろんそんなことはだれもが承知していて、だからこそ選にもれた者たちはよけいに複雑な心境だった。  要一の代表内定を心からは喜べない。  けれど心からくやしがることもできない。 「五年後のことなんてわかんないよな」  静まり返った室内に響いたのは、レイジの低い声だった。 「来年のことだって、明日のことだってわかんないのに……」  それは選にもれた全員の心の声にもきこえた。 「おい、ちょい待てよ」  今ひとつすっきりしないままにミーティングは終わり、彼らは無言のうちに解散した。  前を行くレイジの背中を要一が呼びとめたのは、一階の受付を通りすぎたあたりだった。 「おまえ、飛込み、やめたりしないよな?」  レイジの最後の一言が気になっていたのだ。 「陵《りよう》みたいに、明日から練習に来なくなったりしないよな」  レイジは鼻先まで垂れた前髪の合間からまじまじと要一の顔を見た。 「らしくないね、そういうの」 「あ?」 「そんなこといちいち気にするの、要一くんらしくない」 「そうか?」 「うん。要一くんがオリンピック代表に選ばれたせいでぼくが飛込みやめるとか、そんなふうに心配してるんだったらやめてね」 「そんなこと……」  ない、と言いかけて要一は黙った。最後まで言いきれない何かがたしかに胸の中にあった。 「大丈夫」と、レイジは逆に要一を励ますように笑う。「たしかに今回のことはショックだったし、くやしかったけど、でもぼく、トモたちとはちがってわりと自分の限界わかってやってきたから。合宿を逃した段階でオリンピックはほとんどあきらめてたし。要一くんはへんなこと気にしないで、シドニーでがんばってきてよ。ぼく、要一くんにはいつもかっこよく先頭を突っ走っててほしいんだよね」  いつも小犬のようにプールサイドを駆けまわっていた後輩。三つの歳の差が人と猿のような開きに感じられた時代も今はすぎて、いつのまにかレイジもひどく大人びた目つきをするようになっていた。  調子を狂わせて立ちつくす要一に、「それよりも」とレイジは言った。 「心配するならぼくよりトモのほうだよ。あいつ、昼間に麻木コーチから代表内定の話をきいてから、ちょっと異常なんだ」 「異常?」 「なんかぼんやりしちゃって、魂ぬけてるっていうか。さっきの説明会でも、なんもあいつ言わなかったでしょ」  言われてみればそうだった。あまりに影が薄かったため、知季がそこにいた記憶さえ残っていない。 「わかった。トモ見つけたら、なんか声かけとくよ」  軽く請け合ってみたものの、レイジと別れた要一が視聴覚室まで引き返したときには、知季の姿はすでに消えていた。帰りに家を訪ねてみようかとも考えたけれど、今は自分の顔など見たくないだろうと思いなおし、要一は一人、自転車を走らせて帰路についた。  勝つたびに、一人になっていく。  そんなのはいつものことだった。  勝つというのはそういうことなのだとわかってはいたけれど、しかし、この日はあまりにもいろいろなことがありすぎた。  ハンドルをきつくにぎりしめ、猛スピードで夜陰をすりぬけながら、要一は巨大化していく雪だるまから必死に逃げているような錯覚にかられた。 [#改ページ]   3…STAR KNOWS  言葉じゃうまく表せない。  自分でもよくわからない。  でも、何かが心に引っかかる。  頬にできかけたニキビみたいに。  シャツのシミみたいに。  切れかけた蛍光灯みたいに。  だしそびれた手紙の返事みたいに。  MDCに小さな衝撃が走ったのは、その翌日のことだった。ふだんはめったに遅刻もしない要一が、突然、飛込みの練習を休んだのだ。ほかのクラブメイトには日常茶飯事でも、要一がそれをするとたちまち事件になる。  きっかけは持病の頭痛だった。ときおり後頭部を襲う鈍い痛みに、要一はもう何年も悩まされてきた。それは波のように寄せたり引いたりをくりかえし、やがては去っていくのがいつものパターンだが、その日は耐えがたい大波がいつまでも続いた。  それでもいつもの要一なら、そんな痛みは精神力でのりこえ、だれにも不調を悟られずに練習をやりぬいていたはずだ。が、その日は頼みの精神さえもズル休みに加担した。普段ならなんとしても練習にでようとするその「なんとしても」が、いっこうに姿を現そうとしない。  どうやらおれは練習を休みたいらしい。なにげなくそう思った瞬間、要一はひどく驚いた。練習を休む。自分にそんな選択肢があったことを初めて知ったかのように。  しかし実際に放課後、まっすぐ家へ帰ってベッドに寝転んでみると、ズル休みなんてべつにたいしたことではなかった。たいしたことではなかったという事実にも大変驚かされた。  さらに驚いたのは、MDCの練習からもどった敬介が、無断で練習を休んだ要一をとがめようとしなかったことだ。  敬介だけではない。部屋からでようとしない要一に夕食を運んできた頼子も、今日のことを敬介からきいていないわけがないのに、それについてまったく触れようとしない。 「急に五輪代表に決まったことで不安定になっているんだろう。ふつうなら喜んでやる気をだしそうなものだが、あいつは難しい。しばらくそっとしておこう」  敬介のそんな忍び声がきこえてくるようだった。  難しい。要一は幼いころから敬介にそう形容され続けてきた。多少ひねくれたところがあるのは認めるものの、自分ではそう特別に気難しいつもりはないのに、ただ明快な体育会系気質ではないというだけで、父の目にはまるで太宰治《だざいおさむ》のように映るらしい。  恐らく敬介が求めていたのは、からりと明るく、単純でわかりやすく、正月には一緒に餅《もち》つきでもするような息子だったのだろう。頼子の運んできた夕食——緻密《ちみつ》にカロリー計算された野菜中心の手料理を食べながら、理想とかけはなれた自分の扱いに苦心する父を要一は哀れにも滑稽《こつけい》にも思った。  もしもこのままおれが練習を休みつづけたら、あの人は一体どうする気だろう?  かつてない事態に直面した敬介の反応に、要一はにわかに興味をわかせた。  だからというわけではないが、翌日も彼は練習を休んだ。 「おい、どうしたよ」  高校の廊下で要一が飛沫に呼びとめられたのは、練習を休んで三日目の休み時間のことだ。 「続けて練習休むなんて、あんたらしくないな。風邪でもひいたのか?」  飛沫とは同じ桜木高校の同級生だが、クラスは別々で教室も離れているため、校内ではほとんど顔を合わせることもない。たまたま出くわしても「よっ」と声をかけあうくらいのもので、廊下で立ち話などをするのは稀《まれ》だった。 「天王星の影響で、今月の獅子《しし》座には水難の相がでてるんだ」  要一の軽口を飛沫はつまらなそうにききながした。 「おれが津軽からもどったとたん、オリンピック代表は決まるわ、ライバルは練習に来なくなるわ……ひでえ話だよ。あんた、CMタレントに転向するなんて嘘だよな」 「CMタレント?」 「小学生たちが騒いでるよ。あんたのシドニー行きはすでにクラブ中に知れわたってる。その影響か一気に五人も入会希望者が来たって、うちの同居人がたまげてた。あんたはスターなわけだ」 「スター……」 「ちなみにその同居人はあんたのこと、燃えつき症候群じゃねーかって心配してるぜ。オリンピックの出場権を手に入れたとたん、急に脱力して灰になったってやつ」  要一はため息を吐きだした。自分の知らないところでいろんな人間がいろんなことをほざいている。 「冗談だったらおもしろいけど、本気だったらつまらなすぎるって大島さんに言ってくれ。金メダルとったならともかく、出場権くらいで灰になるかって」 「じゃあ、やっぱりCMタレントに……」 「なるか、アホ」 「だったら、なんで練習に来ないんだ? あんた、なに考えてんだよ」 「それがわかんないから試してるんだよ」 「あ?」 「なんでかわかんないけど急に練習にでたくなくなった。こんなこと初めてだから自分でもとまどってる。いったいこれはなんなんだ、って。実際、休んでみればわかるかなって、それを実行してるだけ。ま、実験期間っていうのかな」  わっかんねーなあ、と飛沫は悩ましく腕を組み、いいよわかんなくて、と要一がひらひら掌をゆらした。廊下の真ん中でむかいあう二人を、行き交う女生徒たちがチラチラと横目でながめていく。大柄の野生児とスマートな美男子。理解しあうにはあまりにもかけはなれた二人かもしれない。が、しかし……。 「わかんねーけど、ま、いっか。考えてみりゃおれも津軽でずいぶんサボったし、あんただって休みたいときは休めばいいんだよな」  故郷の陽射しに焦がされた肌から白い歯をのぞかせ、飛沫は「でもさ」と言いそえた。 「でも、これだけは言っとくぜ。おれはあんたや坂井《さかい》ともう一度飛ぶためにもどってきたんだ。あんたらとまた戦えるなら、舞台はシドニーでも辰巳でもこの学校のプールでも構わない。でも、あんたがいなきゃ何もはじまらないんだ」  力強く言いきる飛沫の吹っきれた瞳《ひとみ》を、今の要一は正視するのがつらかった。  腰の故障に苦しみ、一時は津軽へ逃げ帰りながらも、再び飛込みをやるためにもどってきた飛沫。その直後にオリンピックの代表が決まり、落胆していないわけがないのに、それでも彼はまだ飛ぼうとしている。  そのタフな心が、まっすぐにライバルを励ます健全な精神が、敬介が泣いて喜びそうなスポーツマンらしさが、すべてが今の要一にはすがすがしすぎて、つらかった。 「トモくんからお花が届いたわよ」  と、学校から帰るなり頼子に告げられたのは、さらにその二日後のことだ。 「オリンピックおめでとうって、お祝いのお花。トモくんもしゃれたことするわよねえ。あなたのお部屋に飾っておいたわよ」  頼子は非常勤職員のため、日水連の仕事には行ったり行かなかったりだが、要一が練習を休みはじめて以来、ふしぎとずっと家にいる。挙動不審な息子を見張っているのだろうか。  母のべたついた視線をふりきって、要一は知季の花を見に行った。  要一の自室は一階の角部屋だ。一人っ子だからということもあり、八畳近くある洋間を悠々と使っている。ただしトレーニングルームも兼ねているため、板張りのまま絨毯《じゆうたん》は敷かず、家具も極力少なめにしていた。  そのがらんとした部屋で要一を迎えたのは、勉強机の上から高貴な光をふりまく薄紅色の胡蝶蘭《こちようらん》だった。 「胡蝶蘭……」  トモのやつ、銀座のスケベジジイでもあるまいし……。  要一は目を点にしてその場違いにゴージャスな鉢植えに見入った。  花なんて、ふつうの切り花で十分なのに。いや、そもそも花を贈ったりすること自体が知季らしくない。 『オリンピックおめでとう。知季』の短いメッセージを前に、要一は妙な胸騒ぎを覚えた。知季が異常だ、とこの前レイジがもらしていたけれど、たしかに平常心で胡蝶蘭は贈らないだろう。  気になった要一はその夜、MDCの練習が終わる時間を待って知季に電話をした。 「胡蝶蘭、届いたぜ。サンキュー。おかげでこれからは毎日、王子様みたいな気分で暮らせそうだよ」  冗談ごかしてみたものの、返ってきた声はかたかった。 「遅くなっちゃってごめんね。ぼくまだお祝いも言ってなかったし、なんかしなきゃと思ってたんだけど、どうすればいいのかわかんなくて……。やっぱりお祝いといえば花かなって思ってヒロに相談したら、インターネットでいろいろ調べてくれて、胡蝶蘭っていうのが一番豪華そうだったからそれにしたんだけど……ほんとに豪華だった?」 「モチ、豪華|絢爛《けんらん》。でも、高かっただろ?」 「大丈夫。お父さんとお母さんが半分ずつだしてくれたから」 「おまえ、だしてねーじゃんか」 「うん。ごめん」 「いや、いいんだけど」 「……」  知季の声にはいつもの明るさがなく、要一もいまいち調子がだせずに、二人の会話はたちまちゆきづまった。受話器のむこうからは知季のスローな息づかいだけがきこえてくる。  沈黙に耐えかねた要一が「じゃーな」と電話を切ろうとした直前、ようやくかすれた声がした。 「要一くん、なんで練習に来ないの?」 「月の影響で、今週の獅子座は高いところに上っちゃいけないんだ。まして飛びこむなんてもってのほかだって」 「じゃあ、来週は来る?」 「……」 「やっぱりうちのクラブは要一くんがいないとダメだよ。なんかピシッとしないっていうか……ね、来週は来る?」 「星にきいてくれ」  軽くかわして、「じゃーな」と切りあげた。コードレスフォンの電源をオフにしてからも、要一の耳には覇気のない知季の声が張りついていた。  まだ小学生のころ、要一がジュニアオリンピックで二度目の優勝をしたとき、知季は要一以上に浮かれはしゃいで翌日、大熱をだした。要一が中学校選抜で優勝するたびに、誇らしげに胸を張って自分のことのように自慢してまわった。  その知季が、今回は人づてのメッセージと胡蝶蘭である。  この贈りものを手放しで喜ぶ頭の構造を要一は持ちあわせていなかった。  何かが心に引っかかる。  伸びすぎた爪みたいに。  欠けたグラスみたいに。  机のらくがきみたいに。  一度だけ鳴って切れた電話みたいに。 [#改ページ]   4…NEXT STAGE COMMING  結論からいうと、要一のズル休みは一週間で幕を閉じることになったのだが、それは頭痛が完治したからでも、知季に胡蝶蘭を贈られたからでも、ましてや獅子座の運勢が急上昇したからでもなかった。 「君にも君なりの考えがあるのだろう。が、しかしこのへんにしておいてくれ」  練習を休みはじめて一週間目の朝、ついに敬介がしびれを切らしたのだ。  要一は心のどこかでこの日を待っていたようにも思う。いつ父が爆発するのか、あるいは泣き落としにかかるのか、と。けれど敬介が切りだしたのはあくまでもMDCのヘッドコーチとしての話であり、要望であった。 「私は立場上、君がこれ以上練習を休むのを見過ごすことができない。たった一日筋トレを怠《おこた》っただけでどれだけ調子が狂うか、それをとりもどすのにどれだけ時間がかかるか、君も知らないわけじゃないだろう。しかも今、君は次の試合へむけて調整に入らねばならない時期にきている」 「次の試合?」 「日水連は十一月に四人の中国選手を招聘《しようへい》し、日中親善試合を開催する。昨日、正式な発表があったんだ」  朝食の支度が調ったテーブル越しに、敬介と要一は互いの顔色を注視した。  敬介はまだすべてのカードをだしきっていない。そう直感した要一は表情を変えずに話の続きを待った。 「そして……」  案の定、敬介は次のカードをめくった。 「そして日水連はその日中親善試合の成績をもとに、試合後、寺本健一郎と君の五輪代表内定を公にする予定だ」 「試合の成績をもとに? そんな……まだ試合もやってないのに、成績なんてわかるわけないじゃないですか」 「ああ、わからん。しかし予測はできる。できると前原会長は踏んでいる。今回、孫コーチがつれてくる四人の中国選手はまだまだ若手の予備軍だし、寺本の優勝はまちがいないだろう。金田と倉内がぬけた今、よほどの番狂わせでもないかぎり君の二位もかたい。たとえミスを犯しても、君なら三位か四位には踏みとどまる。あとは君の経歴や将来性を担いで期待のホープとするだけだ」  敬介は投げやりともとれる声をだし、眉間《みけん》のしわを指先でつまんだ。 「そんな……」  代表内定を知らされて以来、要一の中に積もっていく冷たいもの。氷のような、ガラスのようなそれが、また要一の一部を凍らせた。  大人は汚くて子供は純粋だ、なんて単純に考えているわけじゃない。これまでさまざまな飛込みのイベントに参加してきた中で、要一は大人たちがいかに政治的に動いたり、世間体を気にして狡猾《こうかつ》に立ちまわったり、かと思うと行きあたりばったりのその場しのぎをしたりするものか、幾度となく思い知らされてきた。それが生身の人間の営みというものだろうし、要一だってそんな彼らのお膳立《ぜんだ》てした舞台で飛んできたのだ。が、しかし……。 「もしもおれが負けたら? 寺本さん以外の日本人選手におれが負けたら、そしたらオリンピックの代表権はどうなるんですか」  要一の鋭い眼光に、眉間をつまむ敬介の指先が硬直した。 「君の内定は決まったことだ。日水連が問題にしているのは、それをいつ、いかにスムーズに公表するかということだよ。今回は改まった選考会もないから、正直、発表のタイミングが難しかったんだ。そこへ孫コーチが良い頃合いで日中親善試合を提案してくれたわけだ」 「だから、もしその試合でおれが負けたら?」 「だから、内定はすでに決まっている」  からみあう二人の視線が険しさを増した。 「たとえその試合で寺本以外の日本人選手が君を負かしたとしても、これまでの総合的な成績からすれば君のほうが上であることは明白だ。六位以内に入賞さえすれば、そのキャリアを根拠に君を推すことは難しくない」 「もし入賞できなかったら? その試合でとんでもない大ぽかを連発させたら? それでも連中はおれの内定をゴリ押しするわけ? じゃあ、その試合にでるほかの選手たちはなんなわけ?」  興奮のあまり声が裏返った。グラスの水がぐらぐらとゆれて、見ると、テーブルを震わせているのは自分の腕だった。要一くんにはいつもかっこよく先頭を突っ走っていてほしいんだよね、と言っていたレイジを思いだす。あんたとまた飛ぶためにもどってきた、と言っていた飛沫を思いだす。知季に贈られた胡蝶蘭を思いだす——。 「だったらいっそ、その日中親善試合をオリンピック代表選考会にすりゃいいじゃねーか」  要一があえぐように言うと、敬介は首を縦にかたむけ、それからゆっくりと今度は横にゆらした。 「君も骨身に染みているだろうが、飛込みの試合では何が起こるかわからない。優勝候補の花形がどん尻《じり》まで転がり落ちることもあれば、無名の新人がトップをさらっていくこともある。メダル獲得のために慎重を期している前原会長は、たった一度の試合で代表を決めるような危険を冒したくないんだ。……恐らくな。本当のところ、組織のすることは私にもわからん」  疲れた面持ちで歎息《たんそく》し、「しかし」と自らを奮いたたせるように言う。 「ひとつだけ確実にわかっていることがある。君は……富士谷要一は、大事な試合で決して大ぽかをしない」  ぐらついていた要一の焦点が敬介に定まった。 「なんでわかる?」 「ミスのない確実な演技。それが君の最大の武器だからだよ」  ほめられているわけじゃない。これは決してほめ言葉なんかじゃない。敬介が好むのは安定したダイブよりもむしろ、荒っぽい中にも何かがきらりと光る魂全開の沖津飛沫風ダイブであるのを要一は知っていた。が、それでも父が自分の「ミスのない確実な演技」に何かを託していることだけは伝わってくる。 「君はその武器を遺憾《いかん》なく発揮し、日中親善試合に勝って堂々とシドニーへ行ってくれ。君の五輪出場にはMDCの存続がかかっている。プールサイドをひょこひょこ駆けまわっている小さなダイバーたちの未来がかかっているんだよ」  たったひとつの角度から、たったひとつのものだけを守りつづける父を前にして、要一は徐々によせてきた頭痛の波に耐えながら「わかってる」と目を伏せた。  わかってる。そんなことはとっくにわかっている。だからこそおれはなんだかんだ言いながらも結局は練習に復帰するのだろうし、いまだ釈然としない代表内定の選考についても、これ以上ほりかえすことができずにいるんじゃないか……。  ささやかな反乱はこうして幕を閉じ、その日の放課後、要一は桜木高校飛込み部の面々と辰巳の水泳場へおもむいた。桜木高校の屋外プールが閉ざされ、練習の場が辰巳の屋内プールに移ってから一度も顔をだしていなかった要一は、七月のアジア合同強化合宿メンバー選考会以来、ほぼひと月ぶりに辰巳を訪れたことになる。  冴《さ》えない顔つきでプールサイドへ足を進めた要一は、しかしその瞬間、あれだけ練習を拒んでいた体にあっけなく寝返られた気がした。  ひさびさに吸いこむ水の匂い。  屋内プール特有の蒸せかえるような薬品臭。  海で育った飛沫が潮の香りにときめくように、プールで育った要一にはこの人工的な薬品臭が故郷の匂いだ。久しぶりの里帰りに全身が落ちつきを失い、慣れ親しんだ水の感触を求めて皮膚がざわめきだす。炎天下の砂漠でオアシスを見つけた旅人のように逸《はや》り立った要一は、高ぶった状態のまま飛込み台へ立つ危険を冒さぬよう、まずは競泳用のメインプールを数往復してクールダウンし、それから本格的な練習を開始した。  MDCに所属するかたわら桜木高校飛込み部にも籍を置いている要一は、通常、プールでの練習は飛込み部と、陸トレはMDCの面々と行っている。父親がコーチではやりにくいのだろうと勘ぐる声もあるけれど、要一としては単純に、敬介のコーチングに疑問を覚えているだけだ。大切なのは気迫だ、とつねづね口にしている敬介は、どんな失敗も挫折《ざせつ》もすべて気持ちの問題に置きかえてしまう。飛込み部の阿部《あべ》コーチはまだ若く、マニュアルどおりのことを言うだけだが、偏《かたよ》りや押しつけのない彼女のコーチングを要一は選んだのだ。  この日も、阿部コーチの指示に従って準備体操を行い、ペアを組んでの念入りな柔軟を終えると、要一はプールサイドで幾度か「かかり入水」の練習をし、それからようやく飛込み台の階段を上った。  ひさびさに見上げる天敵のような、旧友のようなコンクリート・ドラゴン。天井からのライトに照らされたその頭上からは、すでに知季やレイジたちが飛込みをはじめているけれど、その列に加わるのはまだ早い。  まずは三メートルのスプリングボードから。  次は五メートルの飛込み台。  続いて七・五メートル。  それからようやく十メートル。  要一は欠かさずこの手順を踏んでいる。それだけ慎重に、着実に自分の調子をたしかめていく。敬介はよく「鳥の気持ちになれ」「魂で舞え」などと言うけれど、そんなことでいい演技ができるのなら、だれも毎日練習になど通わない。  飛込みは、精神と肉体の緻密《ちみつ》な共同作業だ。腕の筋肉。足のバネ。回転のキレ。踏みきりから入水までの動きを司るリズム。それらはまるで生き物のように、日々、変化して要一をまごつかせる。この一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない生き物たちを精神力でねじふせ、全機能が完全に調和した演技をなしえたそのとき、要一は自らをコントロールした勝利のエクスタシーに酔うことができるのだ。それはピアノの調律師が鍵盤《けんばん》の音を調え、美しいハーモニーを醸《かも》しだす作業とどこか似ている。  しかし、この日は不協和音の連続だった。精神と肉体がちぐはぐで、ひとつひとつの機能が指令どおりに動かない。一週間のブランクで体がなまっているのか、通常ならば筋力で防げるミスが防げない。入水のタイミングも合わず、まるで飛込みの勘そのものが狂ってしまったようだ。  あせってはいけない。ここであせると自滅する。要一は自分に言いきかせながら基本種目を二、三十本ほど飛んでみたけれど、やはりいつもの勘はもどらず、ついにはひどい失敗をして激しく水に打たれた。  雷に打たれたようなショックが体を駆けぬけ、最初の衝撃がしびれに、しびれが痛みに変わっていく。  ひさびさに味わうこの激痛——。  喉《のど》の奥まで流れこんだ水にむせかえりながら、要一は這々《ほうほう》の体でプールサイドにたどりつき、真っ赤に染まった体を水から押しあげた。 「あるのねえ、富士谷くんでも水に打たれることなんて」  プールサイドでぐったりしていると、木から落ちた猿でもながめるように阿部コーチがやってきた。 「初めて水に打たれたときは飛込みやめようと思ったけど、いまだに思います、打たれた瞬間は」  要一がぼやくと、阿部コーチはほほえみ、 「だれだってそうよ、そのときばかりはね。でも、ここはひとつ建設的に失敗の原因を考えてみない?」 「踏みきりのリズムが悪かった。おかげで飛びだしが乱れて、回転と入水にそれが響いた感じ」 「ご名答。でも、いつもの富士谷くんなら少しくらい飛びだしが乱れても、空中で調整できるはずなんだけど……。やっぱり一週間のツケは大きいのかな。まあ、ゆっくりとりもどしていきましょう」  阿部コーチが去ってから、要一がふとプールサイドの対岸に目をやると、首からホイッスルを下げた敬介と視線が交わった。望みどおりに練習へ復帰したにもかかわらず、さっきの失敗を見ていたのか、敬介は苦い表情をしている。鳥の気持ちが足りない、とか、魂がこもっていないからこんなことになるんだ、などと思っているのか……。  要一は大きく息を吐き、敬介からそらした視線を場内にさまよわせた。  そして初めて、そこに飛沫と麻木夏陽子の姿がないことに気がついた。 「ああ、飛沫なら今日は麻木コーチと腰の電気治療に行って、それからバレエのレッスンだよ」  休み時間、大島をつかまえて飛沫の所在を尋ねたところ、飛沫の同居人はさらりとそう言った。 「はあ、バレエのレッスンですか」  つられて要一もさらりと流しそうになったが、奇妙な感触が耳の奥に残り、少々遅れてぎょっとした。 「バレエって……あの、アン・ドゥ・トワのバレエっすか?」 「ああ、そうだよ。サーブ・レシーブ・アタックのバリボールではなーい。ま、もちろんまだまだ入門編だけどな」 「でもなんで……あいつ、バレリーナになるんすか」 「なるか、バカ。トレーニングの一環として組みこんだだけだよ」 「ああ」  言われてみれば、そうだった。  日本ではあまり耳にしないものの、ロシアの飛込み選手はみな幼少時よりバレエを習っているし、中国でもバーレッスンなどを積極的にとりこんでいる。アメリカにも毎日の練習にクラシックバレエを入れているDCがある。バレエのレッスンは空中におけるバランスのとりかたや爪先の伸ばしかた、瞬間的な筋肉の使いかたなどを養うのに効果的な上、指先のこまやかな表現力を培《つちか》うのにも役立つからだ。 「でも、それにしても……」  あの沖津飛沫がクラシックバレエ!  まるで象がタップダンスを、虎がオカリナを、オランウータンが草木染めを習っているようなものではないか。 「もちろん言いだしたのは麻木コーチで、飛沫はいやがるかと思ったら、意外とあっさり承知した」  言いながら大島は要一の肩に手をかけ、「体、冷えてんぞ」とジャグジーバスへうながしていく。 「ま、だいぶしぼられてるみたいで今はまだレッスンのたびにげっそりしてるけど、麻木コーチは張りきってるよ。あの腰じゃ新しい種目も作れないから、そのぶん表現力を伸ばして手持ちの技に磨きをかけようって苦心の策だろう」  大島がバブルバスの戸を開けると、浴槽にひしめいていた休憩中の小学生たちが「富士谷要一だ!」「オリンピック選手だ!」と一斉に要一を指さした。入会希望者が増えたというのは本当らしく、知らない顔がいくつも目にとまる。 「パンダじゃねえぞ! おら、さっさと練習にもどれ」  大島の一喝で小学生たちは瞬く間に霧散し、二人は冷えた肩を並べて湯に沈めた。 「まったく、麻木コーチも飛沫もよくやるよな。けど、飛沫のダイナミズムにバレエの技術が加味されたらどうなるのか、正直、おれも早く見てみたいよ。十一月の日中親善試合が楽しみだ」 「日中親善試合? あいつ、あの試合にでるんですか」 「ああ、でるよ」 「でも、あの試合は……」  あれは寺本健一郎と要一のためにあるような試合だ。そこでどんな活躍を見せようと、飛沫にオリンピックの代表権がまわってくることはない。 「わかってるよ、おまえの言いたいことは」  要一の困惑顔に大島が指先で湯を飛ばした。 「飛沫だってそんなことはわかってる。トモやレイジもそれを承知で、あの試合にでる気でいるんだ」 「あいつら……くやしくねーのかよ」 「くやしいからでるんだよ。試合にでて、日水連のぼんくらどもに自分の力を見せつけてやりたいんだ。そうした怒りのエネルギーってのはバカにならないもんで、トモもレイジもここんとこ猛烈に練習してるよ。とくにトモなんてゾッとするほど気合いが入ってる。こないだの日曜日なんて、あいつ、二百本も飛んだらしいぜ」 「二百本?」  要一は耳を疑った。  たしかにかつては練習中、飛込み台から飛ぶ回数が多ければ多いほどよしとされていた時代もあったようだが、今では無理のない回数の一本一本を大切に、いかに集中して飛ぶかが重視されている。個人差こそあれ、一日に飛ぶ回数は多くて百本といったところだろうか。最もハードな調整期でも百五十本がせいぜいで、二百本は超人的な練習量といえた。あの高い階段を二百回も上り、二百回も飛びこむのである。 「トモにあんな負けん気の強さがあったとはなあ」  大島はつぶやき、それから要一にむきなおって言った。 「トモはまだ十四歳だ。おまえの内定決定に刺激されてこのままがんばれば、五年後にはどんな怪物に化けてるかわからない。おまえも家でくすぶってる場合じゃないぞ」  にっと笑って、がばりと立ちあがる。 「おまえがもどってきたって知ったら、飛沫もきっと喜ぶぜ。あんまりライバルをさびしがらせんなよ」  大島が小学生たちの指導にもどっていくと、要一は今しがた耳にした話をたしかめるように、飛込み台の全景が見渡せるエリアへと歩みを進めた。  競泳用のメインプールとダイビングプールを隔《へだ》てるプールサイド。等間隔に植木の並んだその位置からは、そびえたつコンクリート・ドラゴンが真正面からよく見える。要一が瞳《ひとみ》を持ちあげたそのとき、十メートルの先端にちょうど知季が姿を現した。  麻木夏陽子のコーチ就任から七か月、なんの実績も野心もなかった少年は驚くべき変化を遂《と》げて、今では立ち姿勢にも落ちつきと貫禄《かんろく》が見てとれる。やや頼りなかった体型もぴしりと引きしまり、この数週間でまた少し筋肉をつけたようだ。  その知季の締まったボディが宙に浮き、いつもながら軽やかな円を描きながらみるみる水面へ迫っていく。  前飛込み前宙返り三回半抱え型。  この夏にマスターしたばかりの技を、すでに知季は完全に自分のものにしていた。ぐいぐいとすべてを吸収していくスピードは驚異的だ。  要一が固唾《かたず》を呑《の》んで見つめていると、三回半をまわりきったはずの体がふいに過剰な動きをし、知季は入水のタイミングを逃してひどい角度で落っこちた。  失敗。  それにしてもおかしな失敗のしかただ。空中での動きに関しては猫のような本能を持つ知季とは思えない。  怪訝《けげん》がる要一の目の先で、水から上がった知季は休む間もなく飛込み台をめざし、再びその階段をこつこつと上っていく。一連の動作には少しの無駄もなく、かぎられた練習時間内に一分でも長く、一本でも多く飛ぼうとする意志が感じられる。要一も集中が極まるとそうなる。何も見えない。何もきこえない。ただ自分とドラゴンと水だけ。この調子だと知季は今日、ひさびさに要一が練習に顔をだしたことにも気づいてなさそうだ。  しかし、ほかの選手たちが飛ぶのを待って再び十メートルの先端に姿を現した知季は、それだけ集中しているにもかかわらず、前飛込み前宙返り三回半抱え型でまたしても同じミスをくりかえした。原因はやはり入水直前の過剰な動き。  どうなってるんだ?  要一は首をひねったが、知季は失敗の原因を考えるふうもなく、憑《つ》かれたような足どりでひたすら飛込み台をめざすのみである。  知季が何をしているのか要一がハッと気づいたのは、同様に入水でくずれた三度目を目にした瞬間だった。 「あいつ、まさか四回半を……」  前飛込み前宙返り四回半抱え型——。  三回半のあとの過剰な動きは、前人未到のラスト一回転への挑戦を意味しているのではないか。  そう見抜いた瞬間、要一はすでにオリンピックの出場権を手中にしているにもかかわらず、なぜだか知季に置いていかれた気がした。 [#改ページ]   5…SLUMP  十月。夏の光線が完全に遠ざかり、プール帰りの濡《ぬ》れた髪に風が冷たく吹きつけるようになったこの時期、MDCの練習場にはかつてないほどぴりぴりとした空気がたちこめていた。  翌月へ迫った日中親善試合へむけての熱気に満ちている、というのとは少しちがう。試合前はつねに皆の期待や不安、あせり、ライバル心などがむきだしになって満ち潮のように高まっていくものだが、今回にかぎってはだれもがそれを自分の内側へ封じこめたままでいた。  意欲がないのではない。むしろありすぎて見せられない。彼らの中で育ちつづけるそれはすでに極限まで膨張し、触れれば破裂しそうな危うさを帯びていた。  中でも知季の張りつめかたは尋常ではなかった。  オリンピック代表からもれたことを知って以来、誰の目から見てもあきらかに知季は変わった。以前の無邪気さが影をひそめ、笑わず、しゃべらず、表情さえも動かさず、ただ黙々ととてつもない練習量をこなしていく。あの夏陽子が「本番前に体を壊したくなかったら、今日はこのへんにしておきなさい」とストップをかけるほどだった。  レイジもそんな知季に引きずられる形で練習に打ちこんでいた。もともと口数が多いほうではなく、マイペースにやるべきことをやるタイプのため、話し相手の知季が今の調子ではますます無口になる一方である。  この静けさに恐れをなしたのか、中一の幸也《さちや》はもうほとんど飛込み台に近よらず、一人でママさんシンクロの見物に明け暮れていた。今ではママさん同士の力関係のみならず、お気に入りママさんの家庭の事情や一身上の悩みにまで精通している。ときおり練習に加わることがあっても、小学生たちとともに一メートルのスプリングボードから飛ぶのがせいぜいだった。  結果、ついこのあいだまでは陵もいて、知季とレイジと、ときには幸也と、いつもわいわいとにぎやかだったMDCの中学生の部は、今ではすっかり静まり返っていた。  高校生の二人——要一と飛沫はどうかというと、こちらも至って静かである。  飛沫はバレエレッスンに忙しいのか、なかなかプールに顔をださない。ミズキスポーツクラブでの陸トレには毎回参加するものの、辰巳で一緒に飛ぼうとはしない。  幸也がまことしやかに流している噂によると、飛沫は現在、週に幾度か夏陽子と千葉の海を訪れ、秘密の特訓を重ねているのだという。情報ソースが幸也なだけにうのみにはできないが、あのスパルタ夏陽子がこのところ練習に顔をだしたりださなかったりしているところを見ると、まんざら根も葉もない噂でもなさそうだ。  バレエの次は、海。  一体、飛沫は何を考えているのか?  そもそもなぜ、今さら海で飛ぶのか?  気になってしかたのない要一は、直接、本人に疑問をぶつけてみようかとも思ったけれど、高校の廊下で飛沫を呼びとめようとするたび、今は人のことにかまけている場合じゃないと思いとどまった。  例の一週間にわたるブランク以来、要一はかつてないほどの絶不調に苦しんでいたのだ。  うまく飛べない。昨日までは難なくこなしていた技が、なぜだか今日はできない。何がどう悪いのか、考えても考えても……いや、考えれば考えるほどわからなくなって、そんな迷いが演技をさらにぎくしゃくさせていく。  一言でいえば、スランプ。  小二の夏に飛込みをはじめてからこのかた、要一はスランプくらいさんざん経験してきたし、ダイバーならば誰しも同じ苦しみを背負っていることも知っていた。とくに成人前の要一たちの体は、日々、微妙な成長や変化をくりかえしている。体重ならばコントロールも可能だが、歯止めのきかない身長の伸びは時として全身のバランスを狂わせ、それまで築いてきた演技の勘を非情にも奪い去る。また、知らずしらず身につけてきた癖が徐々に演技を浸食し、深刻なスランプにつながることもある。  周期的に訪れる大なり小なりのスランプの波を、しかし選手はのりこえることで強くなり、また新たなステージへと自分を押しあげる。コーチとともに悩みぬき、時には論理的に、時には体当たりで目の前の壁を突きやぶる。要一もそうしてここまできた。  しかし、今回のスランプはひどすぎた。  ごく簡単な前宙返りの入水がなぜ乱れるのか? 得意の蝦《えび》型がなぜこんなにも冴《さ》えないのか? 踏みきりに勢いがないのはなぜ? あれだけ自信のあったノー・スプラッシュがさっぱり決まらないのはどういうことなんだ!?  気が狂いそうだった。  要一は一本飛ぶごとに阿部コーチから問題点を指摘してもらい、その改善に全力を尽くした。自宅からビデオを持ちこみ、自分自身の目でスランプの原因を見極めようともした。しかし、同じことだった。ひとつ問題を克服したかと思えば、また新たな問題が発生する。しかも新しい問題のほうがつねに複雑でタチが悪いときている。  まるで体の全パーツが徒党を組んでストライキでも起こしたようだった。  これまで必死で鍛えあげてきた脚に、腹に、腕に、肩に、指先に爪先に、すべてにこの土壇場《どたんば》で裏切られた気分だ。 「なんとかしてあげたいけど……今回ばかりは自分の未熟さを思い知らされたわ。力になれなくてごめんなさいね」  一緒に頭を悩ませてきた阿部コーチもついには匙《さじ》を投げた。そのすまなそうな声は言外に、あなたには富士谷コーチという優秀なお父さんがいるのだから、とほのめかしていた。  悩んだ末に要一が敬介の意見を求めることにしたのは、苦悶《くもん》する自分を遠目にながめているだけの父が、このスランプをどう分析しているのかに興味があったせいでもある。  が、結局のところ自分は血迷っていたのだろうと、要一はすぐにその愚行を悔やんだ。 「今の君に足りないのは心の演技だ。形に囚《とら》われる者は必ず形でつまずく。飛込みによって君は何を表現したいのか、一体なんのために飛んでいるのか、それを見つめ直すことが先決じゃないのかな。もしも君が精神修行を望むなら、知り合いの寺の住職を紹介してもいい」  寺。この一言で要一はそれ以上の相談をあきらめた。  寺籠《てらご》もりというのは、自分が何を悩んでいるのかわからない人のすることのような気がする。あるいは、自分の悩みをよりはっきりとさせたい人の。要一のように悩みのポイントがはっきりしている場合、必要なのはお坊さんでも神様でもなく、そのポイントに精通したエキスパートだ。  飛込みをよく知り、目が利《き》いて、冷静な判断を下せる人物。  観念でも精神論でもなく、具体的な解決策を明示してくれる人——。  おのずと要一の頭にある人物が浮かびあがった。  いや、いずれはその人物に頼る日が来ることを、要一は心のどこかで予感してきたのかもしれない。  要一がその人物と待ちあわせをしたのは、その週の土曜日。衣替えをした制服のブレザーが重くシャツに張りつくような陽気の午後だった。  午前中で学校を終えた要一は、下北沢にあるオープンカフェのテラスで彼女が来るのを待った。  メイン通りからはずれた路地に面した日当たりのいいテラス。ヨーロッパの町角を思わせる店内は、昼どきのせいか若いカップルや学生たちの姿でカラフルに塗りつくされ、そのテーブルもまたカラフルなジュースやらクレープやらで彩られている。要一の地味なアイスコーヒーでさえ、白いパラソル越しに降ってくる太陽の粒子で金色に光っている。  優雅なひととき。隣町の東北沢に住んでいながら、要一はこれまで下北沢でこんな時間をすごしたことがない。この店を指定したのは相手のほうで、要一は慣れない雰囲気にそわそわしながらも、ものめずらしげにあっちへこっちへと瞳《ひとみ》を走らせていた。  その瞳が彼女の姿をとらえたのは、約束の十二時を十分ほどまわったころだった。 「悪いわね。梅ケ丘に幻の鍼《はり》師がいるってきいて、ちょっと話をきいてきたの。幻ってよりは魚の丸干しに近かったけど」  彼女はそう言うと同時に鞄《かばん》を床へ下ろし、椅子に腰かけると同時に千鳥格子のジャケットを脱ぎ捨て、右手でメニューを開くと同時に左手でウエイトレスを呼びとめた。 「本日のパスタランチをお願い。コーヒーは薄めで食後にね。それからお水をもう一杯」  ウエイトレスの運んできた水を一気に飲みほして、ようやく要一を正視する。まだ夏の日焼けを残したその顔は今日も華やかに色めき、せかせかしているわりにメイクに余念がない。黄色いシャツからのぞく小麦色の胸元は、毎日見ている水着姿よりもふしぎとセクシーだった。 「なんて、さっさと一人でオーダーしちゃったけど」  彼女——夏陽子は要一のアイスコーヒーを一瞥《いちべつ》して言った。 「あなたも何か好きなものを頼んで。お昼、まだなんでしょ」 「いいです。あとでなんか買って食うから」 「妙齢の女と高校生がランチタイムにカフェにいる。女だけがランチを食べている。あなたならどう思う?」 「少なくともセクハラとは思いません」 「大人の男ならたとえ満腹でもつきあってくれるわよ」 「でもおれは十七歳で、しかもダイバーだ」 「ダイバー?」  要一はその意味を示すようにテーブルのメニューを開いた。 「きのこのクリームハンバーグ、840キロカロリー。ペンネのグラタン、570キロカロリー。スパゲティボロネーゼ、680キロカロリー。オムライスのラタトゥイユ添え、920キロカロリー。クラブサンドウィッチ、950キロカロリー。フレンチトースト、680キロカロリー。ちなみにあなたが頼んだパスタランチは1480キロカロリーです」 「1480キロカロリー……」 「パスタは麺《めん》だけでも十分に高カロリーなのに、よりによってベーコンとホワイトソースですからね。しかも、デザートは高脂肪のマロンムース。冬眠前の豚だってこんなに栄養をとりません」 「さすがだわ」  夏陽子は両手を持ちあげて降参した。 「あとでなんか買って食べて」 「そうします」 「でも、豚って冬眠するものかしら」 「たんなるもののたとえです」  夏陽子はふっとほほえみ、前座のコントはこれまでというふうに「それで」と表情を引きしめた。 「なにかしら、話って」  何をどう言うか。どこから話そうか。前もって段取りを立ててきたにもかかわらず、いざとなると要一は言葉につまった。こんなふうに夏陽子と二人きりで話をするのは初めてで、それどころか若い女とのツーショット自体、要一にはとんと縁のなかった未体験ゾーンなのである。  これまで夏陽子に興味がなかったわけではない。むしろ大ありで、その存在を要一はつねに意識していたのだが、しかし彼女がコーチとして目をつけたのは知季であり、飛沫であった。要一は夏陽子を無視することでプライドを保ってきたところがある。 「ききたいことがあって……」  いざとなるとやはりプライドが先に立った。「なに?」とあごを突きだした夏陽子に、要一は段取りを無視して無粋《ぶすい》なアドリブを口走っていた。 「何をそんなにがんばってるんですか?」 「え」 「麻木コーチの目的はMDCからオリンピック代表をだすことでしたよね。そのためにトモに目をつけ、沖津を津軽から引っぱってきた。でももう代表権は確保して、MDCはつぶされずにすんだわけでしょう。目的はぶじにはたされたわけだ。なのにバレエだとか梅ケ丘の鍼師だとか、なんでまだそんなに必死こいて駆けずりまわってるんですか?」  こうして相手を挑発し、攪乱《かくらん》して自分のペースへ持ちこむのは要一の常套《じようとう》手段だ。  が、言葉で相手を言いくるめることにおいては夏陽子に一日の長があった。 「だって、あの子たちがやめようとしないんだもの」 「あの子たち?」 「坂井くんや沖津くん、それに丸山《まるやま》くん……オリンピックの代表からもれても何も言わずに飛びつづけるあの子たちを見てたら、コーチに必要なのは目的じゃなくって選手なんだってよくわかったわ」  ウエイトレスがセットのサラダを運んできた。ドレッシングはサウザンアイランド。90キロカロリーの上のせ、と反射的に加算した要一の目前で、夏陽子は豪快にばくばくと口に放りこんでいく。 「正直、私だって五年後のことまではわからないわ。結婚してるかもしれないし、妊娠してるかもしれない。毎日すっぴんで子育てに追われてるかもしれない。でも、少なくとも今の私は自由で、自分の好きなことに打ちこめる環境にある。人生の中でこんな時期って意外と短いんじゃないかしらって、最近思うのよね。この貴重な時間をあの子たちと一緒に完全燃焼させたい。今はそれだけよ」 「一生、独身でコーチを続ける可能性については考えてないんですか」 「パスタ遅いわよね」 「主婦とか似合わなそうだけど」 「だから未来の話よ。五年もあればどんな劇的変化が起こるかわからないじゃない」 「あきらめてないわけだ」 「なんであきらめなきゃいけないのよ」 「ですよね。そう思っておれも粘ってきたけど……でも、いいかげん疲れてきた」 「なんの話?」 「スランプ」  なにげなく切りだしたつもりでも、声の力みは否めなかった。 「気がついてるかもしんないけど、ここんとこずっと調子が最悪で、どうすればいいのかわからない」  夏陽子は一瞬だけフォークを休ませ、「続けて」と先をうながした。 「こんなことあんたに相談すべきじゃないのかもしれないけど、でもあんたしかいなかった。うちのおやじも大島さんもあんたのコーチングには一目置いてるよ。あんたにはコーチとしての天分があるって。それがはったりじゃないってのは、ふだんの練習やトモの成長ぶりを見てればわかる。な、あんたにならわかるんじゃないのか? おれのどこが悪いのか、なんで飛べないのか……」  せっぱつまった訴えに、しかし、夏陽子は表情を変えることもなくサラダを平らげ、続いてパスタへとフォークを伸ばしていく。  ホワイトソースのたっぷりとからまったベーコンときのこのスパゲティ。夏陽子のフォークが皿上できれいなスピンを描き、器用に麺を巻きつける。この動作から飛込みの「ひねり」の演技を連想する者など数えるほどしかいないだろう。が、要一と夏陽子はそんなマイノリティの一人だった。信頼関係とはいかないまでも、互いが互いの希少価値を認めあっている。  だからこそ相談した。  気どりもプライドもかなぐり捨てた。  空っぽの胃からせりあがってくる唾液《だえき》を押しもどしながら、要一は夏陽子のパスタ皿が空になるのを根気強く待った。 「あなたはどう思うの?」  全神経を食にかたむけていた夏陽子が、ようやく要一に目線をもどしたのは、きれいに平らげたパスタ皿に代わってマロンムースとコーヒーが現れてからだった。 「スランプの原因、あなた自身はどう思ってるわけ?」 「わからない。わからないからこうして……」 「わかる範囲で考えて」  要一は考えた。オリンピック選考の説明を受けた翌日、持病の頭痛がひどくて無性に練習を休みたくなったこと。いつもならば無理をしてでも自分を駆りたてるのに、無理をする気も起こらなかったこと。一週間、練習を休んでみた。しかし十一月の日中親善試合のためにやむなく復帰。それ以後、空前の絶不調が続いている——。 「マジ、こんなの初めてで参ってるよ。自分の中からどんどん自信がなくなってくのがわかる。これ以上なくしたらおれじゃなくなりそうだ」 「桜木高校の富士谷要一。だれもが自信家と口をそろえるサラブレッドだものね」 「血統は関係ない。自信ってのは体力や筋力と一緒で、自分の努力でキープしてくもんだと思ってた」 「でも今はちがう?」 「自信をもたらすのは努力じゃなくて、努力の成果なんだよな。成果もないのに自信なんか持てねーよ。なんでかわかんないけど、四回半に挑戦してるトモとか、バレエに通ったりしてる沖津とか見てると、よけいに自信がなくなるんだ。やたらあせって、おれだけが一歩も先に進んでない気がして……」  こんなことを愚痴ってもしかたがないと思いつつ、要一の口は止まらなかった。  いつものあの焦燥感。  先の見えない不安。  暗闇に響く足音と同様、はっきりと正体がわからないからこそ、それはよけいに要一を追いつめてきたのだ。 「自覚しているかわからないけど……」  夏陽子はマロンムースの器だけを残してようやくフォークを置いた。 「あなた、ミスダイブのときは大抵、テイクオフの瞬間にあごがゆるんでいるのよ。心持ちあごが上向きになるぶん、自然と視線も持ちあがる。そこからすべての勘が狂ってくるわけ。それから、このところアプローチのリズムに悩んでるみたいだけど、そのせいで足下に意識が集中して、上半身への注意がおざなりになってない? ジャンプが悪いのは足だけじゃなくて腕のふりにも問題があるのよ。ついでにあなた、前逆宙返りに苦手意識でもあるのかしら。ほかの種目よりも演技がかたいし、テイクオフがいつもワンテンポ遅れるんだけど」  あご。腕のふり。前逆宙返り。  次々と難点を指摘され、要一はあっけにとられて言葉をなくした。  毎日のように要一を見ていた阿部コーチですら気づかなかったことを、彼女はいつのまに見抜いていたのだろう?  戦々恐々とした思いに駆られる要一に、夏陽子は「でもね」と言いそえた。 「でもそんなのはほんの表面的なことで、問題の本質はもっとあなたの奥深くにある。あなた、富士谷コーチの精神主義が気に入らないようだけど、だれの目から見てもこのスランプは精神的なものよ」 「精神的?」 「あなたはオリンピック代表に選ばれた。でも、本当はその選ばれかたに納得していない。だから練習へでることに抵抗を覚えたんじゃないの? けれどあなたは日中親善試合のために……ひいてはMDCのために、最後まで抵抗することができなかった。心と体がバラバラ。これじゃまともに飛べるわけがないわ。あなたが坂井くんや沖津くんを見てあせるのは、シドニー行きは逃したものの、彼らが自分の意志で自分の飛込みをしているからじゃないかしら。反対に、あなたは自分の意志とは関係のないところで、ほかのだれかに用意されたレールの上にいる」 「レールの上……」 「何も考えずにそれにのっていけたら幸せだったのかもしれない。でも、あなたは立ち止まって考えてしまった。そのまま前へ進むことも引き返すこともできずにいる。このままじゃあなた、だめになるわ」 「……」  風が吹いていた。塵《ちり》が舞っていた。テラスのにぎわいから逃れるように要一が視線を上向きにすると、頭上に広がるパラソルのむこうには青々と冴《さ》えた秋の空。その空をにごすスモッグのようにもやもやとした要一の内面を、夏陽子はいとも簡単に形にしてみせた。サラダやパスタやマロンムースのように首尾《しゆび》よくテーブルに広げられてしまった。 「なんだか幻の雪みたいなんだ」  ひとり言のようにつぶやくと、夏陽子が「雪?」と反射的に空を見た。 「実体のない雪が降ってる。触れても溶けないし、冷たくもない。みんなでそれを転がしてる」 「みんなって?」 「日水連はおれを寺本さんの付き人兼安全パイとしてシドニーへつれていこうとしてる。そんな代表権でもミズキはありがたがって、おれをクソくだらないCMに引っぱりだそうとしてる。そのCM出演とオリンピックの代表権と、何か裏のつながりがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。なんにも知らないMDCのチビたちは早くもおれをスター扱いで、うちのおやじはおれをMDCの存続委員長みたいに思ってるし、おれにもそう思わせようとしてる。みんなバラバラで、そのくせ大がかりだ。おれはまだオリンピック代表さえぴんときてないってのに……」  要一は鼻先で組んだ手の甲に額を押しつけた。 「おれとは関係ないところで雪だるまはどんどんでかくなっていく」 「多かれ少なかれ、オリンピックってきっとそんなものよ」  ほんの一瞬、夏陽子の瞳《ひとみ》を切ない影がかすめた。 「でも、あなたはそれを認めない。全力で拒否してる」 「どうすればいい?」 「転がりつづける雪だるまにストップをかけたい?」 「わからない。でも、せめて自分で転がしたい」  夏陽子はふうっと息をつき、紙ナプキンで唇をぬぐった。 「なら、転がせばいいじゃない」 「え」 「あなたはあなたの雪を降らせて、そして自分で転がすの」 「自分で?」 「やりたいことをやりたいようにやるしかないってこと。どのみちあなたは他人の意のままに動かされるような性分じゃないし、無理して自分を殺そうとすればこのありさまよ。だったら好きにやるしかないじゃない」  要一はまごついた。 「でも、おれの肩にはMDCに通う三十人の未来がかかってる」 「三十人の未来は、三十人それぞれの肩にかかっているのよ。だれも代わりに背負うことなんてできない。たとえMDCが閉鎖に追いやられても、本当に情熱のある子はどこかで続けるわ」 「おれにどうしろと?」 「だから、あなたが決めるの。しょせん、あなたの人生だわ」  ぴしゃりと言いきる夏陽子へ、要一はとっさに攻撃の牙《きば》をむいた。 「そんな……MDCをだれより救いたがってんのはあんただろ。そのあんたがなんでそんなこと言うんだよ」  ヒステリックな要一の問いを、しかし夏陽子は瞳ではじきかえした。1570キロカロリーを摂取したばかりにもかかわらず、その瞳はまだ飢え、貪欲《どんよく》に何かを求めていた。 「なぜなら、あなたには才能があるからよ。坂井くんや沖津くんにも劣らないすばらしい才能が……。私はそれをこんなところでつぶしてほしくない。見届けたいのよ、あなたがどこまで伸びていくのか。その先に何があるのかその目で見てきてほしいの」  水深五メートルのダイビングプールの底をゆらゆら歩いているみたいだった。店をでたあと、「しっかりカロリー消費してこなきゃ」と夏陽子が辰巳へむかっても、要一は一緒に練習へ行く気にはなれなかった。夏陽子もあえて誘おうとはせず、一人、若者の町に残された要一はそぞろに足をさまよわせた。  直視しがたい現実。  見て見ぬふりをしていた心の葛藤《かつとう》。  夏陽子に突きつけられたそれを頭に、肩に、胸に重く抱えて、要一は歩けば歩くほどぷくぷくと水底へ沈んでいく気がした。  こんなに晴れたいい天気なのに。町にはとぎれることのない人の流れがあって、そこにのってさえいればまずまちがいなくどこかへたどりつくのに、一体自分はいつのりそびれてしまったのだろう。  要一はらくらくと流されていく人々の顔を見渡した。この町ではだれもが着たい服を着て買いたいものを買って食べたいものを食べているようだ。空腹のせいか至るところから匂ってくる食べものがやたらと目にとまる。  ハンバーガー、250キロカロリー。カレーパン、300キロカロリー。フライドチキン、150キロカロリー。チョコバナナクレープ、560キロカロリー。今川焼き、200キロカロリー。ポテトチップス、500キロカロリー。バニラアイス、220キロカロリー。チョコレートアイス、250キロカロリー——。  やばい。この町は脂肪とコレステロールの海だ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。要一はグロテスクなカロリーの渦から逃れるように人気のないビルの階段を上った。一階はうらぶれた床屋で、二階には中古レコード店の看板がかかげられている。その二階からもれるジャズの音色を聴きながら、冷たい階段にぺたんと腰かけ、やばいのはおれの頭だ……と歎息《たんそく》した。  前に進むことも引き返すこともできない。  どんづまりの自分。  ——あなたはあなたの雪を降らせて、そして自分で転がすの。  夏陽子の声を思いだした瞬間、要一はうかつにも視界をにじませ、すんでのところで嗚咽《おえつ》のようなものをもらすところだった。 [#改ページ]   6…NEVER EVER LOSE 「トモくんが練習中に怪我をしたらしいの」  さんざん町をふらついたあげく、ようやく家に帰った要一が頼子からショッキングな知らせを受けたのは、とうに陽も落ちたその夜のことだった。  知季はその日も黙々と練習にとりくんでいた。いつものあの憑《つ》かれたような目つきで、プラットフォームから身を投げるその一瞬にだけ全神経をかたむけて。プール閉館の時刻が迫り、「今日はここまで」と敬介がホイッスルを鳴らしてもなお、後ろ髪を引かれるように飛込み台の階段を上り、人気の絶えたプラットフォームに立った。  もう時間がない、とのあせりがあったのだろう。四回半にばかりかまけていた知季は、息の乱れたまま最後に前逆宙返り二回半抱え型へ挑戦。しかし、集中力を欠いたテイクオフには勢いがなく、高さも距離も不十分だった。  結果、プールを正面にして飛びたった知季は、後方へ頭をそらした瞬間プラットフォームの先端に後頭部を打ちつけ、小枝かなにかのように力なく十メートル下まで落ちていったのだという。 「一時的に気を失って、出血もあったから大騒ぎになったそうだけど、幸い、傷はそんなにひどくなかったみたい。一応、明日にも精密検査を受けるそうだけど、トモくんも今はもう元気で、心配いらないって」  心配いらない。その一言を頼子の口からきいた瞬間、かたくこわばっていた要一の体は脱力した。朝食以来、何も口に入れていなかったせいもあり、今にもひざのあたりからがくんといきそうだった。  万が一の事故。それは嵐の夜の落雷のようにダイバーについてまわる。空の彼方《かなた》で雷が鳴っていても、人はそれが自分の頭上へ落ちるとは思わない。が、時としてそれは起こる。世界に名の知れた大ベテランが一瞬の事故でダイバー生命を失うこともあれば、事故のショックが選手の心に深いトラウマを残すこともある。  トラウマ。  忘れ去ることのできない傷の後遺症——。 「前逆宙返り、か……」  無意識のうちにつぶやいていた要一に、頼子が探るような目をむけた。 「思いだした?」 「いや、べつに」  要一はあわてて首をふり、 「で、トモは今、どこ?」 「まだ病院よ。一晩、入院して様子を見るそうだけど、検査の結果に異常がなかったら明日にも退院ですって」  検査の結果に異状はなかったらしく、知季は実際、翌日の昼を待たずに退院した。検査に立ち会った敬介からその旨を知らされ、要一は再び安堵《あんど》の息をついたものの、まだ百パーセント安心しきれないところもある。  オリンピック代表の内定が下って以来、様子を気にしながらもなかなか足をむけられずにいた知季の家を、要一はその午後、訪ねることにした。  東北沢から経堂《きようどう》の駅まで、同じ車両にのりあわせた人々の注目に耐えること十分。  経堂駅から知季の家まで、小雨の中を歩くこと八分。  重たい手土産を胸に抱えた要一が坂井家に到着したのは、午後二時をまわったころだった。 「あらら、要一くん。しばらく見ないあいだにまた男前になったわねえ」  玄関で出迎えた知季の母の目は、そう言いながらも要一の顔より手土産のほうに釘《くぎ》づけになっている。 「先客がいるけど、どうぞ上がって」  言われるままに階段を上り、右ひじでドアを押しあけた。  知季のベッドを囲んでいた先客たちが一斉に戸口をふりむいた。  陵。レイジ。幸也。彼らの視線はやはり要一の抱えた手土産——大きな鉢植えのほうに集中している。 「す……すごい花だね」  無理やりしぼりだしたような知季の声に、要一は「だろ」とうなずいた。 「おまえにもらった胡蝶蘭《こちようらん》だよ」 「えっ」 「怪我が治るまで貸してやる」  恩着せがましく言うなり、要一はあまり使われている気配のない勉強机に歩みより、両手の鉢をその上におろした。ずん、と床に伝わる響きがその重量を雄弁に物語る。女王様然とした胡蝶蘭は環境の変化に動じることもなく、しもじもの暮らしになど関心なさげに超然と花びらを広げている。 「要一くん、それ、まさか家から持ってきたとか?」  まさかを強調した知季の問いかけに、要一は両肩をぐるぐるとふりまわしながら、 「ああ。筋トレで鍛えといてよかったよ」 「ひっ」 「それでも途中で三回くらい、鉢を下ろして休んだけどな」 「なんでそんな大変なことを……」 「おれもそれを考えながら来た」  要一は憮然《ぶぜん》と言った。 「すっげーいいアイディアだと思っても、苦労してやってみるといまいちだったりすることって、あんだろ」  知季は一瞬ぽかんとし、それからにわかにほほえんだ。 「ううん、いいよ、すごく。ありがとう。なんだかほんとに王子様みたいな気分になれそうな花だね」  その声にはこのところ影をひそめていた屈託のなさがあり、要一が改めて知季に目をやると、心なしか瞳《ひとみ》にも以前の明るさがもどったように見えた。  あるいは、それは知季をとりまく友人たちのせいかもしれない。 「ねえ要一くん、陵くんが来てるんだよ」  幸也の声にふりむくと、ベッドのわきであぐらをかいていた陵がきまり悪そうに「ちわっす」と首をへこませた。陵と顔を合わせるのはアジア合同強化合宿メンバーの発表以来だった。 「よっ、しばらく」 「勝手やっててすいません」 「うちのおやじが待ってるぜ、そろそろ陵がもどってくるころじゃないかって」  軽い調子で返したところ、陵は気まずげに黙りこみ、知季やレイジまでが瞳の落ちつきを失った。 「陵くんはもどってこないんだってさ」  無邪気な声を上げたのは幸也だ。 「陵くん、バスケはじめたんだよ」 「バスケ?」 「いやその……」  陵は気恥ずかしげに目を伏せて、 「最初は遊びでバスケ部のやつらとワイワイやってただけなんだけど、案外おれ、筋がいいらしくて、正式に入部しろしろってみんなに言われて……ちょっと本気でやってみようかなって」 「そうか」 「どっちも中途半端はいやだし、MDCには近いうちに退会届をだすつもりです」 「そうか……」  さびしくないといえば嘘になる。けれど要一はもうずいぶんと前から陵の限界を見通していた気もした。ダイバーとして陵には何かが欠けていた。残酷なようだが、スポーツとは実際、残酷なものだ。それでも自分なりの充実を求めて飛込みを続けるか、あるいは新たな可能性を求めて別の道を行くか、その選択権は本人だけがにぎっている。  自分の未来は自分だけのもの。だれも代わりに背負うことなどできない、か……。  夏陽子の言葉を噛《か》みしめながら、要一は「今だから言うけどさ」と陵にむきなおった。 「ガキのころ、みんなでジュニアオリンピックにでたとき、おまえの真っ赤な海パンがなくなって大騒ぎになったことがあっただろ」 「ああ、なぜか女子トイレで発見されたやつ……」  陵だけでなく、知季やレイジまでもが懐かしそうにうなずいた。 「あれ、隠したの、おれなんだ」  突然の告白に、陵は「ええっ」とぎょっとして、 「だって要一くん、あのときおれにすげえ同情して、スペアで持ってた海パン、貸してくれたじゃん」 「我ながらセコいガキだと思うけど、おまえの真っ赤な海パン、おれの黄色より派手だっただろ? 昔からおれ、なんでも一番でなきゃ気がすまなかったから、おまえがおれよりめだつのが許せなかったんだ。ライバルはピンキー山田だけで十分だ、って。悪かったな」 「だからネズミ色の地味なスペアを……」 「けどあの日はおれ、風邪ひいてたかなんかで結局はボロ負けして、いくら海パンでめだっても試合で負けたら意味ないって、かなりむかついてさ。やけくそになって海パン脱いでプールに投げ捨てて、フルチンでロッカー室まで帰ったの、憶えてるよ」 「あ、それはぼくも憶えてる」と、知季が声を上げた。「あの海パン事件にはそんな裏があったのか」 「おれなんかあの日、試合に負けて荒れてる要一くん見て、要一くんもやっぱり同じ人間なんだって感動してたのに……」  陵が呆然《ぼうぜん》とつぶやき、要一を除く四人はしばし無言で記憶の修正作業を行って、それからだれからともなく吹きだした。 「ずっと良心の呵責《かしやく》にさいなまれてきたよ」と、要一も笑いながら言った。「ま、おれはこんなジコチューな性格だから、飛込みみたいな個人競技がつくづく性に合ってるんだよな。けど陵はさ、おまえは意外とバスケみたいなチームプレーが合ってるのかもしんねーな。しょっちゅう人のこと気にしてカリカリしてたのは、それだけみんなのこと、よく見てたってことだもんな」 「要一くん……」  ぽっと頬を赤らめた陵に、要一は「がんばれよ、バスケ」と力強く告げた。 「チームプレーに疲れて一人になりたくなったら、いつでもドラゴンに上りにこい」 「いいの?」 「赤パン以外でな」  陵はMDCに入りたてのころのようにつるつるした笑みを顔いっぱいに広げ、「よろしくっす」と会釈した。  五人はその後、小さいころの思い出話や「今だから言える」打ち明け話で盛りあがり、五時をまわって陵とレイジ、それに幸也の中学生トリオが腰を上げるまで、部屋には笑いが絶えなかった。三人の去ったあとに知季と要一と胡蝶蘭だけが残されても、そこには友達の匂いとでもいうような温かな空気がいつまでも香っていた。知季のまわりにはつねにそれがある。何十キロ走っても、どれだけ腹筋を鍛えても、そればかりは要一の手に入らなかったものだ。  知季と二人きりになると、要一は勉強机の椅子をベッドのわきへ引きずってきて座った。 「飛ぶの、怖くないか?」  まず一番に気になっていたことを尋ねてみる。 「え。なんで?」 「練習中に事故ったりすると、とたんに飛べなくなるやつもいるんだよ。また怪我するんじゃないかって恐怖心が先に立って、それが深刻なトラウマになる。最悪の場合は引退だ。おまえは大丈夫だな?」 「大丈夫。っていうかさ、ぼく、頭を打った瞬間に気絶しちゃったから、恐怖とか痛みとか、全然憶えてないんだよね。ツイてるって富士谷コーチに言われたよ」 「たしかにな」  知季のけろりとした言いぐさに、要一は苦笑した。 「でも、もうあんま無茶すんなよ」 「うん。今度のことでわかったよ、あせって無理してもいいことないって」  知季も苦笑し、白い包帯を巻きつけた頭をベッドの背もたれに押し当てた。 「ぼくさ、オリンピック内定の話をきいたとき、やっぱりものすごいショックだったんだよね。失恋も忘れるくらい、プリンも食えないくらい、今が秋なのか春なのかもわかんなくなるくらいショックで……。もちろん自分が選ばれなかったからっていうのもあるんだけど、それだけじゃなくって、なんていうのかな……ぼく、ほら、枠を越えたいって思ってたじゃない」 「ああ、枠な」  知季がよく口にしていた言葉だ。  いつも何かに囲われている気がする。大人たちの作った狭い枠の中に閉じこめられている気がする。でも、飛込みでならその枠を越えられるような——。 「なんとなくね、いつのまにかぼく、オリンピックにでることが枠を越えることだと思っちゃってたんだよね。そのふたつが頭の中でコンビ組んでて、だからあんなにオリンピックにでたかったのかもしれない。でもさ、要一くんの前でこんなこと言うのもナンだけど、寺本さんや要一くんが代表に選ばれた理由とかきいてたら、なんか結局、オリンピックも大人たちの作った枠のひとつなんだってわかっちゃって……。メダルのために代表を早めに決めたり、代表の数を調整したり、日水連はいろいろがんばってるみたいだけど、でもそれって……なんていうのかな、それってぼくたちのオリンピックじゃないような気がして……」  ぼくたちのオリンピックじゃない。  知季のもらした一言に、要一はどきんとした。これまでもやもやと胸に抱えていたものの核心を、ずばり言いあてられた気がした。 「だってさ、メダルとれたとしてもとれなかったとしても、それって本当はぼくたちの問題のはずじゃない。死ぬほど練習してきたのはぼくたちとコーチで、オリンピックにでるのもぼくたちで、だからぼくたちが喜んだり、がっかりしたりすればいいだけじゃない。けど、ちがうんだよね。結局、オリンピックの真ん中にいるのは顔も見たことないような大人たちなんだって、そう思ったら急にいろんなことがつまんなくなっちゃって……」  うまく言えないけど……と知季は言葉をつまらせたが、要一にはよくわかった。  たしかに、日水連はメダルのためにがんばっている。メダル獲得に有利とあれば代表枠をけずるし、寺本の付き人兼安全パイだって慎重に用意する。彼らにとって選手とはメダルを運ぶ駒にすぎないのかもしれない。  でも、メダルって一体なんだ?  オリンピックってなんだ?  スポーツってなんなんだ?  心のどこかに引っかかっていて、けれどうまく形にできなかった思いを、知季もまた胸に秘めていた。  要一はその事実に驚いたけれど、知季の話はまだ終わっていなかった。 「だから、ぼくは四回半をやってやりたかったんだよね」  夕闇を囲む窓枠のむこうに何かを探すように、知季は目をこらして言ったのだ。 「四回半を、ぼくだけの枠にしたかったんだ」 「四回半を?」 「うん。四回半なんて夢みたいな話だけど、でも、だからこそ越える価値があると思った。ぼくが決めて、ぼくが越える枠。だからだれにも邪魔されない。成功すればはっきりとわかるし、だれの目にも見える。そんなクリアな枠がほしかったんだよ」  下唇がかすかに震えた。いつものおっとりしたテンポで語りながらも、知季の瞳《ひとみ》には静かな怒りが宿っていた。ぶつけどころのないその怒りを憎しみに変えることなく新たな目標へと転化させた知季の強さに、無意識のしたたかさに、要一は戦慄《せんりつ》した。  おれが練習を休んだり、スランプにもがいたりしていたとき、知季はそんなことを考えていたのか。  あの猛練習にはそんな意味があったのか。  頭に痛々しげな包帯を巻いて、負傷した戦士のように見えながらも、そこにいるのはもはや繊細で傷つきやすい後輩ではなく、自らのタフな意志をつらぬこうとする一人のダイバーだった。  知季は成長しつづけている。  肉体だけでなく、その心までも。 「半年前はおまえ、四回半どころか三回半もまわれずにうじうじしてたんだぜ」  気がつくと、口が勝手に動いていた。 「強化合宿に行く前は、四回半なんて羽でも生えてなきゃ飛べるわけないって騒いでた」 「うん。憶えてる」 「でも、今はちがうんだな。本気で飛ぶ気なんだな」  知季はうなずき、初めて要一にライバルの目をむけた。 「今のぼくには無理でも、半年後や、一年後のぼくには羽が生えてるかもしれない」  皮膚の内側で細胞が一斉にぷちぷちとはじけるような、そのはじけたものたちが頭の天辺《てつぺん》をめざして駆けあがってくるような、なんともいえない感覚が要一を襲った。  それは子供のころ、陵の真っ赤な海パンを見たときの感覚と、レベルはちがうが根深いところでは同じだったかもしれない。  ライバルの持つ何かを「良い」と認めた直後に突きあげてくる闘争心。  負けたくない。  負けられない。  一番はあくまでもこのおれだ。  そんな思いがふつふつとわきあがり、要一は忘れかけていた本能のざわめきに身をひたした。  いつも一番でなければ気がすまなくて、だれよりも注目されたくて、美しくかっこよく飛びたくて、MDCでは兄貴風を吹かせていたくて、そのわりに協調性はなくて口が悪くて、後輩の赤パンを隠すような自分には飛込みしかないとずっと思っていた。飛込みをやめたおれになどだれも見向きもしないだろう、と。  知季は放っておけない後輩だ。そのまっすぐな性格と、どんな未知がひそんでいるかわからない才能には感動すら覚える。けれどいつだって友達に囲まれ、ふつうの心休まる家庭に暮らして、中一にして彼女を作ったことさえある知季に、彼女いない歴十七年のおれが負けるわけにはいかないのだ。  腰の故障に悩んで津軽へ帰ったかと思えば、夏のあいだじゅう、彼女とのセックスに明け暮れていた飛沫にだって負けられるわけがない。  おれは勝つ。  勝ちつづける。  でも、そのためにはまず勝負をしなければならない——。 「どうかしてたよ」  長い眠りからたたきおこされたかのようだった。要一はすくっと立ちあがり、大股《おおまた》で勉強机へ歩みよると、気合いを入れて胡蝶蘭《こちようらん》の鉢を両手に抱えあげた。 「敵に花を贈るなんてばかげてるし、王子様は一人で十分だ。こいつはやっぱり持って帰る」 「えっ」 「おまえもばかげてたけど、おれもばかげてた。もう一度、最初から仕切りなおしだ。とりあえずおまえはその怪我を治せよ」  唖然《あぜん》としている知季に言い残し、つかつかと部屋をあとにする。抱えてきた鉢植えを再び抱えて帰る要一の姿に、玄関まで見送りにきた知季の母はやはり唖然としていたけれど、要一は気にせず「お邪魔しました」と外へでた。  夕暮れの町はへたな漫画家の貼ったスクリーントーンのように中途半端に煙っていた。  要一は首と肩で傘を支えて強まってきた雨を避け、水のやりすぎから胡蝶蘭を守った。  なにもかもすべてを守ることができないなら、自分にとって何が大切か、何が切実かをしっかり見極めよう。  そんな思いを噛《か》みしめながら、一歩一歩、帰りの道を踏みしめていった。 「失礼します」  要一が敬介の書斎を訪ねたのは、その夜のことだ。  西日を好む敬介は二階の西に面した和室を書斎に使っている。それでいて西日の射す時間帯に家にいることはめったになく、この日もMDCの練習からもどったのは九時すぎだった。食事と入浴を終えて書斎にこもったのは十時すぎ。十一時前に要一がその部屋の戸を開くと、敬介は老眼鏡をかけてその日の練習記録をつけていた。 「今日は中学生が全員欠席。おおかたトモの家にでも集まってたんだろう」  要一をちらりと一瞥《いちべつ》し、渋い吐息をノートに吹きかける。  要一は陵の決意を伝えようかと迷ったが、じきに自分の口から話すだろうと思い留まり、代わりに自分の決意を口にした。 「あの、頼みがあるんですけど」 「頼み?」  意外そうにふりむいた敬介に、要一はかつてないほどストレートに切りだした。 「日水連の前原会長に会わせてもらえませんか」  敬介の指先から万年筆が転がり落ちた。 「前原会長に?」 「話をしたいんです」 「なんの話だ」 「それは言えません」 「なぜ言えない」 「言えば、あなたはおれと会長の板挟みになって苦しい思いをする」 「……」 「そして、きっと会長の側に立つ」  限界まで巨大化した幻の雪だるまが溶けて、流水が二人の足下をひたひたとひたしていた。  敬介は石のように動かず、要一も動かずに時だけが動いた。  こんなにも長く、こんなにもまっすぐにこの父子が見つめあうのは初めてのことだった。 [#改ページ]   7…MEET THE MONSTER  十一月四日、午前九時半。JR新宿駅の南口は遅い通勤のサラリーマンやOL、学生らしき面々にカップル、そして何をしているのかわからない多くの人々でにぎわっていた。薄手の黒いセーターにラフなジーンズ姿で改札をすりぬけていく要一も、傍目《はため》には何をしているのかわからない一人に映っただろう。  晴れやかな気持ちのいい朝だった。空はすかんと冴《さ》えわたり、太陽は午後からの本番にそなえるダイバーのように適度な体慣らしの光りかたをしていた。道行く人々は皆、まだ身軽な秋の装いでいるけれど、足下ではすでに冬の到来を告げる木枯らしが小さな渦を描いている。  要一は駅前に伸びる甲州街道を都庁方面へとまっすぐに前進した。まさに前進といった感じの歩きかたで、自分でもぎくしゃくしているのがわかった。  目的のホテルまでは徒歩十分。約束の時間はジャスト十時。余裕はたっぷりあるのに、要一の足は時間配分など無視したロボットのようにせかせかと前を行く。無理して歩調をゆるめれば、高層ビルの谷間でぱたりと立ち止まったまま、もう二度と足を踏みだせなくなりそうな気もした。  緊張していた。絶対に負けられない試合の最後の一本を飛ぶ直前のように緊張していた。  あの人が待っている。  そう思うだけで要一の胸は騒いだ。  ようやくこのときが来たのだ。  前原会長に会いたいという要一の訴えは、敬介に言わせると「極めて非常識」であり、「実現はありえない」はずだった。飛込み競技だけでなく、競泳や水球もふくめた日本水泳界全体を統《す》べている前原会長が、一介の高校生ダイバーのために貴重な時間を割くわけがない。敬介がくりかえし強調したとおり、それがどんなに無謀な試みであるかは要一自身もわかっていた。それでもその無謀な試みをあきらめなかったのは、ある日突然天から降ってきたオリンピック代表のように、この世にはどんなにとてつもないことでもありえるのだと心のどこかで思っていたからだ。  要一が粘れば粘るほど、しかし敬介は態度を硬化させていった。父子の関係が日増しに緊迫していく中、板挟みの状態に耐えかねた頼子が要一の援護にのりださなければ、二人はそのまま永遠に冷たいにらみあいを続けていたかもしれない。  それまで中立の立場をつらぬいてきた頼子が、ここにきて初めて要一の味方についた理由は、極めてシンプルだった。 「あなたがスランプで苦しんでいる姿を、お父さんはプールサイドで、私はこの部屋で見てきたわ。部屋のほうが距離が近いぶん、まるで生気のないあなたの瞳《ひとみ》までよく見えた。そのあなたが久しぶりに瞳を光らせて頼みごとをしてきたの。それがどんなに突拍子《とつぴようし》のないことでも、かなえてあげたくなるのが母親ってものじゃない」  頼子の説得に敬介がいつ、どこでなびいたのか要一は知らない。一度言いだしたらてこでも動かない要一の気質を知りぬいている敬介は、あるいは、最初からこの結末を予期していたのかもしれない。  とはいえ、前原会長にものものしい嘆願書のような手紙を書いてからも、敬介は要一の「極めて非常識」な行為を認めたわけではないことを態度で示しつづけた。要一は敬介の顔を見るたび、その眉間《みけん》に刻まれた深いしわの谷間へ落ちこんでいく気がした。  敬介の手紙に目を通した前原会長がいつ、どこで面会を承知したのかも要一は知らない。どちらかというとそれは敬介の手紙より、日水連で働く頼子の力添えが大きかったようにも思える。要一は初めて飛込み界に顔の広い両親の「恩恵」なるものを意識した。  ともあれ、知季の見舞いに行ったあの日から十四日目にして、要一はようやく念願の返答を手にすることができたのだ。  再来週の木曜日、前原会長は新宿の某ホテルの一室で雑誌数社の取材を受ける。その取材がはじまる前の一時間だけならば要一のために空けてもいい。  それが、母からもたらされた前原会長の伝言であり、要一の降らせた最初の雪の一片だった。  指定されたホテルの白い外壁が見えたとき、腕の時計はまだ九時三十六分を指していた。まるで心配性の受験生みたいだ、と要一は早すぎた二十四分を恥じた。どうせなら小次郎を待たせた武蔵《むさし》のように、悠々と遅刻して参上したかった。が、武蔵とはちがって要一に与えられた勝負の時間はかぎられている。  要一は鼓動を鎮めるため、時間つぶしもかねてホテルのまわりを道なりに一周した。今頃、学校では皆ふつうに授業を受けているのかと思うと、なんだか恐ろしく遠いところまで来てしまった気がする。要一は前原会長がどんな人物なのか測りかねていたが、少なくとも高校生に学校を休ませてはならないという良識を重んじる人ではないらしい。  前原一朗。七十八歳。戦後の日本に水泳ブームを巻きおこした立役者の一人でありながらも、オリンピックには縁のなかった元競泳選手。その人となりはどうやら考えていたよりも複雑なようで、要一は夏陽子と頼子の二人から異なったアドバイスを受けてきた。 「世間ではメダルの鬼って言われてるけど、どちらかというと怪物って感じね。とにかく変わってる。八十近いなんて思えないほどパワフルだし、へたするとはじきとばされるから気をつけなさい」  夏陽子は前原会長と面識があるらしく、要一がその怪物に会いに行くことを知ると、なかば脅すように、なかばおもしろがるようにそう警告した。  どちらかというと怪物。とにかく変わり者……。  そうして植えつけられた困惑の種に、さらなる肥料をそそいだのが頼子だった。 「とにかく評価の分かれる方よ。メダルの鬼、独善家、ファシスト……いろんな陰口があとを絶たないけど、その一方で彼を慕う熱烈な信奉者もあとを絶たないの。私は現役時代、どこかの大会でジャッジをしていた彼にお尻《しり》を触られて以来のアンチ派だけどね」  あのころはセクハラなんて言葉もなくってねえ、と頼子は遠い過去へと目を馳《は》せた。 「でもまあ、ひとつだけたしかなのは、前原会長が日水連のだれよりも飛込みに精通しているってことよ。彼が元競泳選手だからって、飛込みを知らないとか、飛込みには力を入れていないなんて言う人もいるけど、それだけはちがうわ。彼は飛込みのことをとてもよく知っているし、もしかしたら愛している」  母親の口から愛なんて言葉をきくとどきんとする。  思わず視線をそらした要一に、頼子は一冊の古びた冊子をさしだした。大型のホチキスで綴《と》じられた手作りの冊子で、黄ばんだ表紙には『飛込み読本』といかめしい手書きの文字がある。 「前原会長が約二十年前に作った冊子よ。当時の前原会長は某大学で水泳を教えながら日水連の競泳委員も務めていて、ときどき試合のジャッジに駆りだされるくらいしか飛込みとのかかわりはなかったはずなのに、彼はなぜだかこの本を作ったの。当時も今と同様、飛込みについて書かれた本なんて皆無だったから、コーチからこれをもらったときは狂喜したわ。読めばわかるけど、本当に事細かな叙述がされている。もちろん当時はだれが書いたのかなんて気にもとめてなかったわよ。数年前にふと思いだして見返したとき、著者の欄に前原一朗の署名があるのを見て、本当に驚いたわ」  その日から毎晩、要一は寝る前にその冊子をめくりつづけた。  飛込みの種目。ルール。歴史。トレーニング・メソッド。近年の海外事情——。  前原会長の筆はそれらの項目を細やかに綴《つづ》っているだけでなく、試合における飛込み競技の見どころや、選手の複雑な心理にまで触れていた。種目の解説をするページには、決して達者とはいえない手書きのイラストまでが添えられていて、プラットフォームから飛びこむ選手の図はまるでとんぼのようだったり、空飛ぶ団子のようだったり、見方によっては投身自殺のようだったりした。頼子はこのあたりに愛を感じたのかもしれないが、要一の目にはけっこうシュールで、眠れなくなりそうだった。  寝つきが悪かったのは奇妙なイラストのせいだけじゃない。  二十数年前にこの本を作った前原一朗と、メダルにのみ固執している今の前原会長が、要一の中ではどうにもうまく重ならないのだ。どちらかが仮面ならたいしたものだし、どちらも本物ならたしかに怪物だ。  こうして困惑の芽をすくすくと育てていった要一は、念願の前原会長との対面を、次第に心のどこかで恐れるようにもなっていったのだった。  ホテルの外周をひとまわりし、再び正面玄関の前に立ったときには、時計の針も約束の時刻まで残すところ十分に迫っていた。十時ぴったりに行くこともないし、少し早めに訪ねて虚をつくのも心理戦としては有効かもしれない。要一は通常、ホイッスルが鳴ってからゆっくり「いち、に、さん」と数えたあたりで足を踏みだすタイプだが、ときおりわざとスタートを早めるとジャッジは虚をつかれて注目を強めるのだ。  しかしここは陸の上で、どんな失敗をしようと必ず要一を受けとめてくれる水も存在しなかった。失敗すれば、だから自分はどこまでも落ちていくことになるだろう。要一は覚悟し、いつになく物怖《ものお》じしている自分を奮いたたせながら、結局は時間ぎりぎりまでロビー階をうろつくはめになった。  エレベーターにのりこむ直前、緊張のせいか無性にトイレへ行きたくなったのだ。 [#改ページ]   8…OLD BOY'S AMBITION  その老人が入ってきたのは、要一がロビー階のトイレで用を足しているときだった。トイレはがら空きだったにもかかわらず、老人はわざわざ要一のとなりに肩を並べると、あまり見られたくない要一のシーンを無遠慮にながめた。  ダークグレイのしゃれたスーツをまとった恰幅《かつぷく》のいい老人。鮮やかなブルーのシャツは半白の頭にはやや明るすぎる気もしたが、シックなグレイのネクタイが派手な印象を抑えていた。瞳には爬虫類《はちゆうるい》のような冷たさがあるけれど、眉間でつながった豊かな眉《まゆ》が哺乳類《ほにゆうるい》の温かみを与えていた。すべてがきわどいバランスの上でなりたっている印象だ。  要一が用をすませると、老人はおもむろに事を開始した。放たれた液体の意外なほどの勢いに要一が思わず目をやると、ニマリと唇をくねらせ、得意げに小鼻をふくらませる。  なんともいえない敗北感を胸にその場をあとにした要一は、ロビーをすりぬけてエレベーターへのりこんでからも、「開」のボタンから指を離そうとしなかった。  待つこと数十秒。やがてさっきの老人が現れ、再び要一と肩を並べた。  要一は「開」のボタンから指を離して言った。 「二十七階ですか?」  老人はうなずいた。 「前原会長ですね」  ひとめ見た瞬間からそんな予感がしていた。  老人は腕時計を目の高さまで持ちあげ、長針の角度を確認してからこっくりとうなずいた。 「きっかり十時か。私の持論だが、時間にルーズな人間は水の世界では通用せん。競泳はコンマ一秒を争う競技だ。時間と闘い、征服する。それに比べて飛込みは一・数秒というかぎられた時間内での己との闘いだ。その一・数秒を最大限に活かした者が勝者となる。どっちにしろ、時間の感覚の鈍い人間は陸に留まるべきだな」  言うだけ言うと、前原会長は同意を求めるでもなく要一をふりかえった。 「富士谷要一くんだね?」  要一がうなずくよりも早く、二人の目前でエレベーターの扉が音もなく開かれた。  前原会長に案内された二十七階の一室は、要一の予想に反して、ごくふつうの簡素なツインルームだった。入ってすぐにユニットバスと洗面所があり、その奥にはクイーンサイズのベッドがふたつ。サーモンピンクの遮光カーテンが垂れる窓辺には、サイドテーブルをはさんだ二脚の椅子。壁のクロス、絨毯《じゆうたん》、ベッドカバー——そのほとんどが淡いピンクで統一されているせいか、要一は室内に一歩足を踏みいれるなり、いちご大福の皮にでもひたっとくるまれた気分になった。もしかするとそれはいちごのように赤いツーピース姿の女性が一人、壁際の机でデスクワークをしていたせいかもしれないけれど。  三十前後と思われるその女性は、前原会長と要一の姿を見るなり、すばやく机上の書類を片づけて立ちあがった。 「私の愛人だ」  前原会長がしかつめらしく言って、 「秘書の水沢《みずさわ》です」  彼女がにこやかに訂正した。 「どうぞごゆっくり。取材の方が見えるまで、私は一階のラウンジにいます」  書類を抱えた秘書が部屋を去ると、前原会長は「コーヒーくらい淹《い》れていけばいいのにな」とぼやきながら小型の冷蔵庫をのぞきこみ、缶コーヒーと烏龍《ウーロン》茶をとりだした。それから要一を窓辺の椅子へうながし、要一の前に烏龍茶を、自分の前に缶コーヒーをのせた。 「さっきも言ったが、私は時間には小うるさい質でな。率直にきこう。君はここへ何をしに来たのかな」  缶コーヒーのプルタブを引きながら、鋭いまなざしを要一へむける。 「我々に与えられた時間は一時間だ。正確にいえばあと五十六分。君はこの時間を最大限に活かさねばならない。初対面の挨拶《あいさつ》だとか天気の話だとか、七面倒くさいことはこの際ぬきにしよう」  要一はうなずいた。そう言われると烏龍茶に手を伸ばす時間も惜しまねばならない気がしてくる。 「お願いがあって来ました」  要一は端的に切りだした。 「おれの……ぼくのオリンピック内定を、白紙にもどしてほしいんです」  クールな仮面がくずれて、かすかに声が震えた。 「白紙にもどして、もう一度、試合で決めなおしてもらえませんか」 「試合で?」 「オリンピック代表選考会です。これまでどおりにみんなで戦って、勝った者が代表権を手に入れる。そんなふうにしてシドニーへ行かせてもらえませんか」 「シドニー五輪代表の選考をもう一度やりなおせというわけか。奇天烈《きてれつ》なアイディアだな」  前原会長はその奇天烈さを味わうように「うむ」とうなった。 「しかし、リアリティに欠けている。君はそんなことが可能だと思うのかな?」 「わかりません。ぼくにしてみればオリンピック自体がでかすぎて、リアリティに欠けるんです。なんだか自分のことじゃないみたいで……だから、自分のことにするために、みんなともう一度戦って、この手で代表権をつかみたいんです」 「よくわからん。我々が代表に決めるのと、試合で代表に決まるのと、そんなにちがうものかね」 「ちがいます。大ちがいです。大事なところなんです」 「わからん。さっぱりわからんな。が、まあ、代表の座を自ら手放すくらいだ、よほどのことではあるんだろう」  その言葉にほっと肩の力をゆるめた要一に、「だがな、富士谷くんよ」と前原会長は続けた。 「君にとっては大事な問題でも、飛込み界全体にしてみたらどうだろう。たんなる一個人のわがままにすぎんとは思わんかな」  要一は言葉につまった。 「そうかもしれません。でも、切実なわがままです。いろんな人の立場に立っていろいろ考えてみたけど、なんだか大事なところからはずれていくだけで、結局、おれはおれにとって切実なことをするしかなかった。そんな感じです」 「その切実なわがままを私が却下したら、君はどうするつもりかな」 「とりあえず、今月末の日中親善試合は欠場するつもりです」 「欠場?」 「あなたがたはあの試合の結果をもとに、ぼくと寺本さんのオリンピック内定を公表するつもりでいる。でも、試合にでていない選手に内定をだすわけにはいかないでしょう」 「自力で代表内定を白紙にもどそうというわけか。それもまた奇天烈なアイディアだな」  なかば感心したようにうなずくと、前原会長は缶コーヒーを一気に飲みほした。話を続けるために必要なエネルギーを補給しているような飲みかただった。 「さびしい話だがね、富士谷くん。君が代表内定を辞退したとしても、我々はまた別の選手でその穴を埋めるだけなんだ。寺本健一郎とシドニーへ行くのは、たしかに君が最適だった。しかし、必ずしも君でなきゃならないというわけでもない」 「寺本健一郎の代わりはいないけど、ぼくの代わりはいくらでもいる。そういうことですか」 「いくらでもはいないね。日本の飛込み界はそうそう人材に恵まれていない。しかし、ジャッジに日本の悪印象を与えない程度の演技ができる選手なら多少はいる」 「その中から新しい安全パイを選びますか。寺本さんのために。つまりはメダルのために」 「そうだね、その中から新しい安全パイを選ぶだろうね」  前原会長はこともなげに言った。 「君には悪いがね、富士谷くん。私はメダルのためならコアラに魂を捧げてもいいと思っているんだよ」 「コアラに?」 「それくらい……そうだな、君の言葉を借りるなら、それくらい切実にメダルを欲しているということだ。そしてその切実さは私個人ではなく、日本飛込み界全体の切実さでもある」  前原会長は再び缶コーヒーへ手を伸ばし、それが空であることに気づいてのっそり腰を持ちあげた。デスク脇のゴミ箱に空き缶を捨て、扇でもあおぐようにぱたぱた冷蔵庫を開閉してから、ふと思いたったように窓辺の遮光カーテンを開く。  まもなく天頂へ昇りつめようとしている太陽の、まばゆい光彩の刷毛《はけ》がピンクの室内をみずみずしいオレンジに塗りかえた。 「富士谷くん、君は日本の飛込み人口を知ってるかね?」  要一は「さあ」と首をかしげた。 「恐らく君の高校の全校生徒数と同じくらいだろうよ。六百人。全国でたったの六百人だ」 「少ないですね」 「少ない。たしかに壊滅的に少ない。絶滅の危機に瀕《ひん》していると言ってもいい。我々はこの人数で飛込み人口一万人のアメリカなどと戦おうとしてるんだ。しかも、新しく飛込みをはじめる子供の数はいっこうに増える様子がない。子供たちが憧《あこが》れるのはサッカーであり、野球なんだ。五輪の決勝でさえほとんどテレビに映らない競技にだれが興味を持つだろう」  かすんだ高層ビル街を映す窓ガラスに、前原会長は深い吐息を吹きかけた。 「べつにテレビのせいにしているわけではないよ。飛込みが注目されずにきたのは弱かったからだ。日本が初めて五輪に飛込み代表を送りこんだのは一九三二年のロス大会だが、それから七十年以上を経た今でも我々はひとつのメダルも手にしていない。入賞者はいる。しかし入賞じゃあだめなんだよ。メダルが必要なんだ。ヒーローが必要なんだ。この低迷を脱するには、シドニーでメダルをかっさらってくるヒーローが必要なんだ。テレビの画面に大衆を釘《くぎ》づけにするヒーローが必要なんだ。苦労話のひとつでもして人々を泣かせるヒーローが必要なんだ。飛込みとはこういうもんなんだと、その美しさや壮大さを広く訴えるヒーローが必要なんだよ」  放っておけば永遠に回転しつづけそうな舌を、前原会長は意志の力で抑えこみ、ゆらりと要一をふりむいた。 「これが私の切実さだ。一九一七年に日本初の飛板が設置されてから八十年、連綿と受けつがれてきた日本飛込み界の切実さだよ」  金色の陽射しを背にした前原会長の瞳《ひとみ》が要一を射抜いた。  要一はその強い眼光から目をそらさずにいるだけで精一杯だった。  まだ十七年しか生きていない自分の切実さが、日本飛込み界の八十年の切実さに押しつぶされていくようだった。 「だから私はメダルがほしい。確実にメダルの狙えるメンバーをシドニーへ送りたい。わかってもらえたかな」  前原会長に問われ、しかし要一はかろうじて口を開いた。黙したらそれまでだ。 「だから……だからメダルのためにこれからも寺本さん一人を守りぬくってことですか」 「メダルを狙える選手がほかにも現れたら、私はだれであれ全力で守るよ」 「そしてそれ以外の大勢を犠牲にする。国際大会への参加を制限したり、オリンピックの代表の数を減らしたりして世界進出のチャンスをつぶす。それが正しいやりかただと……?」 「正しいの正しくないのっていうのはね、富士谷くん」  前原会長は鼻のわきをぽりぽりと掻《か》きながら言った。 「そりゃ、私ではなく、メダルの決めることだよ。シドニーで日本がメダルを手に入れたら、私のやりかたは正しかったってことになるだろう。メダルをとれなかったら、まちがっていたと糾弾されるだろう。結果が一瞬のうちに審判を下し、歴史が長い時間をかけて検証する。しかし正直、私にはそんなことどうだっていいんだ。私はね、地獄へ堕ちたってメダルが欲しいんだよ」  地獄へ堕ちてもメダルが欲しい。  その一言で要一は完敗した。少なくとも返す言葉を完全に失った。この老人と話をしていると、清も濁も呑《の》みこむ底なしの沼にせっせと小石でも投げている気分になる。 「さて、これで私の話は終わった」  めったに姿勢をくずさない要一が力なく肩を落としたそのとき、前原会長が窓辺を離れて再び椅子に腰かけた。 「しかし、まだ時間は三十九分も残っている。今度は君の話をきこうじゃないか」 「おれの話?」 「私が飛込み界の現状を語ったように、君も君という人間の現状を語ってくれ。いかにして生まれて、いかに生きて今に至るのか。飛込みとはどんなつきあいをしてきたのか。うまく言えなくてもかまわん。ただし時間配分にだけは気をつけてくれよ。私は『続き』で終わる話が大嫌いでな、連続ドラマなんてものも観たことがない」 「でも、なんでおれの話なんて……」 「単純な興味だよ。この悪評高いメダルの鬼にたった一人で会いに来る酔狂《すいきよう》な高校生に興味がある。せっかくつかんだ五輪代表の座を投げだすような心理にも大変興味がある。そして……」  前原会長は三秒ほど宙をにらんで言った。 「そして君の話は、君の切実さをいくばくか私に伝える糸口となるかもしれん」  むかいあう二人のあいだに張りつめた何かがもどった。  要一は姿勢を正し、サイドテーブル上の烏龍《ウーロン》茶へ手を伸ばすと、プルタブを引いて渇ききった口を潤した。  そして言った。 「話します」  でも、一体どこからはじめればいいのだろう? [#改ページ]   9…BOY'S DESIRE 「ぼくが初めて飛込みを知ったのは、小学二年生のときでした。テレビや写真じゃなくて、自分の体で知ったって意味ですけど。両親が二人ともオリンピック選手だったとかいうと、ぼくがまだよちよち歩きのころから飛込み台に立ってたように思う人もいるみたいだけど、実際は結構、遅かったんです。  小二になるまでは飛込みなんて全然興味がなかったし、両親もあえて興味を持たせようとはしませんでした。母親はぼくが三年生になったら近所の少年野球チームに入れようとしてたんです。父親は……父親は、なんにも期待してなかったんじゃないのかな。  自分で言うのもなんですけど、小さいころからぼくにはこう、なんていうか……スポーツマンらしくないところがあったんですよね。もちろんスポーツをはじめる前からスポーツマンらしい子供なんていないけど、でも両親がそろってオリンピック選手とかいうと、だれでも期待するじゃないですか。なんかこう、スポーツマンシップの権化が生まれてくるみたいな。助産婦にむかって選手宣誓しそうなイメージっていうんですか。  でも、ぼくはちがった。運動が嫌いなわけじゃなかったけど、性格はどちらかというと内向的で、家で本を読んだりゲームをしたりするのが好きだったんですよね。まあ、ふつうの子供です、少しおとなしいかなっていうくらいの。だからふつうの家に生まれてればなんの問題もなかったはずなのに、たまたまうちが体育会系の家だったもんで、なんとなく失望感が漂ってしまったっていうか……。『この子にはスポーツがむいてないんじゃないか』って、父親が母親にこぼす姿を見ながら育つはめになったわけです。  正直、やな感じでしたよ。昔の両親を知ってる人に会うたびに、遺伝子がどうの、サラブレッドがどうのって、豆や馬みたいに言われるし。やっぱりなんか、過剰な期待をされてる気がして……。彼らにとってぼくは、ぼくである前に富士谷敬介と仲野《なかの》頼子の息子なんですよね。そんなやつらの寄りあいみたいな飛込み界なんて、だからさらさら近づく気がしなかったわけです。  父親がぼくを桜木高校のプールへつれていったのも、最初はたんなるなりゆきでした。小二の夏休みに祖母が入院して、母親が二週間くらい実家へ帰ってた時期があったんです。父親はそのころ桜木高校の飛込み部の顧問をしてて、その二週間も毎日練習があったけど、ぼくを一人で放っておくわけにもいかなかったんですかね。プールサイドで遊んでいればいいって、初めてぼくを練習へつれていったんです。  そこで初めて飛込みってものを見た。  正直、ああ、こんなもんかって感じでした。テレビとそんなに変わんないな、って。当時はまだ運動神経にもそんなに自信があるわけじゃなかったのに、ふしぎとそのときは思ったんです。これならぼくにもできる、って。  で、実際、階段をとことこ上って、五メートルの台から飛びました」 「ちょっと待ってくれ」  要一の話をきくあいだじゅう、その情景を思い描くように軽くまぶたを閉じていた前原会長が、ここで初めて「待った」の声をかけた。 「君は初めて飛込みを見た日に……その日に、五メートルから飛んだのか?」 「はい。っていっても、飛んだってより、落ちたって感じでしたけど」  要一は正直に白状した。 「でも、自分では飛んだつもりでした。少なくとも宙に浮かんでるあいだは。ふいをつかれたのはプールに落ちてからで、まさかあんなに深いなんて思わなかったから、ものすごくびっくりして……危うく溺《おぼ》れそうになって高校生に助けられたんです。あれはマジ怖かったですね」 「飛んでいるあいだは怖くなかったのかな」 「全然。ああ、こんなふうに地球が逆さに見えるんだな、って感じで」 「初体験で五メートルから飛んで風景が見えたか。いい度胸だ」 「初体験だったけど、でも、特別なことをしてる感じはしなかったから。なんていうか、すごくふつうのことをしてる感じでした。ごくあたりまえに宙にいるっていうか。ブラジル人がブラジルにいるみたいな」 「ブラジル人がブラジルに……」  前原会長は地球の裏側でものぞきこむように足下を凝視し、その隔たりを痛感したように軽く首をゆすった。 「まあ、いい。話を続けてくれ」 「それがぼくの初ダイブだったわけだけど、もちろん父親には怒られました。無茶な真似するなって。まあ、当然ですよね。でも、怒りながらも父親の目にはいつもとちがう何かがあったんです。なんていうか……そう、どっかうれしそうだったんですよね。  やっぱり部員たちが言うじゃないですか。さすがに筋がいいとか、度胸がいいとか、見よう見まねであれだけ飛べればたいしたもんだとか。最初はお世辞だと思ってたけど、父親の目を見たらそれだけでもない気がしてきて……。  で、翌日からもぼくは練習について行ったんです。父親は好きにしろって感じだったけど、部員たちが代わる代わるいろいろ教えてくれて、どんどん飛込みがおもしろくなって……。自分で言うのもなんですけど、ぼくはやっぱり筋がよかったんです。だから何を教わっても、しまいには教えてくれた人より上手になった。っていうか、上手になるまで練習しつづけたんです。  二年間、高校生の中に混ざってプールへ通いました。母親は最初のうち、ぼくに自分と同じ苦労をさせたくないと思ってたみたいだけど、だんだん応援してくれるようになって……。父親は何も言わずに見てるだけで、賛成してるのか反対してるのかよくわかりませんでしたね、長いこと。  でも小四の夏、父親がミズキの元会長に口説かれてMDCに転職したとき、初めてぼくに言ったんです。MDCで本格的に飛込みをやってみないか、って。初めてぼくを認めてるってことを認めたんですよ。  ちょうどぼくがジュニアオリンピックの十二歳以下の部で初優勝をした年でした」 「ひとついいかな」  前原会長が二度目に話をさえぎったのは、ここだった。 「さっきから気になっていたんだが、君はご両親の名が知れわたった飛込みの世界を忌み嫌っていたんじゃなかったかな。飛込みを続ければ、ますますご両親の存在が重くなるとは思わなかったかね」 「意外とそうでもなかったんです。なんていうか、かえって陸の上よりも水の上のほうが自由でいられたっていうか……。陸の上では血統とか、両親の経歴だとかで判断されがちじゃないですか。でも、いったんプラットフォームに立ったら、そこにいるのはもうおれだけでしょう。おれの体ひとつ。一・四秒は、昔の両親と比較しながら見るにはあまりに短すぎますからね。みんなはおれを富士谷要一として単純に評価してくれるんです」 「単純に?」 「おれがいつもより高く飛んだら、いつもより高く飛んだと評価してくれる。いつもより余分に腰をひねったら、いつもより余分に腰をひねったと評価してくれる。その単純さが気持ちよくて、どんどん体が軽くなってって……」 「なるほど。陸の上よりも水の上のほうが軽かった、か」 「なんか両生類みたいですけど」 「おたまじゃくしに足が生え、君はご両親の呪縛《じゆばく》の池から解放された」  前原会長は物思い顔でつぶやき、再びまぶたを下ろした。 「話を続けてくれ」 「MDCに入ってからは、それまで以上に練習練習で、ウエイトコントロールや健康管理にも気をつかうようになりました。なんせ一期生だったんで、教えるほうも教わるほうも気合いが入ってたんです。とくにぼくはなんていうか、最初からみんなのリーダーみたいなところがあったから。  父親は桜木高校の教え子を何人かMDCに誘い入れたけど、彼らは大学生になるとやめちゃったりあんまり練習に来なくなったりで、結局、いつもの顔ぶれではぼくが最年長だったんです。だからどうしてもこう、何をやるにも率先してみんなを引っぱらなきゃいけないみたいな……。もともと兄貴風を吹かすのは嫌いなほうじゃないんですけど、でも、そういうのがキツいときもやっぱりありましたね。  たとえばその……小五の春に事故ったんです。前逆宙返りに失敗して、プラットフォームに思いきり後頭部をぶつけて、プールに墜落して、だらだら血がでて、MDCの連中はもう大騒ぎで……。あんまりみんなが騒ぐから、おれもう死ぬのかなって一瞬思ったけど、救急車で病院に運ばれたら、出血のわりに傷自体はたいしたことなかったんです。  問題は、精神的な後遺症でした。よくある話ですけど、飛ぶのが怖くなっちゃったんですよ。思いだすんです、ぶつけた瞬間の音とか、痛みとか、生々しい血の匂いとかまで。で、なんかもう飛込み台を見るだけで足がすくんじゃって、とてもじゃないけど飛べないと思った。あのときはマジ飛込みやめようと思いました。  でも、おやじは許さなかった。おやじはおれに言ったんです。あの事故のショックをMDCのみんなが引きずっている。だれもが臆病《おくびよう》になって飛ぶのを恐れている。このままおれが飛込みをやめたら、みんなもそれを克服できない、って。  つまりはMDCのため。あの人はいつもそうなんです。  で、飛びましたよ。なかばやけくそで。ぼくもリーダーって役目を植えつけられてきたから、そこをくすぐられると弱いんです。  結果的にはその荒療治が功を奏したわけですけど、本当いうと、今でも前逆宙返りは苦手です。正直、飛ぶのがまだ怖い。あのときぶつけた後頭部も、いまだにときどき痛むし……。傷は治ってるから精神的なものだろうって医者は言うけど、おれの精神を広げてパーツごとに説明してくれたわけじゃないから、よくわかりませんね。  ふう。  すみません、ちょっとしゃべり疲れちゃいました」  要一は自ら話を中断して烏龍《ウーロン》茶を口にふくんだ。とたんに口が重くなり、再び開くのに時間がかかった。  おれはなんでこんなことまで話してるんだろう? うかつに明かせば命とりになるダイバーとしての弱点まで……。  素朴な、しかし重大な疑問が頭をよぎっていく。  半開きの瞳《ひとみ》でその様子をながめていた前原会長は、なかなか話が再開しないのを見て、要一のあとを引きうけるように口を開いた。 「じつをいうと、君がジュニアオリンピックの十二歳以下の部で初優勝したあの日、私もあの会場にいたんだよ」 「え」 「競泳の手伝いに駆りだされていてな。飛込みのほうをじっくり観てる暇はなかったが、小学四年生の君がなみいる五、六年生をさしおいて優勝したことはよく憶えている。当時はちょっとした事件だったからな」  要一はきょとんとした目を前原会長へむけた。 「よくご存じで」 「なんせ仲野頼子と富士谷敬介の二世だ。試合のはじまる前からみんなが期待していたんだよ。君のいう過剰な期待をね。しかし、君の飛込みは仲野頼子の亜流でも富士谷敬介の亜流でもなかった。君はすでに自分の飛込みを獲得していたわけだ。このまま順調に伸びていってほしいとだれもが願ったものだよ。そして実際、君はその後も順調に伸びていくように見えた」  しかし、と前原会長は声を落とした。 「人の内面はだれにもわからんな。サラブレッドにはサラブレッドの、駄馬には駄馬の試練がある」 「それでもやっぱり順調なほうだと思いますよ、ぼくは」  要一は気のない返事をした。 「事故にあったのはあれ一回きりで、それも軽傷ですんだわけだし。肩や腰の痛みに苦しんだこともなければ、鼓膜をやぶったこともない。もちろんスランプはあったけど、そんなのはだれにでもあるもんだし……苦労話みたいなのを期待されてるなら、だからもうあんまり話すことないんです。っていうか、なんでこんな話をしてるのかわからなくなってきた」  しゃべり疲れたせいかもしれない。自分のことを語りすぎたあとで人が陥《おちい》る自己嫌悪が要一を襲っていた。必死で話せば前原会長の心を動かせるかもしれないという期待も、そのために長々とした話の内容も、急にばかばかしいほど甘ったるいものに思えてきた。  が、相手はまだ要一への興味を失っていないらしい。 「飛込み以外の話でもかまわんよ。まだ時間はあるし、君の話をきいているのはなかなか楽しい。なんなら初恋の話でもいい」  なおもうながす前原会長に、要一は乾いた笑みを返した。 「飛込み以外は、ないんです。ふつうの友達も、ふつうの家族も、特別な女も、旅行の思い出も、趣味も、なんにも。飛込み以外には何もおれにはなかったんです」 「なんにも、か」 「はい」 「そりゃさびしい話だな」  一瞬、幼子のように無防備な目をした前原会長に、要一は「いえ、べつに」と事もなげに言った。 「慣れればたいしたことじゃないし、おれはそれでいいと思ってやってきたんです。だって……」 「なんだ?」 「笑いませんか?」 「さあどうかなあ」 「じゃあ言いません」 「神に誓おう」 「夢があったから」 「あ?」 「おれには夢があったから、飛込み以外に何もなくたって平気だったんです」 「夢」 「オリンピックへの夢ですよ」  伸びたり縮んだりをくりかえしていた二人をつなぐ糸が、再びぴんと張りつめた。  殺しても殺しても殺しきれなかった感情が要一の口からほとばしった。 「クラスメイトからの誘いを断るたびに、おれはいつも心の中で思いました。いつかオリンピックへ行くためだ、と。修学旅行の夜、みんなは好きな女子の名前を告白しあってたけど、おれには顔と名前さえ一致しなかった。それでもよかったんです、オリンピックがあったから。練習がどんなに苦しくても、つまずいても、その先にオリンピックが待ってると思えばぼくは平気でした。そのオリンピックでおれは……いつか父親を超えたかった。その夢に支えられてきたんです」  見つめあう二人を沈黙が包んだ。  これほど長い沈黙は初めてだった。  やがて前原会長は空気の重さでもたしかめるように、しわだらけの首を数センチほど斜めにかたむけた。 「君はその夢をかなえたはずじゃないのかな」 「かなえたはずです。なのに、そんな気がしないんです。あれだけ夢見てきたのに、心の中にいつもあったのに、そのためにがんばってきたのに……なのに、オリンピックへ行けることになっても、あんまりうれしくないんです。なんだか他人事みたいで、わくわくしないんです」  ここが、と要一は声を張り、自分の胸ぐらをにぎりしめた。 「熱くならないんです」  オリンピック内定からの煩悶《はんもん》。  疑惑と葛藤《かつとう》。  長いスランプ。  そのすべてが要一の頭に去来し、指の力以上に胸を締めつけた。  あの苦しみのはてにこんな結論へ行きついた自分は、もしかしたら世界一の愚か者かもしれない。父親が知ったら絶望するだろうし、MDCの皆も失望するだろう。でも、だれに何を言われようと自分にはあのまま、意志のない駒のように流されていくことができなかったのだ……。 「わくわくしない、か。たしかにそれは切実だな」  さっきよりも長い沈黙のあと、前原会長はつぶやいた。その瞳《ひとみ》には初めて見せる憐憫《れんびん》の色があった。 「五輪を自分のことにしたいと君は言ったね。もしも試合で代表を選びなおしたら、五輪は君のことになるのかな」 「わかりません。でも少なくとも今みたいに、自分とは関係ないことみたいではなくなると思います。それに、いったんどん底まで落ちたテンションを復活させるには、それくらいやらなきゃダメな気がして……」  一度は潰《つい》えかけた要一の期待が、再び息を吹きかえして胸の鼓動を速めた。  一生分の願力を使いはたしたっていい。  要一は祈るような思いで前原会長を凝視した。  前原会長は初めて自分から目をそらした。 「君の気持ちもわからないではない。しかしね、五輪は君だけのことじゃないんだ。君が何かを守ろうとしているように、だれもが何かを守ろうとしている。そして私にも守らなきゃならないものがある」  ジ・エンド。  要一の右手が胸からすべりおち、おかしな形で腿《もも》の上に垂れた。極限まで張りつめていた糸が断ち切られ、要一は椅子の背にだらんと全身をかたむけた。できればかたわらのベッドで永遠に眠りつづけたいくらいだった。  窓の外では明るすぎるほどの太陽が無駄に陽気に照っていた。その陽を浴びる高層ビル街は霞《かすみ》のようなスモッグの底で白くぼやけている。喧騒《けんそう》のうずまく都会も地上二十七階の窓からはひどく無機質で、時の流れを奪われたモノクロームの写真のように映った。  ふと気がつくと、両手に缶ビールをにぎった前原会長が目の前に立っていた。プルタブを開けた片方をさしだされ、要一は反射的に受けとったものの、自分にそれを飲みほす元気が残っているとは思えなかった。酒を飲んだところで何が変わるとも思えない。 「さっきも言ったが、私はメダルが欲しい。日本飛込み界がそれを必要としている以上、私の方針は変わらない」  前原会長はベッドの縁に腰かけ、要一のうつろな横顔をながめながらビールを流しこんだ。 「しかし、君が日中親善試合に欠場するというのなら、何か新しい策を練る必要があるだろうな。君の言うとおり、試合にでていない選手に内定を与えるわけにはいかんからな」 「……」 「君がどうしても欠場するというのなら、残念だが内定は取り消しだ。代わりに君の投げだした代表権を、日中親善試合で600点以上の得点をあげた日本人選手にくれてやるというのはどうだろう。君も知ってのとおり、600点は生半可な得点ではない。今の実力でクリアできるのは寺本一人だろうな。しかし、国内でこの程度の得点をとれない選手に五輪で戦えるわけもない」 「……」 「もちろん、寺本以外はだれもこの基準を超えられない可能性も大いにある。その場合は、やむをえん。宙に浮いた代表権を賭《か》けて、もう一度、試合を行うしかないだろうな」  見えない力が要一の背中をはじいた。 「試合?」 「シドニー五輪代表選考会だよ」 「!」  ハッと息を呑《の》みこんだ要一の内側で、ビールの泡のように何かがスパークした。 「その試合に出場するかしないかは君の勝手だが、基準は同じ600点だ。600点以上で優勝した選手一名にのみ代表権を与える。もしもその試合でも誰一人基準を超えられなかった場合は、いたしかたない。シドニーへは寺本一人で行ってもらうよ」  いいか、と前原会長は老いた瞳を異様に光らせて要一をにらんだ。 「一度、捨てた何かをとりもどすのは容易なことじゃない。君がシドニーへ行くためには、日中親善試合で寺本以外に600点以上をクリアする日本人選手が現れないこと、そしてその次の選考会で君が600点以上をとって優勝すること——このふたつが必須《ひつす》条件とされる。極めて厳しい条件だ。が、もしもそれをやりとげたら、君は……」  前原会長は喉《のど》に引っかかった何かを払うように咳払《せきばら》いをし、口元に力を集中させた。 「君はさぞかしわくわくするだろう。五輪は君自身のこととなり、夢はまた輝きだすだろう」  前原会長の手にした缶ビールが目の高さまでかかげられる。  なかば放心していた要一もおぼつかない手つきで乾杯のしぐさを真似、気付け薬でも飲むように口へ運んだ。  涙がでそうなほど苦かった。 「うまいか?」 「まずいっす」  前原会長は満足げにうなずき、腕時計に視線を移した。 「ジャスト十一時だ」  ジャスト十一時だ、の声とほぼ同時にノックの音が響き、ツーピースの秘書が雑誌の記者やらカメラマンやらを引きつれて入ってきたとき、要一はまだ夢の中にでもいるようにぼんやりとしていた。何かとほうもないことが起こったことを、自分がそれを起こしたことを信じかねているような。  にわかに騒々しくなった部屋の中、手際よく照明器具をセットしていく取材陣に追いたてられるように立ち去る直前、前原会長にかけた言葉もしどろもどろだった。 「あの、いろいろとその……なんて言うか……」 「何も言わんでいい」  壁の鏡でネクタイのチェックをしながら、前原会長は口早にさえぎった。 「帰ったら君のお母さんに礼でも言いなさい」 「は?」 「かつて飛込み界のマドンナと言われた君のお母さんに脅されたよ。息子のために少しの時間も割けないと言うのなら、昔、私に尻《しり》を触られたことを告発する、とな。とうに時効だが、私としてはよき思い出にしておきたい」  前原会長のふくみ笑いを引きずりながらエレベーターにのりこみ、ロビー階へと降りていくあいだも、要一の頭は依然として厚い膜のなかだった。停止したエレベーターを降りても、地に足を下ろしたという気がしない。  ホテルをでると、今まさに天頂へ昇りつめようとしている太陽が要一の肌を直撃した。  空が光っていた。  大気が光っていた。  アスファルトが、街路樹が、建ちならぶビルが光っていた。  その光をかき乱す風を受け、このとき、要一はふいに目がくらむほどの自由を感じながら思った。  おれは何かを失い、そして何かを得てきたのだ、と。失ったもののほうが得たものよりもはるかに大きい。が、しかし失ったのは欲しくなかったもので、得たのは欲しかったものだ。たまらなく欲しかったものだ……。  人々がひっきりなしに行き交い、時間が光速で駆けぬけていく地の上で、要一は一人、身じろぎもせずに天から降りそそぐ熱いものを浴びつづけた。まるで時に打ちこまれた杭《くい》のように、いつまでもその場に立ちつくしていた。 [#改ページ]   10…CHAMPION TOMOKI  十一月二十八日。午後一時半。神奈川県北部の相模原《さがみはら》台地上にある〈さがみはらグリーンプール〉は、どこから集まってきたのか大勢の人々でにぎわっていた。  テニスコートに野球場、陸上競技場などを内包する緑豊かな横山公園。その一角に位置するこのプールは、一九九八年の神奈川国体の前年に創設されたもので、巨大なドーム型の外観も、白とグレイのモダンな内観も、見るからにまだ若々しい。  それに反してこの日、スタンドを埋める観客たちの年齢層は高く、観戦というよりは花見に近い宴会ムードがたちこめていた。メインプールで開催中の『水中ウオーキング選手権・全国シニア大会』を応援する人々だ。  一方、日中親善試合の男子高飛込み決勝を待つダイビングプールのスタンドは、あいかわらず空席だらけのさびしいものだった。この試合で600点以上を獲得した日本人選手上位二名にオリンピック出場権が与えられる。そんな方針を日水連が打ちだしたことにより参加希望者の数は激増し、おかげで午前中の予選はめずらしく観戦者も多かったが、予選で敗退した選手たちとともにスタンドの人気も引いていった。すっかり閑散とした座席に今も残っているのは、決勝に進出する十二名の関係者くらいである。  それぞれのDCや家族たちがぽつりぽつりと小さな塊を作っている中、MDCの一陣とは離れた上部座席の一角に、スタンドにいながらにして飛込み関係者たちの注目を集める一人のダイバーがいた。  要一だ。  黒いパーカーにカーキ色のパンツという地味ないでたちにもかかわらず、要一は時としてプラットフォームの選手以上に人目を引きつけた。渦中の人が平然と観戦にきているのだから無理もない。  どこからもれたのか、要一が前原会長に直訴をした話はすでに飛込み界のすみずみにまで行きわたっていた。あの富士谷要一が代表内定を自ら白紙にもどした——圧倒的多数の人々がそれを不遜《ふそん》な、ばかげた行為だと批判した。あるいは冷然と嘲笑《ちようしよう》した。まして要一のおかげで運営続行の保証を失ったMDC関係者たちの憤りには並々ならないものがあった。ついこのあいだまではスターだった要一への失望を、陰に表に言い散らすクラブメイトや保護者たち。すみやかにCM出演の留保を申し渡してきたミズキ社長。要一の暴挙を知って以来、一言も口をきこうとしなければ目を合わせようともしない父、敬介——。  予想以上に激しい風当たりの中で、しかし要一は一切、弁解をしなかった。弁解しようにも彼自身、だれもが納得する理由を持っていたわけじゃない。彼はただ自分の納得できる道を行きたかっただけで、その代償として「バカ」だの「変人」だの「エゴイスト」だのと後ろ指をさされるのなら、甘んじて受けとめるしかないと覚悟は決めていた。  とはいえ、まったくの孤立無援だったわけでもない。頼子や夏陽子をはじめ、もともと日水連のやりかたに批判的だった一部の関係者や、この大番狂わせのおかげでオリンピックへのチャンスをとりもどした選手たちは、それぞれの見地から要一を弁護したり支持したりしてくれた。  運命のこの日、決勝の試合がはじまる直前にスタンドへ現れ、要一のとなりにどてっと腰を下ろした飛沫もまた、その数少ない味方の一人だった。 「予選、どうだった?」  おおかた昼まで寝ていたのだろう。寝癖のついた髪を座席の背に押しあてながら、飛沫はあくびまじりに要一へ問いかけた。 「トップで通過したのは埼玉の七十二歳、山之内辰雄ってじいさんだ」  要一が答えると、飛沫は「なに?」と目の色を変えて、 「そんな……嘘だろ。ありえない」 「ありえるよ。水中ウオーキング選手権、七十歳以上の部だからな」  飛沫は憮然《ぶぜん》と要一をにらんだ。 「飛込みの話に決まってんだろ」 「気になるなら早起きして観に来いよ。なかなか見ごたえがあったぜ、予選からみんな本気全開でさ」 「で、トップ通過は?」 「もちろん寺本さん。レイジは十八位で敗退、トモは六位で決勝進出だ。しかもトモのやつ、決勝に残った日本人九人中、四位だぜ。だてにやけくその練習してたわけじゃねえな」 「決勝に残った日本人は九人、か」  飛沫は渋い声でくりかえした。 「その中から600点以上をだした二人がコアラを抱けるってわけだな」 「いや、シドニー確定の寺本さんを除けば、あと一人だ。昨日の飛板で寺本さんはさっさと600点、クリアしちゃってるから。あの人、マジすごすぎるよ」 「あと一人……」  二人はそろって神妙なまなざしを飛込み台へむけた。  緑を透かす窓を背にしたコンクリート・ドラゴンは、ほのかな午後の陽光と天井からのライトに彩られ、挑戦者たちを待っている。十二名の選手はその階下で予選通過順位の低い順に整列し、軽くジャンプをしたり腕をまわしたりしながら決勝の幕開けにそなえていた。観る者が観ればこの動きだけでも選手の調子がわかるというが、知季の動きは自然で力みがなく、かつてないほどの安定を感じさせた。 「坂井と話をしたか?」 「ああ、予選のあとでちょこっと、な。おまえが気のぬけた演技をしないか見張りに来たぜって言おうと思ってたんだけど、六位通過で喜んでるあいつの顔見てたら、無性に憎たらしくなってきてさ。もしおまえが600点以上だしたら一生許さねーって、全然ちがうこと言っちった」 「あんたも大人げねーな」  飛沫は分厚い掌を要一の肩にかけた。 「でも、おれはあんたのその入り組んだ性格がだんだんおもしろくなってきたぜ。ふだんは賢いのに、ここ一番ってところで世界一バカなことをやってのけるところもな」 「そういうおまえも十分にバカだよ。この期《ご》におよんでシドニー行きのかかった試合を棄権するなんて、正気の沙汰《さた》じゃない。バカ世界一の座はおまえにこそふさわしいよ」 「いや、おれは……医者から言われたんだよ、もうしばらく腰を休めたほうがいいって。今やってる技ももう一息ってとこだしな」 「例の新種目か。麻木夏陽子と秘密の特訓中らしいけど、一体、おまえら何やろうとしてるわけ?」 「教えない。っつーか、教えたらおしまいのインパクト勝負みたいな技なんだよ」 「なんだそりゃ」 「来月、自分の目でたしかめろ」 「けど、この試合で寺本さん以外の日本人が600点以上をだしたら、次はないんだぜ」 「そのときは一緒に海ででも飛ぼうぜ。前にも言ったけど、おれはおまえらともう一度飛ぶためにもどってきたんだ。この際、舞台はどこでもいい」  からりと笑う飛沫に、要一も今なら吹っきれた笑顔を返すことができた。 「海か。それも悪くねーな。ま、おれがシドニーから帰ってからの話だけどな」  決勝のはじまりを告げるアナウンスが、そのとき、おごそかに流れた。  600点という苛酷《かこく》な条件が吉とでたのだろうか。オリンピック代表権のかかった決勝では気迫あふれる攻めの演技が相次ぎ、稀《まれ》にみる高水準の熱戦となった。それでもなお、600点という数字は選手たちにとってあまりに遠い指標ではあったのだが。  前原会長の言葉どおり、600点は生半可な得点ではない。一九九六年から九八年までの三年間をとってみても、国内の全試合を通じて600点以上をだした選手は、わずかに三名だ。そのうちの寺本を除く二名はすでに引退している。  ちなみにその三年間、中学校選抜における男子高飛込み優勝者の平均得点は、わずかに265点。その中学校選抜で全国大会に進んだことさえない知季と、最高670点という超人的な記録を誇る寺本健一郎との、圧倒的な隔たりが伝わるだろうか。  しかし、知季は夏陽子のコーチングの下、その隔《へだ》たりを恐るべきスピードで縮めてきた。背後からひたひたと迫りくるその存在をつねに意識していた要一は、この試合の観戦中、知季が追っていたのは自分ではなく寺本だったのではないかとの恐れを抱いたほどだった。それほどまでにこの日の知季は冴《さ》えていて、演技のひとつひとつにかつてないキレとパワーを光らせていた。  一方、孫コーチが率いてきた中国選手たちも、本国ではまだ駆けだしの若手とはいえ、さすがに「見せる演技」を知っていた。持ち前の柔軟性にスピード感、そして技の完成度——オリンピック代表権を競りあう相手が彼らでなくてよかったと、日本人選手のだれもが思ったはずだ。決勝で中国勢が伸びなやんだのは、「なにがなんでも勝ちたい」という執念で日本人に及ばなかったせいだろう。  前半の制限選択飛びが終わった時点での、上位六名の得点は以下のとおりである。  1 寺本健一郎   232・40  2 戴易辰《タイエキシン》     217・51  3 大宮《おおみや》いづむ   211・58  4 坂井知季    210・22  5 黄糧《コウリヤン》      181・37  6 ピンキー山田  179・08  全国の大学生や高校生、社会人選手に中国選手までが死力を尽くしあうこの試合で、知季はなんと四位にまで浮上してきたのである。 「こりゃ、マジやばいかもしんねーな」 「やべーな。なんか……しゃれになんなくなってきたよな」  二十分間の休憩時間、スタンドで戦々恐々と後半戦を待つ要一と飛沫の背中には、四年に一度の船にのりそびれた旅人のような哀愁が漂っていた。  まさか知季がここまで健闘するとは思っていなかったのだ。寺本以外で600点以上をだす可能性があるとしたら、現在、三位につけている日本体育大の大宮くらいだろうと踏んでいた。が、こうなるとその見積もりが甘かったことを認めないわけにはいかなかった。 「問題は、難易率だな」  要一は冷静に分析した。 「今んとこ210点のトモが600点を超えるには、自由選択飛びで390点をとらなきゃならない。っつーと、一回の演技における平均得点は65点……げ! おれだってそんなもんだしたことねーよ。しかも、トモはそんなに難易率の高い技を持ってないからな、平均65点つったら、六回のエントリーぜんぶ完璧《かんぺき》にこなしてやっとってとこだろう」 「あいつ、四回半、飛ぶのか?」  ふいに声をひそめた飛沫に、要一も小声で「いや」と返した。 「麻木夏陽子が阻止したよ。まだ一回も成功させてない種目を試合で飛ぶなんて無謀《むぼう》すぎるって。賢明な判断だな」 「こんな展開になったらなおさら、な」  二人は顔を見合わせ、同時に深いため息を吐きだした。 「もし坂井がシドニーへ行くことになったら、笑顔で見送ってやれるかな」 「むりだな。おれは陰ながらこっそりと、トモからもらった胡蝶蘭《こちようらん》を宅急便で送り返すよ。ちょっと枯れてきたし」  遠い目をしてつぶやきながらも、しかし本当のところ、要一はまだ知季の勝利を信じてはいなかった。自由選択飛びの六回をすべて完璧に飛ぶことなどできっこない、とどこかで高をくくっていたのだ。  あの寺本でさえも試合中、一度や二度は失敗する。けれど寺本は持ち技の難易率がずばぬけて高いため、それでも楽々と600点を超えることができるのだ。知季には失敗どころか小さなミスさえ許されない。  平均得点65点。今はまだ遠すぎる——。  メインプールでの〈後ろ歩きリレー〉に優勝したチームへの歓声にわく場内で、このとき、要一はまだ頑《かたく》なにそう思いつづけていた。  しかし、勝負というのはわからない。  要一の予測に反して、知季はなんと後半戦自由選択飛びの三巡目を終えた時点まで、一度のミスもない完璧なダイブをやってのけたのだ。  その平均得点は61・4点。  65点にはおよばないまでも、これにはだれもが目を疑った。  反対に、ベテランの大宮は後半戦に入るなり演技が消極的になり、三巡目の後ろ宙返りでは手痛いミスをして下位へ転落。ここで知季はついに日本人の二位にまで上りつめた。  一位はもちろん寺本で、後半三回までを終えた段階ですでに彼の圧勝は決まったも同然だったが、それでも日本の王者は最後まで全力で飛びつづけた。ライバル不在の国内大会で、寺本が自分自身との闘いを強いられるのはいつものことである。闘争心も、向上心も、自分で駆りたてないことにはだれも刺激してくれない。その孤独と、そのいらだちと、その重圧と、すべてをはじき飛ばすような彼のダイブが観る者の胸を打たないわけがない。  王者の気迫がのりうつったのか、知季の演技も試合が進むにつれてますます鬼気迫る迫力を帯び、四巡目のエントリーではついに66・23点という高得点をマークした。多くの選手が不得意とする逆立ちの演技をぴたりと決めてみせたのだ。  残されたエントリーは、あと二回。  この段階での知季のトータルは460・65点。  念願の600点まではあと139・35点。  ラスト二種目の難易率から計算すると、ジャッジの五人(七人中、最高点と最低点は切りすてられる)が9点以上をだしつづけた場合にのみ、知季のシドニー行きが成立することとなる。  ジャッジのナカ五人が9点以上。はたしてそんなことが可能なのか、はたまた不可能なのか。だれ一人予測がつかないまま、ダイビングプールのスタンドは息のつまるような緊張感に覆われていく。  要一も大いに緊張し、気をぬけば暴れだしそうになる体のあちこちを必死で抑えながら、化けに化けていく知季の姿から片時も目をそらせずにいた。  かえってそれがあだとなったのかもしれない。  あまりに緊張しすぎたせいか、ついに五巡目という肝心なときに席をはずすはめになったのだ。  尿意が限界に達していたのである。  大急ぎでいったん出口をくぐり、会場の外にあるトイレへ駆けこんだ。逸《はや》る気持ちを抑えてためこんでいたものを放出する。その瞬間も要一の心はまだ会場にあった。  とれるわけがない。いくら知季が予測不能の爆発的な底力を秘めていたとしても、平均69点なんてとれるわけがない……。  胸の内で呪文《じゆもん》のように唱えていると、背後からのっそりと人影が歩みより、要一のとなりに肩を並べた。トイレはがら空きであるにもかかわらず、わざわざ真横に狙いを定めるようにして。  既視感。どこかで同じことがあったような……。  要一がハッと目をやると、あいかわらず威勢よく事をはじめながら、前原会長は瞳《ひとみ》に一物ありそうな笑みを浮かべた。 「君が来るとは思わんかったよ」  奇妙な縁による奇妙な再会。  オリンピック代表権をかけた大事な試合だけに、前原会長が姿を見せることは予期できたものの、まさかまたこんな場所で顔を合わせるとは思いもよらなかった。 「今回、招聘《しようへい》した四人の母国には、〈漁夫の利〉という故事がある。だれかとだれかがもめているうちに、まったく無関係の第三者が利益をさらっていく。さすが大陸の人間はいいことを言うもんだ。君にこの言葉を捧げたいと思っておったところだよ。己の捨てた代表権を後輩に奪われるというのは、はたしていかがなもんかな」  あいかわらず挑発的な物言いに、要一は負けじとわざとらしい作り笑いを返した。 「もちろん複雑です。でも、こうなったら最後までがんばってほしいですね。トモになら代表権を持ってかれてもまだあきらめがつくし、ぼくもスポーツマンらしく応援してますよ」 「なるほど。潔いな。しかし、本気か?」 「冗談に決まってます」 「そりゃそうだ」  前原会長は納得顔でうなずいた。 「しかし、こりゃあ冗談で終わらんかもしれないぞ」 「え」 「坂井知季。あの子は、怖い」  低く言い残すなり、つかつか出口へ去っていく。  とうに用を終えていた要一はその背中を追いかけた。この機会にはっきりさせておきたいことがあったのだ。 「あの、この前ききそびれたことがあるんですけど……今となっちゃもうどうでもいい気もするけど、おれのオリンピック内定とミズキから来たCMの話、あれってなんかつながりがあったんですか?」 「つながり?」 「ミズキはスポーツドリンクを売りだすためのスターを求めてた。日水連は飛込みを世に広めるためのスターを求めてた。そうした思惑《おもわく》がオリンピックの選考にどっかで響いたってことは……」 「ありえんね」  最後まできくのも億劫《おつくう》そうに前原会長はさえぎった。 「我々にとってのスターはな、富士谷くんよ、メダリストだけなんだ」  あっけなく言い捨て、再び足を踏みだす。その灰色の頭の中にあるのはメダルへの執念だけ。それ以外のことはなにもかも、彼にとってはスイカの種みたいなものなのかもしれない。前原会長の知らないところで日水連とミズキがつながっていた可能性を考えつつ、要一ももはやこれ以上、スイカの種をほじくろうとはしなかった。 「待ってください。もうひとつ……」  と、代わりにふたつめの疑問を口にした。 「もう二十年以上も前の話ですけど、会長は『飛込み読本』って冊子を作られましたよね。すごく手のこんだ本で、今でも参考になります。でも、競泳の世界で生きてきた会長が、どうして飛込みの本なんか作ったんですか」 「理由はふたつある。ひとつは、若くして死んだ家内が飛込みの選手だったからだ。万年予選落ちの凡庸な選手だったがね、引退してからも飛込みの話ばかりしていたよ。私もセンチメンタルな男だから、生前は何もしてやれなかった家内に何かしてやりたかったのかもしれん。もうひとつは……」  声のどこかにからみついた湿気を、前原会長は咳払《せきばら》いで強引に押しだした。 「あの本を作ったのは家内が逝ってだいぶ経ってからだが、じつはそのころ、飛込みの選手に気に入っている女の子がいてな。きかん気の強さや、そのくせ台の上でおびえる姿なんかが家内とよく似ていた。ま、早い話がその子に何かしてやりたかったわけだな」  予想外の返答に要一はとまどった。 「どっちも女がらみですね」 「そんなもんだ。君ももう少し生きればわかる」  にやりと相好《そうごう》をくずし、「もういいかね」と今度こそ立ち去っていこうとする前原会長に、 「最後にひとつだけ」  要一はたった今、頭に浮かんだ三つめの疑問を投げかけた。 「その女の子のお尻《しり》を触ったことがありますか?」  会場のほうへと踏みだしていた前原会長の足が宙で止まった。危うく体のバランスをくずしかけ、よろめきながら要一をふりかえる。  その顔には謎のスマイルが浮かんでいた。 「私の答えと決勝戦の行方と、君はどちらに興味があるのかな」  要一はハッと我に返った。  そうだ、今は決勝戦の真っ最中で……知季の五巡目!  最後の答えに未練がなかったわけではない。しかし、要一は会場へと走りだす足を止められなかった。こんな大事なときに話に夢中になっていた自分がうらめしい。試合は、知季は一体どうなっているのか?  要一が勢いよく会場へ飛びこんだとき、スタンドは異様な静けさに包まれていた。それが嵐の前ではなく、嵐のあとの静けさであることはプールを見ればわかった。  深い青をたたえるダイビングプールには、たった今、五巡目を飛び終えた知季の姿がある。  要一は呼吸を整え、こわごわと電光掲示板へ目をむけた。  9点。  10点。  9・5点。  10点。  9点。  8・5点。  10点。  計71・25点。  総合得点531・9点。  三つの満点が要一をぐらつかせた。  知季はついに、運命の600点まであと68・1点というところまで迫ったのである。  試合の一巡目では飛込み台の背後から射していた黄金色の陽が、今では西へかたむき、側面の窓から煙った橙《だいだい》をそそいでいた。人気の絶えたメインプールでの競技はすでに終了し、スタンドの観衆も一人、また一人と立ち去っていく。  いきなりがらんと音をなくした会場。  今、そこで一人の少年が、自らの運命をわずか一・四秒に託そうとしている。  最終エントリー。  種目は、前飛込み前宙返り三回半抱え型。  ゆっくりと、挑むように知季が十メートルの高みへ姿を現したとき、スタンドの夏陽子がきつく両手を組みあわせたのが要一には見えた。のんきであどけない少年に三回半を教え、根気強く磨きあげてきたのはこの夏陽子だ。知季はこの技によって偉大なる躍進への第一歩を踏みだしたともいえる。はたしてこの技でシドニーまで飛んでいくのか——。  夏陽子のとなりには敬介の微動だにしない背中があった。そのまたとなりでは大島がせわしなく体をゆすっていた。幸也がいた。陵も来ていた。予選で敗れたレイジもいた。要一のとなりで息を殺している飛沫もふくめ、だれもが十メートルのプラットフォームを食い入るように見つめていた。  スタンドにいるだけで口が乾くようなこの正念場で、たったひとり台の上に立つ知季は一体どんな思いでいるのだろう。  吐き気のするような緊張。  押しつぶされそうな重圧。  片時も離れない失敗の恐怖。  その気持ちがわかるだけに要一は痛ましく、なんとかベストを尽くさせてやりたいと願わずにいられなかった。  ベストを尽くして飛び、その上で失敗してほしい。  どうかすがすがしく散ってくれ!  要一が力のかぎりに祈ったそのとき、短いホイッスルの音が響き、知季が足を踏みだした。  バネのある体が軽々と、そして高々と宙を舞う。文句なしのテイクオフ。続く宙返りにもスピードと力感がみなぎり、回転する体はコンパスのように美しい弧《こ》を描きだす。一寸のブレもない会心の三回半。この時点でだれもが知季のシドニー行きを確信した。ところが……。  そのとき知季が何をしようとしたのか、瞬時に見てとったのは要一と夏陽子、それに敬介くらいのものだったろう。  完璧《かんぺき》な三回半をまわりきった知季の体は、入水直前の水ぎわでにわかに奇怪な動きをし、まるで水を拒否するかのごとく大きく伸びあがると、ふいに糸が切れたように背中からずぼんと水中へ没した。  立ちのぼる激しいスプラッシュ。  その水柱がシドニーへ届きかけた知季の行く手をふさいだ。  だれもが一瞬、何が起こったのかわからずにいた。  水深五メートルのプールでさえ、何か心外な異物でも呑《の》みこんだようにうねうねと荒れている。  最も早く我に返ったのは、採点という義務に駆られた七人のジャッジだった。彼らは小首をかしげながら、あるいは眉《まゆ》をよせながら、目前のキーボードへ指先を伸ばした。  5・5点。  5点。  6点。  4点。  4点。  4・5点。  5点。  トータル38・88点。  総合トータル570・78点——。  小さな悲鳴のような声がどこかできこえ、それからまた会場は音をなくした。  次の選手が台上へ姿を現しても、だれ一人そちらへ目をやろうとはしなかった。  だれよりも冷静にこの結果を受けとめたのは、もしかしたら当の本人だったかもしれない。プールから上がった知季は電光掲示板をちらりと一瞥《いちべつ》し、そんなものだというような顔ですたすたジャグジーバスへ歩きだした。表情ひとつ変えず、その肩に落胆を匂わせることもなく。  その淡々とした足どりを目にして初めて、要一のとなりでなかば放心していた飛沫がはたと口を開いた。 「まさか……あいつ、四回半を!?」  要一は返事の代わりにため息を吐きだした。  この試合中に幾度となく吐きだしたため息の中でも、最も長くて深いものだった。 「バカがもう一人、か」  十二名の選手による白熱の戦いは、結局、寺本健一郎の688・41点という驚異の自己ベスト更新によって華々しく幕を閉じた。600点への挑戦に散った知季は敗れた十一人の一人としてくくられ、人々の記憶から速やかに葬り去られる運命にある。最終エントリーに秘められた彼の思いなど観衆は知るよしもなく、彼らはただ勝者の結果のみを評価し、称賛する。それが試合というものであり、勝負というものである。  試合後、気がつくと姿を消していた知季を要一と飛沫がようやく見つけだしたのは、あたりが水よりも深いブルーに包まれた夕暮れどきだった。  知季は人影のない横山公園のはずれで、樹木と小径《こみち》を分けるフェンスにぽつんと腰かけていた。力のかぎりをだしつくしたその姿はまるで陸にあげられた魚で、ふたつの瞳《ひとみ》は水でも恋しがるようにじっと足下を見つめていた。 「おめでとう」  要一はつかつかと歩みより、躊躇《ちゆうちよ》もなしに言い放った。 「沖津と協議した結果、世界一の大バカチャンピオンは坂井知季くん、君に決定したよ」  知季はぼんやりと顔を上げ、二人にスローな視線を這《は》わせた。 「ありがとう。でも、それって名誉あることなわけ?」 「あるわけねーだろ、バカ。無難に三回半決めてりゃ600点いったのに、あの土壇場であんな無茶して名誉もクソもあるもんか。せっかくつかみかけた代表権を自分から追っ払うやつがどこにいるよ」 「せっかくつかんだ代表権を……」  と、横から飛沫が口をはさんだ。 「自分から返しにいくやつならここにいるけどな」  要一は飛沫をにらみ、再び知季へむきなおった。 「いいか。もしもおまえが万が一、四回半を成功させてたとしても、事前に申告した種目以外の技を飛んだら反則で0点だ。どのみちおまえは負けていた。正気の沙汰《さた》じゃない。こんなバカ、地球を十周したってほかには見つからない」  容赦のない言いように、しかし知季は反論するでもなくただまっすぐなまなざしを返してくる。  見つめあう彼らに十一月の冷たい風が吹きつけた。  やがて要一は根負けしたように「でも」と声を落とした。 「でも、おまえはそれを承知で、最初からあれを飛ぶ気だったんだよな」 「……」 「麻木夏陽子の前ではあきらめたふりしても、ほんとは最初から今日、四回半を飛ぶ気だったんだよな」 「要一くんが……」  疲れと寒さで色あせた知季の唇がぴくりと痙攣《けいれん》した。 「要一くんがオリンピックをとりもどしてくれたから……もう一回ぼくたちのことにしてくれたから、だからぼくも今日、自分の手で何かをとりもどしたかった」 「……」 「試合はだめだったけど、でも、ちゃんととりもどしたよ」  青ざめた顔に広がる知季の笑みに、要一はくっと奥歯をふんばった。 「だったらこんなとこでしょげてんじゃねーよ。そのとりもどしたもんをみんなに見せてまわれ。おれはすげーことをやろうとしたんだって、みんなに言ってまわれ」 「しょげてるんじゃないよ。ちがう。忘れないように頭の中でくりかえしてたんだ」 「何をだよ」 「四回半……今日、やっとなんかつかみかけた気がする」  知季はぶるっと全身を震わせ、高ぶっていく何かを抑えこむように両腕をきつく組みあわせた。 「もしかしたらできるかも、って。あ、飛べるかもって、今日、初めて思ったんだ。あの感覚……今日、初めてだよ。だから忘れたくなくて、何度も何度もくりかえして頭に染みこませたくて、次こそ成功させたくて……」  にわかに熱を帯びてきたその声に、要一と飛沫はぎくりと顔を見合わせた。  勝負は終わっていない。  むしろこれはほんのはじまりにすぎないのだ。  決戦の舞台は来月。知季は今後も日々刻々と進化し、底なしのパワーで二人をおびやかしつづけるだろう。 「来月の選考会では四回半、きっと成功させてみせる」  力強く宣言した知季の声にはかつてない自信が宿っていた。 「だれよりもたくさん回転して、今度こそ600点以上とって……それで、シドニーへ行くよ」  再び強い風が吹き、まだ水気をふくんだ知季の髪を乱した。  背後の木々もそれに合わせてざわめき、深まりつつある闇をゆさぶった。  風がやんだとき、要一の唇はいつもの不敵な笑みをとりもどしていた。 「シドニーへは行かせない」  と、要一は言った。 「おれが阻止する」 「おれたちが、だ」  と、横から飛沫が訂正した。  見つめあう三人の顔に愉快げな笑いがはじけた。  彼らは無言でそれぞれの決意をたしかめあい、それから、寒いので会場へもどった。 [#改ページ]   11…SS SPECIAL'99  東北沢の裏通りにある〈ナチュラルハウス〉に要一が夏陽子を招待したのは、日中親善試合からほぼ一週間が経った土曜の昼だった。 「なんでも好きなものを食べてください。今日はぼくもつきあいます」  白木とクリーム系のインテリアのみで統一されたオーガニック・レストラン。その窓ぎわの席で要一が夏陽子にさしだしたメニューには、有機野菜や魚を中心とした、いかにも味の薄そうな料理名が羅列されている。  かぶと手作りがんものじっくり煮。白菜の蟹《かに》あんかけ。大根と小松菜のゆず風味。さつまいもとレモンのサラダ。白身魚と舞茸《まいたけ》のホイル蒸し。手作り寄せ豆腐……。 「見てるだけで健康になりそうね」  夏陽子は異文化へのとまどいを隠せずに言った。 「血が薄まりそう」 「味は保証します。ぼくは基本的に外食しないけど、ここにはときどき来るんです。今日はぼくのおごりですから、好きなのをどうぞ」  迷った末、夏陽子は「ぶり大根と水菜のじゃこ和え・玄米ごはんのランチ」を注文し、要一は「焼き魚と温野菜・茶そばのランチ」を選んだ。 「で、今日はなにかしら。例のスランプはこのところ、最悪の状態からは脱したように見えるけど」 「おかげさまで」  まったく、この人はなんでもお見通しだ。要一は胃袋の中まで見透かされるような不気味さを覚えながら言った。 「今日はまあそのお礼と、あとは頼みがありまして……」 「頼み?」 「まずはお礼のほうから言っちゃうと、ほんと、このたびはお世話になりました。にっちもさっちもいかなくなってたとき、最初に突破口を開いてくれたのはやっぱり麻木コーチだったと思います」  要一は改まった調子で夏陽子に一礼した。その性格はさておき、非の打ちどころのないスタイルの彼がしなやかに頭を垂れると、その曲線はまるで胡蝶蘭《こちようらん》のように優雅なラインを描く。 「例のCMの件も、麻木コーチの口添えで白紙にもどったんでしょ? あんなへんてこなCMにでないですんで、マジほっとしました」 「私はただ意見を求められただけよ。富士谷要一というのはずいぶん偏屈な変わり者のようだが、ミズキのイメージキャラクターとしてはいかがなもんだろう、って。やめておいたほうがお互いのためでしょうねって言っただけ。もともとあなたが内定を蹴《け》った時点で、あの話は実質、流れたようなものでしょう」 「でしょうね」 「その内定とりけし騒動にしても、私がいなくたってきっとあなたは最終的に同じことをしたわ。だからお礼とか、そういうのはやめましょう。あなたのしたことはおおかたばかみたいだったけど、でもどこかしら痛快だった。それでいいじゃない。口にはださなくても、同じことを思っている人って結構いるはずよ。それに……」  夏陽子はめずらしく言いよどみ、浅葱《あさぎ》色のお茶を一口すすった。 「それに?」 「それにあの日……あの試合のあとで姿を消した坂井くんをあなたと沖津くんがつれてもどったとき、三人で笑いながら歩いてきたあなたたちの姿を見て思ったの。あなたは決して口にはださなかったし、もしかしたら自分でも気づいてないのかもしれないけど、あなたが内定を投げだした理由って、案外、ものすごく簡単なことだったんじゃないかって」 「なんすか、それ」 「さあ、なんでしょうね」  夏陽子は思わせぶりにふふんとほほえんだ。 「ってことで、もうこの話はおしまい。もともと私、終わったことにはあんまり興味がないのよね。試合のあとの反省会なんかも勝手にやってればって感じで。それより、あなたの頼みのほうに興味があるんだけど」  当惑顔で小首をかしげていた要一は、その一言でにわかに緊張し、すうっと息を吸いこんだ。それからはずみをつけるように両ひじをせりだし、多少、ばつが悪そうに語りだした。 「おれは結構、反省好きのほうなんで、今回のスランプについてもあれからまた自分なりに考えてみたんです。たしかに麻木コーチの言ったとおりだと思うけど、でも、それだけじゃないような気がして……。どっかでおれ、知らずしらず、守りに入ってた気がするんです。手持ちの技をいかに自分のものにするか、完璧《かんぺき》に飛ぶかって、そればっか考えて攻めの気持ちをなくして、新しい何かに挑戦することを忘れて……」  これじゃいけない、と要一は自分自身に言いきかせるように声を強めた。 「まずはここから変えていこうって思うんです。トモみたいに、沖津みたいに、おれもまた新しい何かに挑戦したい。それも、できればずっと苦手にしてきた種目——前逆宙返りに」 「前逆宙返り……」 「意外とみんな気づかないもんだけど、おれは得意の蝦《えび》型を前逆宙返りでは飛んだことがないんです。いつも飛びやすい抱え型でお茶をにごしてきた。ガキのころに事故ったことがあって、そのトラウマを引きずってきたんだけど、そろそろけりをつけたい。っつーことで……」  要一は大きく息を吸いこんで、言った。 「おれに、前逆宙返り二回半蝦型を教えてくれませんか?」  夏陽子はマスカラで強調されたまつげをぱたぱたと煽《あお》った。  前逆宙返り二回半蝦型——。  難易率2・9のその種目は、前逆宙返りに苦手意識を持っていない選手にとってさえ、極めて困難な技とされている。危険をともなう上に成功率も低いため、試合でもめったにお目にかかれないほどだ。 「前逆宙返り二回半蝦型を、私があなたに?」 「代表権がかかった選考会まであと二週間。こんな短期間でこの厄介な技をマスターするとしたら、コーチはあんたしかいない」 「私にならできると?」 「あんたと、おれになら」  要一の瞳《ひとみ》によみがえった自信に、夏陽子の頬がゆるんだ。 「おもしろいこと言うじゃない」 「この上なくまじめな話です。おれはなにがなんでも来月の選考会でオリンピック代表権をとりもどさなきゃならない。そうでもしなきゃMDCの連中に顔向けができないし、家庭環境もますます悪化する。もしMDCが閉鎖に追いやられたら、おやじはおれと父子の縁さえ切りそうな勢いなんですよ。家の中ですれちがうたびにただならぬ殺気を感じる。そんなおれたちにはさまれて、おふくろはストレスであごが開かなくなりました」 「まあ」 「顎《がく》関節症ってやつです。ともかく、そんなこんなでおれは来月の試合には絶対に負けられない。必ずそれまでにこの新種目を完成させて、身も心も最高の状態で選考会へ臨みたいんです。そして……」  要一は確信をこめて宣言した。 「そしてこの前逆宙返り二回半蝦型……名づけて、『SSスペシャル'99』をばりばりに決めてシドニーへ行きます」 「SSスペシャル?」 「偉大なる蝦型——スーパー・シュリンプ・スペシャル、です」 「……」  夏陽子はあっけにとられて絶句した。それから探るような、どこまでまじめなのかうかがうような声色で、 「前逆宙返り二回半蝦型は、昔からずっと前逆宙返り二回半蝦型と呼ばれていて、今でもだれもが前逆宙返り二回半蝦型と呼んでるの。わざわざ新しい名前をつける必要があるかしら」 「自分をその気にするためです。イメージ・トレーニングのニュータイプです」  要一は堂々と言ってのける。  夏陽子は再び絶句し、救いでも求めるように店内を見まわしたが、そこには体によさそうな物や色以外には何もなかった。  目に優しいクリーム色の壁。近づけば香りそうな白木の天井。自然な明かりを灯《とも》す白熱灯に、それをふんわりと抱く和紙の笠《かさ》。天井と同様、ついさっき森から運ばれてきたばかりのような白木の床にテーブル——。  ひとつひとつをまじまじとながめていた夏陽子の脳裏に、そのとき、あるフレーズがよみがえった。 「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」 「なんすか、それ」 「『創世記』の一節よ。子供のころに憶えさせられたの。万物は人に名づけられることによって、人のものとなる。『SHEEP』然《しか》り、『COW』然り、『SSスペシャル'99』も然り……」  夏陽子はアメリカ仕込みの美しいアクセントでそれらの名を音にした。 「いいかもしれないわね。それでこの技があなたのものになるのなら」 「じゃあ……」 「私も協力するわ。もちろんこれまでどおり、ほかの子たちを教えながらだけど」 「感謝します」  要一が威勢よく頭を下げたそのとき、草木染め風の割烹着《かつぽうぎ》をはおった店員が両手に膳《ぜん》をのせて現れ、二人の前にそれぞれのランチセットをおろした。  要一が再び頭を上げたときには、夏陽子はすでにしゃかりきに箸《はし》を動かしていた。 「なるほど。たしかに味はいいわね」  もう話はついたというふうに食事に熱中する夏陽子につられて、要一も箸に手を伸ばす。  二人はα波で会話をする植物姉弟のように黙々と膳のものを口へ運んだ。  ぶり大根も水菜も玄米ごはんも平らげ、いつものようにあわただしく席を立つ直前、夏陽子は一度だけ要一のことを思いだしたように言った。 「いつかあなたに脂でぎとぎとのスペアリブや、デミグラスソースたっぷりのビーフシチューなんていうのも食べさせてみたいわ」 「食べてみたいですね」  と、要一もうなずいた。 「でも、その日はまだ遠そうね」 「遠いでしょうね」 「後悔してない?」 「なにをですか」 「この極端な世界の、さらに果てみたいなぎりぎりのところまで自分を追いこんでしまったことを」  考えるまでもなく、要一は首を横にふっていた。 「自分で決めたことだから」  600点以上という厳しい条件つきで優勝を争う最終決戦。オリンピックへの最後の望みをかけたその舞台へむけて、たしかに要一は今、ぎりぎりのところにいた。日を追うごとにプレッシャーは高まるだろうし、『SSスペシャル'99』の猛特訓がはじまれば、それこそ毎晩、胃液を吐くほどに困憊《こんぱい》するのも目に見えている。  けれどそれはほかならない自分自身の降らせた雪だ、と要一は思った。  これからはこの手でそれを転がし、だれのものでもない自分の、真の雪だるまを作っていく。  多少は形が悪くても、触れるとそれはたしかに冷たいし、溶けて流れてもきっと跡は残るだろう——。 [#改ページ]  四部 コンクリート・ドラゴン [#改ページ]  夜の闇に潤む幾千のネオンが、まるで海から立ちのぼる潮煙のように港の町を濡らしていた。透明度の高い冬空の下で光のしずくは冴《さ》えわたり、大阪湾から掌を開くように広がる町の血脈を鮮やかに点描する。もしも町が人のように呼吸し、育ち、栄え、そして衰えるものであるならば、これは一度は絶えかけ、そしてよみがえった再起の光だ。痛ましい震災の傷跡をいまだ残しながらも、そこにはかつて賛美された美しさだけではない、たくましさの粒子が息づいている。  一九九九年十二月十八日。阪神・淡路大震災から五年の年月を経たこの日、神戸の町を望む六甲山頂の展望レストランから、三人のダイバーがこの夜景に見入っていた。 「すごい。きれいだ。きらきらしてる」  食い入るようにながめているのは、坂井知季、十四歳。天賦《てんぷ》の才——ダイヤモンドの瞳《ひとみ》を持って生まれた未知の大器。 「あんなにでかい地震があったなんて信じられないな。人間は自然に勝てないけど、ギブアップさえしなけりゃ徹底的に負けることもないのかもしんない」  感慨深げにつぶやいたのは、沖津飛沫、十七歳。幻の天才ダイバーと呼ばれた祖父、沖津白波の血を継ぐMDCの秘密兵器。 「ここの人たちが必死で町を立てなおしてきた五年間、こっちは何をしてきたかっつーと、ただひたすら飛込みだけ。おれたちがどんな技を決めたって、世界はなにひとつ変わらないってのにな」  苦い笑いをもらすのは、富士谷要一、十七歳。元オリンピック飛込み代表の両親から生まれたサラブレッドの大本命。 「それでも人は見たいんだよ、人間の能力の極限を。たとえ世界が変わらなくたって、腹の足しにもならなくたってさ」  コーチの大島が三人を順にながめながら言った。 「おまえらだって見たいだろ。より速く走る人間を、より高く飛ぶ人間を、より美しく舞う人間を、さ。新記録なんざでようもんなら無条件に血が騒ぐ。興奮するし、感動する。大食い選手権でさえ目頭が熱くなる。限界への挑戦ってのは、たぶん人類のDNAに組みこまれてるんだろうな。人は、人を試したいんだ。スポーツ以外の世界にだって、特殊な薬品や道具を使って何かを試したがってるやつらがごまんといる。おまえらなんて健全なもんだよ。ヘルシーワールドの伝道師として、堂々と飛べばいい」 「伝道師なんてまっぴらだ。おれは、おれのために飛ぶ」  言下に切り返したのは、要一だ。 「すかっと勝って、高笑いのひとつでもして、この胸にマイ・コアラを抱くためにな」 「マイ・コアラ?」 「ああ。オーストラリア政府がシドニーオリンピックの参加者全員にコアラを贈呈するらしいって極秘情報、きいてるか? さすがは動物大国、やることが太っ腹だよな。こうなりゃ、ますます負けらんねえ」 「あんたはガセネタに踊らされている」と、飛沫も負けじと言い返した。「コアラってのはやたら繊細な動物で、飼育が難しいんだ。しかも今、野生のコアラが絶滅の危機にさらされてんのを知んねーのか? 動物愛護の精神に欠けるあんたを日本代表として送りだすわけにはいかない。シドニーへは『コアラまるわかり大百科』を熟読したこのおれが行く」 「でもさ」と、にらみあう二人に知季が割って入った。「コアラってよく見ると、目つき悪いよね」  思わぬ一声に、要一と飛沫がぴくりと眉を持ちあげる。 「目つき?」 「うん。なんか一癖《ひとくせ》ありそうっていうか、じとっとしてるっていうか、あの目はなんか企んでるよ」 「なにをだよ」 「ユーカリ全滅とか、さ。それに比べてイルカはいいよね、賢いくせに無邪気で、フレンドリーで、おでこもつるつるしちゃってさ。ぼく、オーストラリアに行ったらグレートバリアリーフで野生のイルカに会うんだ」 「グレートバリアリーフ……なんかおまえ、一人でさわやかに決めようとしてねーか?」 「あとね、ホエールウォッチングもしたい」 「鯨なんかいんのかよ」 「いるよ、西オーストラリアの……」 「パース近郊の海だ。南極海に棲息するザトウクジラがやってくる」 「あれ、なんで沖津くんが知ってんの?」 「シドニー行きに先がけて、『オーストラリアなんでもかんでも豆知識』を熟読したからな」 「沖津って結構、読書家なのな。けど実際、オーストラリア政府からマイ・コアラを贈られた場合、大事なのは頭につめこんだ知識よりも無償の愛だと思うぜ」 「だから、贈られねーっつの!」  みるみる脱線していく三人を前に、大島はやれやれ、と頭を抱えこんだ。「夜の町を一望したい」だの、「山頂で勝利の誓いを立てたい」だのとさんざんせっついておきながら、すでに彼らは眼下の夜景などすっかり忘れている。神戸の町中から六甲山までのタクシー代を考えるとへなへな力がぬけたが、しかし反面、こんなふうに三人が戯《たわむ》れていられるのも今のうちだと思うと、せめて今日くらいはこのまま、ただの十代の少年たちみたいな顔をさせていてやりたくもあった。  オリンピックの代表権を賭《か》けた選考会。  正真正銘のラストチャンス。  その前日にあたるこの日、午前中の練習のあとで彼らを神戸へつれていこうと言いだしたのは、夏陽子だった。  今回の試合は大阪の〈なみはやドーム〉で行われるため、彼らは五日前から大阪入りをしていたのだが、練習に次ぐ練習で観光どころかお好み焼きを食べる暇さえなく、過密スケジュールを黙々とこなしていく三人の表情からは日に日に余裕が失われていった。プライベートの確保された東京とはちがい、大阪では四六時中ライバルが側にいるわけだから、おのずとだれもが少しずつむきになる。その少しも積もれば大きな負担となる。せめて試合前日の午後くらいは体を休めろと勧めても、三人はプールから離れようとしない。  そこで急遽《きゆうきよ》、観光と称して彼らをつれだし、やや強引にリフレッシュをさせることになったのだった。 「みんなに神戸の半日観光をプレゼントするわ」  夏陽子の突然の申し出に、知季はぴちぴちした好奇心を抑えきれずに瞳を輝かせ、飛沫もまんざらでもない様子で、要一だけが逡巡《しゆんじゆん》していたものの、結局は黙ってついてきた。  冬晴れのしゃっきりとした午後だった。異人館通りをぶらつきながら、南京町で豚まんや水《すい》餃子《ギヨーザ》をほおばりながら(要一は頑として口にしなかったが)、港から遠ざかっていく船を見送りながら、張りつめていた三人の表情がほぐれていくのを大島は安堵《あんど》の思いで見守った。反面、彼らが無邪気にじゃれあう姿を見るにつけ、明日の運命を呪わずにはいられなかった。  明日、彼らはライバルになる。そしてだれが勝とうと、だれが負けようと、そこには見えない隔《へだ》たりが生まれる。もちろん彼らはのりこえるだろう。しかしそれには時間がかかるし、苦しみをともなう。少なくとも、こんな朗らかな午後は当分のあいだ訪れない。  だれよりも彼ら自身がそれを承知し、覚悟しているのだろうと大島は思った。異人館通りをぶらつきながらも、南京町で豚まんや水餃子をほおばりながらも、港から遠ざかっていく船を見送りながらも、彼らは明日の運命を一時《いつとき》たりとも忘れはしなかっただろう。だからこそよけいにこの時間を貴び、しゃにむに楽しもうとしているようにも見えた。ごくふつうの少年たちがごくふつうに享受しているはずの休日を。たったの半日を。  神戸観光の言いだしっぺである夏陽子が、途中で急に用事ができたと大阪へもどっていったのは、そんな三人の姿を見るに忍びなくなったせいだろうか……。  一人思いにふけっていた大島がふと気づくと、いつのまにかコアラ論争は終わっていたらしく、三人の視線が集まっていた。 「どうした?」 「大島コーチこそ。ぼうっとしちゃって」 「いや、悪い。で、どうなった」 「なにが」 「その……コアラだよ」 「そんな話はとっくに終わったよ」と、要一があきれ声を返した。「万が一、マイ・コアラを贈られたとしても、野生に返してやることにした。動物園にやるのもかわいそうだし、家で飼ったらユーカリの調達に人生捧げることになりそうだしな」 「そうか、ユーカリか……そりゃ大変そうだよな、はは」  調子を合わせようとするものの、大島の声には張りがなく、笑いも完全に乾いている。  三人の顔に困惑の色が浮かんだ。  何か言わなくては。コーチとして、彼らを安心させる何かを。  なのに、言葉がでてこない。 「大丈夫だよ、大島コーチ」と、そのとき、知季が言った。「明日は絶対、だれかが勝つから。おれたちのだれかが600点以上で優勝するから。MDCは、おれたちが守るから。だからコーチは失業の心配なんてしなくていいからね」 「……」  自らの手で何かを守ろうとするとき、少年はひとつ大人になる。知季の瞳《ひとみ》の中にあるそれは要一や飛沫の瞳にも宿り、大島はうれしいような切ないような痛ましいような、ややこしい感情に胸を締めつけられた。 「ありがとよ」  低くつぶやいて窓辺に目をやると、心なしやら光のしずくが潤んでほのめいていた。  神戸の半日を終えた四人が大阪へもどったのは、午後八時すぎ。「今日は早く休むこと」と敬介には釘《くぎ》を刺されたものの、レイジと幸也がホテルへ到着していることを知ると、彼らはさっそく二人の部屋を訪ねていった。  大阪入りには一足遅れたものの、レイジもまた、明日の選考会に出場するメンバーの一人だ。学業第一という家庭の方針に従って、土曜の授業を終えてからサポーターの幸也と新幹線で駆けつけた。 「でも、やっと大阪に着いたと思ったら、みんなは神戸で観光中なんだもん。そんなのずるいって、ぼくたち、逆上したよね」  幸也のおどけた口ぶりに、一同は声をそろえて笑った。  しかし、レイジだけが笑わずに続けた。 「で、富士谷コーチがぼくたちに同情して、夜、ちょっと高級なレストランにつれてってくれたんだよね。そしたら、そこにだれがいたと思う?」 「だれって?」 「麻木コーチ」  一同が顔を見合わせた。 「麻木コーチ?」 「あの人、用事があるって先に神戸から帰ってったんだよな」 「レストランでのんきにメシ食ってるなんて、いい根性だ」  そろって眉をよせる三人に、レイジは「ううん」と首をふり、 「ごはん食べてるってより、なんか真剣に話しこんでる感じだった。知らない外国人の人と、英語でペラペラさ。なに言ってるのかはほとんどききとれなかったけど、でも、ちょっとだけわかった」 「なんでわかんの?」 「だってぼく、英語の勉強まじめにやってるし、アメリカ人の家庭教師に習ったこともあるし、家族でグアムに行ったことも……」 「いいから、何を話してたんだかさっさと言え!」  要一の一喝に、レイジはびくんと肩をそらして即答した。 「アメリカに行く、って」 「は?」 「日本よりもアメリカのほうが飛込みの環境もいいとか、そんなようなこと言ってたんだ。外国人が説得してる感じで、麻木コーチも最後には、OKって……」 「OK?」  K、の半開きの口のまま、彼らは一斉に沈黙した。  知季の頬はみるみる青ざめていった。  飛沫の視線は焦点をなくして宙をさまよった。  要一はかたく唇を噛《か》みしめていた。  ——OK?  理解しがたい夏陽子の返答を前にして、知季も、飛沫も、要一も、だれもがこの一瞬だけは完全に明日の試合を忘れた。 [#改ページ]   1…DREAM MATCH  少年たちの夢を賭《か》けた舞台。そんなものは別段、めずらしいものじゃない。プラットフォームに立つ少年少女たちは、だれであれ、どんな試合であれ、そこに何かを賭けている。ニューヨーク郊外のDCで六年間、コーチングを教わりながら生徒たちを教えてきた。胃の痛むような接戦に立ち会ったこともあれば、遠征先での大舞台を陰から支えたこともある。試合前の緊張感だってとっくに手なずけたはずだった。  なのになぜ、こんなにも胸が暴れるのだろう?  幸也が「巨大などらやき」と名づけた〈なみはやドーム〉の観客席で、夏陽子は自分らしくない自分にうろたえながら、震えながら、祈りながら試合の開幕を待っていた。一体、何を祈っているのかは自分でもわからない。今日、ここで戦う少年たちのだれが勝っても自分は神の前にひざまずくだろうし、だれが負けても神に肘鉄《ひじてつ》をくらわせるだろう。  とりあえず、教え子四人の全員が予選を通過してくれてほっとした。  シドニー行きの切符を賭けたこの選考会で、前日までに女子の飛板飛込みと高飛込み、それに男子の飛板飛込みがすでに行われていたが、前原会長のだした条件にかなった選手はなく、事実上、この日の高飛込みで日本代表の行方が決まるはずだった。  今日、600点の壁を打ちやぶる第二の代表が誕生するのか。  あるいは、シドニーへは寺本健一郎一人が行くことになるのか。  この選考会に最後の望みを託した二十八名のうち、午前の予選を通過した十二名を除く十六名が早くも敗退していた。まだ予選だ、本番はこれからだと思いつつ、夏陽子は教え子たちが飛ぶたびに激しくうねる感情の波を抑えることができなかった。事実、この予選では下馬評をくつがえす大波小波の番狂わせが相次いだのだ。  あの子が決勝に残れたのは僥倖《ぎようこう》といってもいい。陽の当たらないところでコツコツとがんばってきたのが、ここへきて報われた。あの子が一位で予選を突破したのも思わぬ幸運だ。あの子自身の好調と、ほかの選手の不調に助けられた。あの子の三位はまずまずといったところ。いい位置につけている。問題は、あの子。あの子が五位に終わるだなんてだれが思っただろう。いや、今日のあの子にはその五位さえもぎりぎりのラインかもしれない。ああ、なぜもっと早く気づかなかったのか……。  思い乱れる夏陽子の耳に、選手の集合をうながすアナウンスがきこえた。 「試合開始の時間になりました。選手の皆さんは練習を終了し、所定の場所に整列してください」  十メートルから、七・五メートルから、五メートルから、それぞれの台から最後の練習に打ちこんでいた十二名がプールサイドへ集まってくる。予選通過順に並んだ彼らは足並みをそろえてダイビングプールを一周。観客席からどっと歓声がとどろいたものの、それは例によって彼らではなく、となりのメインプールで行われている競泳の大学生冬季選手権にむけられたものだった。  ——華やかな競泳の陰で黙々と飛んでいるダイバーたちは、まるで青々とした地球のかたわらで光ったり翳《かげ》ったりしている月のようですね。  夏陽子は以前、どこかの気障《きざ》な解説者がそんな戯言《たわごと》を口にするのをきいて憤慨したことがある。冗談じゃない。飛込みは競泳の衛星なんかじゃない。あの高い台の上で選手たちは、だれの力も借りずに、自分一人の意志で光っている。だれが見逃しても、自分だけはその光を見逃しはしない。 「それにしても……」  教え子たちの一挙一動に目をこらす夏陽子に、そのとき、右横から大島がきこえよがしなぼやき声をあげた。 「このエントリー表には度肝をぬかれたよ。あいつらのラスト十本目……レイジの前宙返り二回半|蝦《えび》型と要一の前逆宙返り二回半蝦型はまあ無難な線としても、トモはなんだ、四回半だと? あんな冒険的な技を最後に持ってくるとはな」  夏陽子が直前まで彼らのエントリー種目を敬介にしか明かさずにいたことが、大島にはどうにも気にくわないらしい。 「なにより飛沫の十本目には恐れいったね。前飛込み伸び型っていったら、ただ前に飛ぶだけのお子さま技じゃないか。難易率はたったの1・6。はなから試合を捨ててるとしか思えない」  ちがう。飛沫は前に飛ぶだけではないし、もちろん試合を捨ててはいない。冒険でもなんでも、知季がシドニー行きを勝ちとるためには四回半が必要だ。要一だって決して無難な技を最後に持ってきたわけじゃない。  大声で言い返したかった。が、その前に左横から敬介の声がした。 「エントリー種目は麻木コーチとあの子らが相談して決めたものだよ。あの子らのことは麻木コーチに任せてある。そしてあの子らも麻木コーチに何かを任せたんだろうよ」  夏陽子はその真意を探るように敬介の横顔を盗み見た。  MDCのヘッドコーチとしてつねに冷静に、慎重にその場を収めながら、この人は本当のところ何を思っているのだろう? 指導者として何十年ものキャリアを持つ敬介が、新米コーチである自分のやり方を心から支持しているわけはない。しかし、その寛大なマスクの陰にある本音を彼がわずかにのぞかせたのは、たったの一度きりだった。 「富士谷コーチ。以前、私に言われたことを憶えてらっしゃいますか?」  試合前の興奮のせいかもしれない。夏陽子は心に留めていたそれを初めて口にした。 「私が、君になにか?」 「ええ。しゃかりきに選手たちを追いたてる私に、富士谷コーチはいつかおっしゃいました。飛込みは長い年月を要する競技だ。彼らの未来は長い。我々の役目は近道ではなく、その長さを教えてやることではないのか、と」  敬介はくぼんだ目を細めた。 「私がそんなことを?」 「はい。たしかに」 「……つい口をすべらせたのかもしれない。MDCの存続のため、君が近道を余儀なくされていることも十分に心得ていたつもりだが。気にしていたのなら、すまなかったね」 「いいえ」と、夏陽子は首をゆさぶった。「最近、わかったんです。あの一言が胸に引っかかっていたのは、きっと私がMDCのためだけにしゃかりきになっていたわけではなかったからだって。ニューヨークでの六年間、私はたくさんの優秀な選手たちに出会いました。でも、日本ではそんな彼らがかすんでしまうほどの才能が待ちうけていた。坂井くん。沖津くん。富士谷くん。こんな宝物みたいな選手たちを育てられるなんて夢のよう。そう思って、舞いあがって、浮かれていたんです。指導者としての野心が先走ったり、あの子たちを自分の持ち駒のように考えたこともありました。でも、あの子たちはそんな私についてきてくれた。大の大人でも半日で逃げだすような練習に耐え、これまで出会ったどんな選手よりも努力して、全身をあざだらけにして……そうしてやっとここまでたどりついたあの子たちに、今の私ができるのは、この目でしかと最後まで見届けることだけ。なのに、恥ずかしいことに、指が震えるんです」  夏陽子の指先からエントリー表が足下へすべりおちた。敬介が拾って掌に返しても、まだその指先は小刻みに震えていた。 「どうしても震えが止まらないんです。喉《のど》が渇いて、頬がほてって、心臓がおかしくなりそう。コーチとして失格だし、恥ずかしいことだわ。でも、恥ずかしいけど、うれしいんです。震える指先がうれしいんです。コーチとしての分別を失うほどの選手たちとめぐりあえたことが、うれしいんです」  一瞬、夏陽子の瞳《ひとみ》から涙がこぼれおちるかのように見えた。が、そこからあふれたのは朝日のような笑みだった。 「もう十分だわ。あの子たちは本当によくやってくれた。もしもMDCが閉鎖に追いこまれたとしても、それは私の責任です」  きっぱり言い切る夏陽子に、「ちがうよ」と声を返したのは、幸也だった。 「麻木コーチのせいなんかじゃないよ」  敬介のとなりにちょこんと腰かけた幸也は、サポーターらしく手作りの旗をにぎりしめている。 「責任なんてだれにもないよ。麻木コーチだって、要一くんたちだって、みんながんばったんだから、だれのせいでもないよ。そんなのMDCの全員がわかってるよ。だからずっとここにいてよ。責任とってどこかに行ったりしないで」 「責任……?」  不審げにかたむけた小首を、次の瞬間、夏陽子はびくっともとへもどした。  ドームに鳴り響く試合開始のホイッスル。  はじかれたように目をやると、すでにプラットフォームにはトップバッターの選手——レイジが姿を現していた。  一巡目の演技は、飛ぶ側も見る側も緊張する。四巡目までは難易率のかぎられている制限選択飛びのため、見栄えのする高度な技は登場しない。ごく基本的な種目の中に、しかし、だからこそ偽りのない力量やコンディション、精神状態までも透けてしまう怖さがある。  度胸だめしの一本目。  あの子の前宙返り一回半蝦型は練習どおりにうまくいった。緊張するとやや右よりに飛びだしてしまう癖があるけれど、今日は落ちついているようだ。どちらかというと落ちつきすぎている。もっと大きく踏みきれば、あの子ならきっとまだ飛べるのに。もっと高く。もっと速く。もっと巧《うま》く。まずはその可能性を本人が信じること。  あの子の後宙返り二回半抱え型にはいつものキレがなかった。回転の軸が乱れ、足を伸ばすタイミングも完全にずれていた。ふつうの選手ならば花火のようなスプラッシュを打ちあげていたにちがいないミスダイブ。それでも6点以下をあげるジャッジがいなかったのは、持ち前の絶妙なセービング技術のおかげだろう。が、セービングだけではこの試合は戦えない。  あの子の後飛込み伸び型には鳥肌が立った。見えない氷壁をぶちぬくような怪力ジャンプ。強靱《きようじん》な肉体が虚空に刻む美しい弧《こ》。生来の「力強さ」にこの「美しさ」を加味するのに、いったいどれだけの時間を費やしたことだろう。しかし今、あの子は完全にその双璧《そうへき》を自分のものにしている。その最強のダイブを飛んでいる本人だけが見られないなんて、まるで人生の損失だ。  あの子の後踏切前宙返り一回半蝦型も上々の出来だった。予選からの絶好調は依然として衰える気配がない。眠れる獅子《しし》はどうやら本格的に動きだしたようだ。が、それもまだほんの足慣らしにすぎず、あの小さな体がさずかった天分は今後ますますあの子を高みへ押しあげていくだろう。そして、今のあの子にはそれに耐えうる精神力がある。  気がつくと夏陽子の震えは止まり、筋書きのない一瞬のドラマに引きずりこまれていた。  飛込み台の頂《いただき》から水面までの十メートル。その中に模範的なラインがあり、小さなぶれがあり、修正がある。見る者を圧する美があり、技があり、調和がある。時には目を覆いたくなるようなミスがあり、無惨な結果がある。でも、今はもう成功も失敗もどうでもいい。この輝ける瞬間を、あの子たちの勇姿をこの瞳に、そして彼ら自身の胸に永遠に焼きつけることができるなら。  ああ、それにしても……と、夏陽子は二巡目の開始を待ちながら思った。  飛翔《ひしよう》から入水までの一・四秒。  なんと短く、あっけないことだろう。  あのまぶしい彼らのダイブをあと九回、十二・六秒ずつしか見られないなんて!  第一巡後の順位  ㈰山田|篤彦《あつひこ》(49・77点)  ㈪沖津飛沫(49・02点)  ㈫坂井知季(48・6点)  ㈬浅間孝《あさまたかし》(46・17点)  ㈭鏑木進治《かぶらぎしんじ》(44・46点)  ㈮小川忍《おがわしのぶ》(43・2点)  ㈯仲山政彦《なかやままさひこ》(40・8点)  ㉀守谷一輝《もりやかずてる》(39・33点)  ㈷富士谷要一(39・06点)  ㉂松野清孝《まつのきよたか》(38・4点)  ㉃辻利彦《つじとしひこ》(33・6点)  ㉃丸山レイジ(33・6点) [#改ページ]   2…TRUE DIAMONDS  仇敵《きゆうてき》。  戦友。  それとも親友?  子供の頃から恐れたり、憎んだり、うとんじたりをくりかえしながら、しかしどうしても離れることのできなかったコンクリート・ドラゴン。その足下で心を落ちつけながら、知季は出番を待っていた。予選通過順位の低い順に飛んでいく決勝戦で、まさかこの自分が最後に飛ぶことになるなんて、いったいだれが予期しただろう。  予選一位。思いもよらなかったこの快挙に、最も驚いているのは知季自身だった。  好調が続いていたのは事実だ。完璧《かんぺき》なコンディションで東京を発って、大阪入りをしてからも日に日に調子は上向いていった。体が軽い。水も軽い。何を飛んでもぴたりぴたりとおもしろいように技が決まる。もちろん念願の四回半はまた別の話だが、この絶好調が試合まで続き、いやむしろ高まりさえみせるなんて夢のようだ。  とはいえ、知季は喜びはしても、決して安らぎはしなかった。予選の得点は決勝には反映されない。一から勝負の本番で、少しでも気をぬけばたちまちどんじりまで転がり落ちるのは目に見えている。なにしろ今大会の出場者たちは皆、これまで同じステージに立つこともかなわなかったベテランぞろいなのだ。  予選を二位で通過したJSS宝塚の仲山政彦。  六位で通過した早稲田大学の浅間孝。  九位で通過した日本体育大学のなんとか進治。  十一位で通過した石川DCの守谷一輝。  一人勝ちを続ける寺本健一郎の陰に普段は隠れているとはいえ、試合経験の豊富な大学生たちは皆、試合の組みたてかたや勝ちかたを知っている。持ち技のバリエーションひとつをとっても知季の比ではない。  無論、見知った中高生のライバルたちだって油断はできない。  たとえば、ピンキー山田。彼は今回、致命傷であった精神面の弱さを徹底的に鍛えなおして出場したといわれている。それがただの噂でないことは、この日の彼を一瞥《いちべつ》しただけでわかった。浮わついた自意識をその物腰からとりはらった彼は、なんと、おじいさんの腹巻きのようならくだ色の海パン姿で登場したのだ。小さいころからのトレードマークであり、アイデンティティーでもあったショッキングピンクの海パンを脱ぎすてて。  ピンキー……もとい、キャメル山田の予選通過順位は四位。しかも決勝の一巡目では持ち前のプロポーションを活かした華麗な後宙返りを披露し、一気に一位へ躍りでた。  今夏のアジア合同強化合宿代表選考会で二位だった辻利彦も、三位だった松野清孝も、予選では下位に甘んじたものの、粘りの演技でどこまで追いあげてくるかわからない。ジュニア選手の多くが集ったその選考会への出場を見合わせ、要一不在の高校総体でチャンピオンに輝いた小川忍もまた、したたかな実力派だ。そして、なんといっても最大のライバルは……。  知季はゆっくりと階段を上りながら、今、まさにプラットフォームへのりだそうとしている要一と、その後方で出番を待ちうけている飛沫を仰ぎ見た。  要一と飛沫。結局のところ自分は、この二人と戦うためにここにいるのだろう。  今、持っているすべて。  これまで獲得したすべて。  十四歳のこの日のこの瞬間をまるごと投じて四回半に挑み、見えない枠を越えるために。  そしてもちろん、勝ってシドニーへ行くために——。  でも……。知季はいつもの精彩を欠いた要一の姿に瞳《ひとみ》を曇らせた。飛沫の三位はともかく、要一が五位で予選を終えるなんて絶対におかしい。あの富士谷要一が自分よりも下位にいるなんて!  要一はあきらかにいつもとちがった。試合では決して乱れないはずの彼が、よりによってこの大事な一戦で調子を乱していた。  一体、何があったのか?  昨日まではふつうだったのに……と、知季は前日の要一を改めてふりかえった。午前中の練習では一言も口をきかなかったものの、要一はもともと集中すると恐ろしく寡黙《かもく》になる。だから、あれはふつうの要一だ。神戸観光はあまり乗り気じゃなさそうだったけど、飛込みに関係のないことには要一はなんだって乗り気じゃない。だから、あれもふつうの要一だ。夜、皆でレイジたちの部屋を訪ねたときは、めずらしく興奮して語気を荒らげていた。あれは、ふつうじゃない要一だ。でも、あのときはだれだってふつうじゃいられなかった。だって麻木コーチが……。  知季は二階席の最前列に陣どっている夏陽子へ目線を移した。  そして昨夜、あれから要一たちと話したことを思い返した。  麻木夏陽子がアメリカへ帰る。  それはあまりにも唐突な、思いもよらない話だった。藪《やぶ》から棒というか、寝耳に水というか、青天の霹靂《へきれき》というか。だからこそ、知季も飛沫も要一も、最初はだれもが一瞬、寝込みでも襲われたように狼狽《ろうばい》した。  が、しかし少し気を落ちつけて考えてみると、彼らが選考会に気をとられて見過ごしていただけで、藪からはここ数日、ちらちらと不穏な影がのぞいていたのである。 「そういえばここんとこ、あの人、やけにおとなしかったよな」  当面のショックがすぎるなり、彼らは一転して妙に饒舌《じようぜつ》になった。  最初に口火を切ったのは飛沫だ。 「練習中はともかく、プールの外ではこう、いつもなんか考えこんでるつーか、雰囲気暗いつーか……。急に黙りこんだり、遠くを見たりしてさ」 「あれは、アメリカを見てたってことだな」と、要一も渋面でうなずいた。「今日の神戸観光だって、考えてみればかなりへんだぜ。あの女があんな優しいこと、おれたちにしたことあるか? あのサービス精神の十分の一でもかいま見せたことがあるか?」 「別れの前って、だれでも優しくなるっていうもんね」と、レイジも調子を合わせた。「だいたい、その優しさだって計画の一部だったのかもしれないよ。まずはみんなを神戸につれだして、それから自分は大阪にもどってアメリカ人と話をする。だれの目も気にせずにゆっくり、さ」 「じゃあ、初めから決まってたってこと?」と、知季が捨てられた小犬のような顔をした。「明日の試合が終わったらニューヨークにもどるって、麻木コーチは神戸に来る前から決めてたわけ?」 「かもしんねーな。おれたちには一言の相談もなくとんずら、か。あの女のやりそうなことだよ」 「ひどいよ。そんな……勝手だよ」 「言いたい放題言って、やりたい放題やって、とっとと姿をくらませる。しょせんはお嬢さまなんだよな」 「MDCに来たときから麻木コーチ、やけにあせってかっとばしてたもんね。そのうち『時間がない』とか『不治の病だ』とか言いだすんじゃないかって、おれ、内心ハラハラしてたんだけど、ほんとは早くアメリカに帰りたかっただけなのかな」 「ま、人間性はともかく、コーチとしてはたしかに一流だもんな。自分ならどこでもやってけるって自信はあるだろうよ」 「でも、おれたちはどうなんの?」 「だから勝手だって言ってんだよ」 「やっぱウォータープルーフのアイライン入れてる女は信じられないよ」 「アメリカで見合いでもすんのかなあ」  胸のつかえを吐きだしあった一同は、口を開いたときのようにまた唐突に沈黙した。まだ胸にくすぶっているつかえや痛みは、吐きだしても、吐きだしても消えることがないとようやく気づいたように。  次第に深まりゆく夜の中、そのとき、さっきから押し黙っていた幸也がつぶやいた。 「でもさ、じゃあ、どうして麻木コーチはアメリカに帰ることにしたんだと思う?」  皆の輪から離れ、一人ベッドで大の字になっていた幸也は、きょとんと顔を見合わせた四人の返事を待たずに「ぼくはね」と続けた。 「ぼくはサポーターとして、明日の試合でだれが勝っても、だれが負けても、きっとすごくつらいよ。だってうれしいのは一人分でも、悲しいのや、くやしいのは三人分だもん。三人分って、きっとすごく重いよ。麻木コーチはぼくよりずっとがんばってきたから、だからもっと、ずっと、ここにいるのが我慢できないくらい、つらくて重くなっちゃったんじゃないかな」  四人は無言のまま目を伏せたが、その表情は幸也の言葉を否定していなかった。  シンクロ教室に通うママさんたちの観察を通じて、人を見る目を養ってきた幸也の洞察力に感じ入った、というわけではない。  そんなことは言われなくてもわかっていたのだ。 「え」 「マジ?」  順番待ちをする選手たちがにわかにざわめいた。  知季がハッと我に返ったとき、すでにプラットフォームに要一の影はなく、たった今、彼を呑《の》みこんだばかりの水が激しいスプラッシュを上げていた。  スプラッシュ?  知季は目を疑った。  要一の上げたスプラッシュなんて、一体、何年ぶりに見ただろう。  愕然《がくぜん》と立ちつくす知季の背後から、三巡目を待つレイジが「あのさ」と耐えかねたように声をもらした。 「あのさ、要一くん、さっき……」 「なに?」  知季がふりむくなり、しかしレイジは「やっぱり、あとで」と顔をうつむけた。出番の近い選手に声をかけるのはマナー違反であると思いだしたように。  要一の異変を気にしつつ、レイジの言いかけた何かを気にしつつ、観客席の夏陽子を気にしつつ、それでもじりじりと知季の二巡目は近づいてくる。  以前の自分ならこんなとき、混乱したまま台に立ち、心ここにあらずのダイブをして、がたがたになっていただろう。  知季はつい数か月前までの自分をふりかえりながら思った。  陸の上でも水の中でも中途半端だった自分。努力もせずに要一をうらやみ、レイジや陵とうわっつらの調子だけを合わせて、でも本当はだれのことも全然わかっちゃいなかった。自分が不確かだったから、人にも曖昧《あいまい》で、みんなのことを傷つけた。  今はちがう。今のぼくはちがう。  だってぼくはダイヤモンドの瞳を持ってるから。  でも、それは麻木コーチのいう動体視力がどうのってことではない。  自分には飛込みしかないと腹をくくったあの日から、知季はその瞳にたくさんの光を映してきた。  決して妥協をしない夏陽子の徹底した姿勢を。腰の故障に苦しみ、一度は津軽へ帰りながらも、苦戦を承知で再びプラットフォームに立った飛沫の雄々《おお》しい覚悟を。せっかく手にしたオリンピック代表権を返上してまで、自分にとって大切なものをつらぬこうとした要一の孤独な闘いを。そして内心、複雑な思いを抱えてきたにちがいないレイジの、なにげない仲間へのいたわりを——。  きらきら光るそれらのすべてを吸いこんで、今、ぼくの瞳は本物のダイヤモンドになる。  だれにも負けない最強の光。  恩返しはきっと、最高のダイブを見せること。  かたく心に誓ったその瞬間、空席のめだつ飛込みの観客席からぱらぱらと拍手が起こった。キャメル山田に続いて舞台へ立った飛沫は、二巡目の前宙返り一回半|蝦《えび》型もぶじに成功させたらしい。  続いてさらに大きな拍手。予選二位の仲山もいい演技をしたようだ。  さて、出番だ。  大きく息を吸いこみ、すっと背筋を伸ばして、知季は黒いすべりどめを敷いた台へと足を進めていく。  スタート地点から先端までの距離。助走のリズム。踏みきりのタイミング。必要事項をすばやくチェックし、最後に、観客席へ視線を投げる。  ドームの天井から降りそそぐ白光を浴びて、祈るように手を組みあわせている夏陽子が見える。敬介が見える。大島が見える。幸也が見える。そしてその一団からやや離れた後ろ座席には、睦《むつ》まじくよりそう一組のカップル——弘也《ひろや》と未羽《みう》の姿が見える。  知季は「よし」とうなずき、そして走りだした。  第二巡後の順位(累計)  ㈰坂井知季(99・0点)  ㈪山田篤彦(96・75点)  ㈫浅間孝(92・37点)  ㈬沖津飛沫(91・26点)  ㈭仲山政彦(89・4点)  ㈮鏑木進治(87・12点)  ㈯松野清孝(81・15点)  ㉀守谷一輝(80・28点)  ㈷小川忍(76・8点)  ㉂辻利彦(76・2点)  ㉃丸山レイジ(74・64点)  ㈹富士谷要一(71・82点) [#改ページ]   3…DEAREST BROTHER 「やった、トモくんが一位になった!」  未羽の歓声にふっと意識がよみがえり、かろうじてまぶたを押し開けた。重ね着をした洋服でも脱ぎすてるみたいに、からみつく眠気を少しずつ、少しずつ引きはがしていく。ぼやけた視界に電光掲示板の順位表示が映ると、弘也はペテンにでもかけられたような気分で、まだ二回目の終わったところか……と、軽いめまいを覚えた。 「えっ、ヒロ、もしかして寝てたの? やだ、信じられない」 「だっておれ、昨日は徹夜で新曲作ってたんだもん。今日だってほんとはバンドの練習が入ってたのにさ、断って、早起きして、新幹線のって、ここまでたどりついただけえらいと思うよ、マジ」 「あったりまえじゃない。せっかくトモくんが応援に来てもいいって言ってくれたんだから。ヒロは、トモくんとバンドとどっちが大事なの?」 「いや、それは、もちろん……」  弘也は未羽の肩に手をまわしてほほえみ、機嫌をとることで急場をしのいだ。女はすぐに「どっちが大事なの?」と順番をつけさせたがる。そんなの比べようもないことを説明するのに、自分は一生苦労しつづけるだろう。  そもそも弘也には大事なものが多すぎた。  今年の夏に結成したロックバンド。ときどき助っ人を頼まれる学校のサッカー部。クラスの友達とのつきあい。そして、未羽。一時期、夢中になっていた釣りもまだ飽きたわけではなく、変わった形のフライを見つけるとつい買ってしまう。  ころころと興味の対象が移ろうのは子供のころからだった。そのすべてを大切にしようとするから、ときおり破裂して癇癪《かんしやく》を起こしたりもする。ひとつのところにじっとしているのは大の苦手。  そんな弘也にとって、十二人×十回、つまり百二十回ものダイブにじいいいいいっと見入っていなければならない飛込みの観戦は、まさに地獄の我慢大会のようなものだった。  実際、観戦をするのはこれがまだ二度目だ。  一度目は、小学四年生の夏。ジュニアの大会に初出場した知季を応援に行こうと母の恵に誘われ、興味半分に辰巳の水泳場を訪れた。  恐ろしくつまらない、というのが忘れもしない第一印象だ。出場者は小学生だけだから、見ごたえのある技があるわけじゃない。一人ずつ三メートルのスプリングボードにのって、ちゃぽちゃぽ水中に落っこちていくだけ。待ちに待った知季の出番に「レッツゴー、トモ!」と大声を上げたら、「気が散るから」と恵に制された。なんだよ、せっかく応援に来たのに、ただ見てるだけなのかよ。  すぐに眠気に襲われた。ゆらゆらとゆれるスプリングボードと、その下で水紋を震わせるダイビングプール。真夏日のプールのあとの授業中みたいな、あの気だるい匂い。さあお眠りなさい。心ゆくままに。だれかが耳元でそうささやいているとしか思えない。  睡魔に屈した弘也がふと目を覚ますと、しかし驚いたことに、プールではまだ知季たちが似たようなことを続けていた。 「ねえ、まだ帰らないの?」  弘也は恵に泣きついた。 「まだよ。終わるまで見てなくちゃ」 「いつになったら終わるの?」 「みんながあと六回ずつ飛んだらね」  あと六回! トモたちはあと六回もあんなことをくりかえすのか。一体なんのために!?  家に帰ればおいしいアイスがあるのになあ。ああ、早く帰れないかなあ。 「ねえ、あと何回ずつ飛んだら終わるの?」 「四回ずつよ」  あと四回。早く家に帰ってトモと遊びたいのに。プロレスの新しい技を教えてやりたいし、教室でウケた話もきかせたい。  トモはいつまであんなところにいるんだろう? 「ねえねえ、あと何回?」 「あと二回ずつよ」  ああ、早くトモが帰ってこないかなあ。 「ヒロってば!」  未羽に頬をつねられ、再びまぶたを押し開けた。 「ヒロ、あんたって人は、こんな大事なときになんで寝てられるの? なんて薄情な弟なの? 今、らくだ色の海パンの人が飛んで、9点を四つもとっちゃったんだから。もうすぐまたトモくんの番だよ」 「わかった、わかった、悪かったよ」  条件反射的に未羽の肩へ手をまわしながらも、弘也の中にはまだ小四の自分が、あの午後の待ち遠しさが色濃く残っていた。  そう、あの夏。おれは当時夢中になっていたドッジボールよりも、牛乳の早飲みよりも、友達とのプロレスごっこよりも、トモといるのが一番好きだったんだよなあ。  のんびりやの兄貴。ころころと気分を変える弘也に、いつも根気強くつきあってくれた。物心のついたときからの一番の親友。家庭内に同じ学年の四月生まれと三月生まれがいることに、恵はときどき気をもみすぎてきりきりしていたものだが、弘也は劣等感など一度も抱いたことがなく、なんでも知季と一緒なのがただただうれしかった。入園式も一緒。遠足も一緒。運動会のダンスも一緒。弘也が皆におくれをとっても知季は待っていてくれたし、だからいつでも安心していられた。知季がそこにいるからこそ、好奇心のままにどこへでもより道ができたし、気がすむまで遠回りをしてこられた。  でも、気がつくと知季は、近場をちょろちょろしているだけの自分よりも、今、ずっと遠くへ飛び立とうとしてる。 「ね、もうすぐだよ、トモくん」  未羽が踵《かかと》でせわしなく足下をつっついた。 「未羽、飛込みのことはよくわかんないけど、なんだかすごいね、今日のトモくん。なんか未羽、このままトモくんが勝ってオリンピックに行っちゃいそうな気がするの。たんなる予感じゃなくって、じつは昨日……ヒロにだけ言うけど、そういう夢を見たの。ヒロはどんな夢を見た?」 「ちりめんじゃこをメシにかけて食ってる夢」  未羽はきこえないふりをした。 「でもね、トモくんがほんとにオリンピックへ行ったら、未羽、ちょっとさびしい気もするんだ。有名人になって、未羽たちのこと忘れられちゃったら、どうしよう」 「大丈夫。たとえシドニーで忘れられても、日本に帰ったらまた思いだしてくれるって。おれ、一応、弟だし」 「未羽は?」 「忘れたくても忘れられないだろ、いろんな意味で」 「もう、すぐにそういうことを……」  未羽にぱこんと頭をはたかれ、弘也は苦笑した。  もともとは知季の彼女だった未羽を弘也が横から奪ったのは、兄弟の歴史ではまだ新しいこの年の梅雨どき。さすがの知季もあのときは激怒し、三週間は一言も口をきいてくれなかった。が、しかし四週目には「筆談くらいなら」と態度を軟化させ、五週目には「片言くらいなら」とさらに譲歩してきた。六週目には並んでテレビを観るようになり、七週目には一緒にコンビニへ買い物に行った。今ではすっかりもとどおりだ。  そして、数日前。知季は大阪入りをする前日に、「試合、遠いけど、未羽と一緒に来たければ来れば」と、自分から声をかけてきたのだった。  たとえバンドの練習があったって、睡眠不足だって、新幹線代が高くついたって、飛込みの試合が殺人的に退屈だって、応援に駆けつけないわけがない! 「あ……トモくんだ」  再びめぐってきた知季の出番。遠いプラットフォームに現れた小さな影に、未羽がその肩をぐらつかせた。 「もうだめだ、未羽、頭に血が上って貧血起こしそう。さっきからトモくんが飛ぶたびに、倒れそうだし、吐きそうだし、死にそう」 「大丈夫。貧血くらいじゃ人間は死なん」 「ヒロのその余裕はなに? 緊張してないの?」 「うん。あんまり」 「なんでよ。トモくんを応援してないの?」 「バカ、そんなわけないだろ」  もちろん応援はしてる。もしも知季が勝って、オリンピックへ行くことにでもなったら、狂喜のあまり貧血を起こすのは自分のほうかもしれない。でも……。  たとえ負けてもがっかりはしない、と弘也は心に決めていた。ここにいる全員ががっかりしたとしても、おれだけは絶対にがっかりしない。  トモが安心してうちに帰ってこられるように——。  知季がプラットフォームに手をつき、ゆっくりと両足を持ちあげていった。  見ていて一番ハラハラする逆立ち飛込み。  あんなに高いところで逆立ちなんかして、どんなに怖いことだろう。  体を投げだすのに、どれだけ勇気がいるだろう。  失敗したら、どんなにか痛いだろう。 「ああ、だめっ、未羽、終わる前に気絶する。ねえ、あと何回、トモくんは飛ぶの?」 「あと八回」  弘也がつぶやいたのと同時に、知季の体が空中へ解き放たれた。 「いや……あと七回」  ああ、早くトモが帰ってこないかなあ。  第三巡後の順位(累計)  ㈰山田篤彦(149・04点)  ㈪坂井知季(146・31点)  ㈫沖津飛沫(144・66点)  ㈬鏑木進治(133・29点)  ㈭浅間孝(132・87点)  ㈮仲山政彦(127・59点)  ㈯小川忍(127・53点)  ㉀松野清孝(127・35点)  ㈷守谷一輝(124・68点)  ㉂丸山レイジ(124・44点)  ㉃辻利彦(115・89点)  ㈹富士谷要一(108・87点) [#改ページ]   4…OH, MY JINX!  知季はうまく飛んだみたいだ。階段の上からでは空中演技がよく見えないのが難点だが、ジャッジの点数がそれを物語っている。8・5点が四人に、8点が二人。7・5点が一人。第六群でこれだけの点がだせれば上出来だ。しかも知季は今日、一度もジャッジから7点以下をつけられていない。ノーミスで正確な演技をする。一番の基本であり、一番難しいことでもあるそれを、知季はいつのまに身につけたんだろう?  三巡目のアンカーを務めた知季のあと、四巡目のトップとして演技開始のホイッスルを待ちながら、レイジは大きく三回、深呼吸をくりかえした。  落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。  人は人。自分は自分。比べたところでいいことなんてひとつもないと、この一年弱、さんざん思い知らされてきたはずだ。知季がどうであれ、自分は自分のやるべきことをやってきたのだから、それでいい。この四巡目の演技に際しても、台に上る前にはちゃんと屈伸を三回したし、階段には右足から踏みだした。五メートルの地点でいったん立ちどまり、掌に指で書いた「水」の字を呑《の》みこんだ。あとは運を天に任せるのみ。  レイジは試合に臨む際、自ら作った山ほどのジンクスに忠実に動かなければ気がすまない性分だった。人に言うとバカだと思われそうなので口にしたことはないけれど、それはレイジにとって大切な、神聖な儀式だ。 「屈伸三回」自体にさほど意味のないことは百も承知だった。ある試合中、台に上る前に屈伸を三回したら、たまたま結果がよかっただけのこと。それが屈伸の成果じゃないことをわかっていながらも、それを数えきれないほどのジンクス・リストに加えることで、レイジは安心する。  自分でもうすうすわかっている。レイジは極度のあがり性なのだ。だから自分を保つためのジンクスを作りつづける。ジンクスが多ければ多いほど、それをこなすだけで頭がいっぱいになるため、よけいな雑念を遠ざけていられる。  しかしこの日は——運命のこの日ばかりは、ジンクスのことだけを考えているのが至難の業だった。  だから、失敗した。さっきの待ち時間、出番を間近にした知季に声をかけるようなヘマをしてしまった。 「あのさ、要一くん、さっき……」  知季はきっと言いかけた言葉を気にしながら飛んだだろう。ミスをしたら自分のせいだった。とはいえ、もしも最後まで言っていたら、知季はひどいショックを引きずりながら飛ぶはめになったにちがいない。  レイジはあの感触を思いだし、ぶるりと肩を震わせた。レイジ自身、今でもショックを引きずっていた。  決勝のはじまる直前、「よ、がんばろうぜ」とレイジの肩に手をのせた要一の、あの掌の感触。  あのぞくりとするような、燃えるような。 「あのさ、要一くん、さっき……」  ものすごく熱かったんだ——。  要一のコンディションが万全でないことは、レイジもとうに気づいていた。この高飛込みに先がけて行われた飛板飛込みの試合を、要一は体調不良を理由に棄権していたのだが、あれもあながち嘘ではなかったように思う。もっとも、たとえ体調が万全だったとしても、要一は知季や飛沫と同一条件で戦うために飛板を棄権していただろうけれど。  今選考会の二週間前からはじまった猛特訓。火を噴《ふ》くようなその光景はMDCではもはやめずらしくなくなっていたものの、まさか要一が、この土壇場《どたんば》になって新種目への挑戦にあれほど躍起になるとは思わなかった。  前逆宙返り二回半|蝦《えび》型。難しい技だが、難易率はとりたてて高くない。毎日、高校を休んでまでプールに通いつめるだけの価値がそこにはあるのだろうか?  レイジには不可解な執念をむきだしに、毎日ぼろぼろになるまで麻木夏陽子の特訓を受けつづけた要一は、驚くべきことに、この短期間でその新種目を形にするまでにこぎつけた。やるといったらやる。それが要一だ。まだノー・スプラッシュ入水の成功率は低いにしても、たったの二週間で新種目をマスターするなんて、まったく怪物的である。  しかし、体は生身の人間。怪物が暴れれば暴れるほど、肉体はそのしわよせを受けて消耗する。要一は日に日にやつれ、肌の色を失っていった。それでも決して体を休ませようとはしなかった。試合前日の昨日でさえ、知季たちと神戸観光へくりだし、レイジの部屋で麻木夏陽子の話をしたあと、彼は一人、夜中まで自主トレをしていたにちがいないのだ。  というのも、レイジは昨夜、皆が解散したあとで、携帯電話に陵からの着信履歴があることに気がついた。すでにベッドで寝息をたてていた同室の幸也を気づかい、ロビーからかけなおそうと部屋をでたところ、廊下で練習用のナイロンバッグをさげた要一と出くわしたのだった。 「ちょっと通天閣で記念のスタンプでも押してこようと思ってな」  要一は冴《さ》えないギャグでごまかしていたけど、レイジと同じエレベーターへのりこむなり、フロント階ではなくB1のボタンに指を伸ばした。B1にあるのはコインランドリーに、卓球室。そして温水プール。  プールでかかりの練習か……。  そう直感した瞬間、レイジはいやな胸騒ぎを覚えた。この土壇場まで練習せずにはいられないほど追いつめられている要一が、その紫がかった肌の色が薄気味悪かった。  だからこの日、予選で要一がいまひとつふるわなかったときも、レイジはさほど驚きはしなかったのだ。  でも、あの熱い掌に触れられたときは……。  今日という日の歯車が一瞬のうちに狂ってしまった気がした。  どんなにコンディションが悪くても、余裕をなくしていても、要一のことだからきっと最後には克服する。そしていつもの得意げな顔で笑ってみせるのだと、レイジはその熱い手に触れる直前まで信じていたのだ。  しかし、要一の体調不良が思っていた以上に深刻だったとなると、この大事な勝負の行方がまったく見えなくなってくる。なんせ今日は、要一の不調を補うように、知季と飛沫が予選から申しぶんのない快進撃を続けているのだ。  無論、MDC以外の選手にだってまだまだチャンスはある。  ホイッスルを待つその刹那《せつな》、レイジは階下へつらなる選手たちに視線を走らせた。  優勝争いにからんでくるとしたら、今のところはピンキー……もとい、キャメル山田が筆頭か。人間、イメージカラーひとつであそこまで変われるものだろうか。持ち技の高難度では要一に引けをとらない仲山もダークホースの一人。あるいは、最年長で成熟した演技をする浅間あたりが最後に笑うのか?  有力候補の面々を頭に浮かべつつ、レイジはそこに想像の上でさえ自分を入れていないことに気がついて、苦い笑いをもらした。  しかたがない。  人は人。自分は自分。知季には知季の、キャメルにはキャメルのライバルがいるように、ぼくにはぼくのライバルがいる。  今、大事なのはそのライバルに勝つこと。  レイジは頭を切りかえ、すぐ後ろで出番を待っている長身の選手をキッとにらみつけた。  予選十一位通過の守谷一輝。この決勝戦でだれに負けようと、絶対に、こいつにだけは負けられない。そのためにも一本一本を慎重に、大切に飛んでいかなければ……。  レイジは四巡目への意気込みを新たにした。  知季や飛沫につられて熱くなるのはやめよう。自分を大きく見せようとせず、練習どおりの演技を冷静に、確実に決めること。イチかバチかの博打《ばくち》みたいな飛びかたでは守谷に勝てないし、第一、そんな飛びかたは自分には似合わない。 「レイジの飛込みはさ、なんかこう、おかたい感じがすんだよな。慎重なのはいいけど、いまいち迫力がないつーか、おもしろ味に欠けてるつーか」  レイジは昨夜、電話で陵からそんなことを言われたばかりだった。 「だいたいおまえ、自分で飛んでておもしれーか? 一度でいいからさ、もっとこう、どかんと自分を爆発させて、はちゃめちゃに、やりたいようにやってみろよ。明日の試合だって、どうせ優勝の可能性なんて万に一つもないんだから、冒険しちまえよ」  今では日々、バスケに明け暮れているという陵は、運命の一戦を控えた元クラブメイトを自分なりに激励している気でいたようだ。  が、正直、やなこと言うなあ、とレイジは思った。陵は人のいいところなんてちっとも見ちゃいないくせに、見られたくないところを嗅《か》ぎつける才には長けているのだ。  基本に忠実。安定感がある。全体のバランスがいい。レイジのそれらの特質は、一歩まちがえると無難《ぶなん》や単調や没個性に転じる。そんなことは自分でもわかっていた。一言で片づけるならば、平凡。失敗が少ないかわりに大きな成功もなく、けちょんけちょんにけなされることがないかわりに絶賛されることもない。よくスポ根漫画などで耳にする、「君の演技は未熟で下手であらけずりでぶざまで見るに堪えないが、しかし、きらりと光るものがある」の、きらり。すべてのマイナスを卑怯《ひきよう》なほど簡単にプラスへと転化する、あのきらりがレイジには欠けているのだった。  でも、結局のところ、これが自分の飛込みなのだろう。  悩みに悩んだ末、そう割り切れるようになったのには、MDCのヘッドコーチである敬介の力も大きかった。  自分にないものを求めてもしかたがない。あるものを伸ばして、力に変えていこう。敬介はことあるごとにそう言ってレイジを励ましてくれたのだ。  そもそも、レイジが飛込みをはじめたのも、敬介の一言がきっかけだった。 「クラブに入って本格的に飛込みをやってみないか。君なら日本選手権でベストスリーに入れる選手に育つかもしれない」  小二の夏。レイジはそれまで通っていた体操クラブのコーチから、「君は体操の選手としては体が大きすぎる」と不適格の烙印《らくいん》を押されたばかりだった。人生初の挫折《ざせつ》に多少なりとも傷つき、そして腐っていた。そんな折、友達に誘われた飛込みの体験教室で声をかけてくれた敬介は、だからレイジにとって〈拾う神〉のようなものだったのだ。  レイジにかぎらず、飛込み界には体操から転身した選手が少なくない。体操で培《つちか》った筋力や柔軟性を、空中演技でそのまま活《い》かせるからだ。  レイジもスタート時点では、ほぼ同時期に入会した知季よりもはるかに覚えが早かった。もちろん最初は怖かったし、水に着地する、という感覚に慣れるのにも時間がかかった。それでも徐々に経験を重ねて、知季や陵と競いあい、支えあいながら少しずつ腕を磨いてきた。内心、知季や陵よりも一歩リードしていると自負しながら。  なにもかも、あの女コーチが出現するまでの話だ。  麻木夏陽子が現れてからというもの、MDCは劇的に変わった。それまで電線の上でぴーちくやっていたすずめたちが乱気流に呑《の》まれ、こぞって海を渡りだしたようなもの。知季はうまく流れにのって羽ばたいた。気がつくと得体の知れない羽を持つ飛沫も加わって、新たな風を起こしていた。ついには要一までが隠していた爪をむきだし、闘志をあらわにするようになった。一体どこへ行くのかと思ったら、なんと、彼らはシドニーをめざしているのだという。  オリンピック——。 「君なら日本選手権でベストスリーに入れる選手に育つかもしれない」  その一語を目標にかかげてきたレイジには、まるで現実味のない夢舞台だった。  人は人。自分は自分。まじないのようにそれをくりかえすようになったのは、それからだ。  正直、知季がうらやましかった。妬《ねた》ましくて、くやしくて、顔も見たくなかった時期もある。MDCをやめさせてください。その一言を何度も口の中でつぶやいた。でも、教え子が去るたびに悲しそうな目をする敬介のことを思うと、かつての〈拾う神〉を自分から捨てることなどできなかった。  どうせ続けていくのなら……と、オリンピックへむけて自分を無理やり奮い立たせたこともある。けれどレイジが一歩前進するうちに、知季はいつだって五歩も十歩も前へ進んでいた。どんなに羽をばたばたさせても追いつかず、それどころか距離は広がる一方。気がつくとシドニー行きの群れからすっかりはぐれていた。いや、一瞬でも一緒に飛んでいる気でいたのは自分だけだったのかもしれない。  みるみる過熱していく代表争いを横目に、それでも飛込みを続けていくために、レイジは長い時間をかけて自分にひとつのことを納得させた。  知季のゴールと、自分のゴールはちがう。だから行く道もちがう。進むペースもちがう。  ちがっていいのだ、と。  日本選手権でベストスリー。  将来、子供や孫に自慢するには十分じゃないか。  そうしてこつこつと地道にやってきたレイジにとって、だからこの大舞台での予選突破は、最高に、かけねなしに、ちょっと気がおかしくなりそうなほどにうれしい大事件だった。  だれも自分に優勝どころか決勝進出さえも期待していないことを、レイジは知っていたのだ。強豪ぞろいの一戦だから無理もないと思いつつ、時には自分だって奇跡を起こしてみたくなる。知季や飛沫や要一が起こすような奇跡を。たとえどんなにちっぽけなものでも。 「おめでとう、レイくん。まるで奇跡だね!」  幸也からの祝福も、だから素直に受けとめた。幸也だけでなく、敬介をはじめとするMDCの全員がレイジを祝い、一緒になって喜んでくれた。  努力が必ずしも報われないことをレイジは知っている。それでも続けていれば、あきらめさえしなければ、いつかはこんな日が来るのかもしれない。  予選後の昼休み、レイジは宙に浮いたような足どりで会場の外へでた。巨大なドームの入口からロータリーへと伸びる階段に腰かけ、のぼせた頭を師走《しわす》の冷たい風にさらした。正面玄関に続くメインの階段ではなく、わきへそれた人気のない一角をあえて選んだのは、試合の当日は勝負がつくまで他人に影を踏まれてはいけない、というジンクスがあるからだ。  ジンクス。思いがけず決勝に残ることができたのは、もしかしたらジンクスのおかげでもあるかもしれない。  レイジはその一日を駆け足でふりかえった。  試合は朝、起きたときからはじまっている。敬介がよく口にするように、レイジのジンクスも朝、起きたときからはじまっている。まずは起きぬけのオレンジジュース(果汁三十パーセント以上)。朝食は野菜と魚を中心に。肉は食べない。ホテルの朝食はたいがい和食かビュッフェ式なので問題はない。朝食時には水を飲み、日本茶は飲まない。茶柱が立たなかったときのダメージが大きすぎるからだ。朝食後には必ず爪を切る。試合へむかう際は、晴れの日は暗い色の、曇りや雨の日は明るい色の服を着る。つまり、あらかじめ二着用意しておくということ。試合会場へは右足から入る。コインロッカーは奇数の番号を使用。海パンは左足からはく。試合のはじまる一時間前にりんごを食べる(りんごが手に入らない場合は果汁三十パーセント以上のりんごジュースでも代用可)。等々……。  無論、今の自分の実力はコーチと二人三脚で積みあげてきたものだ。でも、その実力を本番で発揮できるかどうかは、またべつの問題。ジンクスのおかげで心の平静が保てるのなら、それは決してばかげたことではないとレイジは思っていた。ジンクスを守ることによって、自分はジンクスに守られているのだ、と。  レイジはすうっと息を吸い、左手の腕時計に目をやった。  試合の幕開けまであと一時間半。  決勝戦。どんじりで予選を勝ちぬいた自分は、一体どこまで行けるのだろうか。  ベストスリー? 千パーセントありえない。  五位以内? あの面子《メンツ》では不可能だ。  八位以内? まだまだ現実味が薄い。  十位以内? これも心もとない。  十二位以内? 全員だ。  せめてビリから脱出。そう、十一位くらいが自分にはふさわしいゴールだろう。  めざせ十一位!  レイジはすくっと立ちあがり、威勢よく右足から踏みだした。いざ出陣、と普段よりも大股《おおまた》でエントランスホールへむかっていく。  と、その背後からさらに威勢よく駆けてきた人影が、追いぬきざま、階段に伸びるレイジの影と交わった。  ……影?  ぎくっとふりむいたレイジは、後ろから来た男の足が自分の影の上にあるのを目にとめ、あやうく失神しそうになった。  か……影を踏まれた!  細心の注意を払いつづけた一日を、一瞬にしてだいなしにした男——守谷一輝。  あの瞬間、レイジの目標は「めざせ十一位!」から「倒せ守谷!」へ変わった。  たとえ石にかじりついてでも、守谷一輝にだけは勝つ。  演技開始のホイッスルを待つ刹那《せつな》、レイジは再び険しい目つきで背後の守谷を威嚇《いかく》した。  見てろよ、守谷。おれの慎重な、基本に忠実な演技を。  種目は前宙返り一回半一回ひねり自由型。さっきの三巡目でキャメル山田が飛んだのと同じ技だ。手足の長いキャメルはらくだ色の海パンをはいてもなお、水に沈むのが惜しいほどの華のある演技で見る者を魅了した。  自分にはキャメルのような華も、知季のような軽さも、要一のような巧《うま》さも、飛沫のような力強さもない。だからせめて確実な、安定した演技を見せるだけ。  助走。踏みきり。ジャンプ。回転。入水。一連の演技をおさらいしていくレイジの脳裏に、そのとき、なぜだかふっと夏陽子の声がよぎった。 「決勝進出、本当におめでとう。そこでひとつお願いがあるんだけど、決勝では、失敗してもいいから思いきった演技をしてくれないかな。丸山くんを見てると、なんていうのかしら、自分で自分をものすごく限定しちゃってる気がするのよね。たしかに、今の自分を見つめることは大切よ。でも、未来の自分まで決めつけることはない。勇気をだして殻をやぶったら、きっとそこから新しい未来がはじけるはずだわ」  あの人は何を言いたかったんだろう。慎重に飛ぶのは悪いことじゃないのに。まるでぼくに勇気がないみたいじゃないか。  もともとレイジは自分よりも知季を選んだ夏陽子に好感を持っていなかった。あの女コーチのせいでMDCはてんやわんやだし、おかげで敬介の影が薄れてしまったのもなんだかかわいそうだ。彼女がアメリカに帰るという話も、だからレイジは内心さほど深刻に受けとめてはいなかった。  はちゃめちゃにやれとか、思いきって飛べとか。  陵もあの女も、そりゃあ他人事だから好きなことを言える。  でも、ぼくにはぼくの戦略と勝算がある。  一に慎重、二に慎重、三、四がなくて、五に慎重!  レイジが決意を新たにした瞬間、演技開始のホイッスルが鳴り響き、頭の天辺にピンと針が刺さったような緊張が駆けぬけた。  これまでの六年間。練習を重ねた日々。こしらえたあざの数々。くやし涙。勉強と両立していく苦労。減っていく友達。返事の書きかたもわからなかったラブレター。  それらのすべてを胸に全神経を集中し、助走へと一歩、足を踏みだした。  瞬間、またしても失神しそうになった。 「う」  しまった、左足から踏みだしてしまった……!  けれどもう体は動きだしている。  立ち止まることは許されない。  ぐんぐんと迫ってくるプラットフォームの先端。  ちくしょう、こうなったらもう、やぶれかぶれだっ。  いつもより大きく腕をふりあげ、力まかせに体を放りだしたレイジの目の前で、そのとき、新しい未来がちかちかとはじけた。  第四巡後の順位(累計)  ㈰山田篤彦(197・64点)  ㈪沖津飛沫(196・86点)  ㈫坂井知季(186・15点)  ㈬小川忍(182・97点)  ㈭鏑木進治(180・6点)  ㈮松野清孝(179・01点)  ㈯浅間孝(177・9点)  ㉀仲山政彦(176・1点)  ㈷丸山レイジ(166・02点)  ㉂守谷一輝(160・2点)  ㉃辻利彦(153・51点)  ㈹富士谷要一(139・11点) [#改ページ]   4.5…ONE DAY, IT'LL COME  坂井知季。沖津飛沫。キャメル山田。  決勝戦はこの三人のデッドヒートを中心に回を重ねていた。優勝争いにからんでくると思われていたベテラン勢はいまひとつふるわず、それどころか最有力候補の富士谷要一が最下位というハプニングつきで。  もちろん、勝負はまだこれから。  真に強い選手こそ、残る六回の自由選択飛びでその本領を発揮する。  きっとこのままじゃ終わらない——。  皆が心でそう思いつつ、しかし勝負とは「試合の流れ」という魔物に左右されるものであることも、だれもが十分に知りぬいていた。  その魔物に全身で挑みかかるように、夏陽子がすさまじい形相でプールサイドへ駆けこんできたのは、前半の制限選択飛びが終了した直後のことだった。  後半の自由選択飛びがはじまるまでのインターバル。そのしばしの休戦時には、選手の各自がそれぞれの気の休ませかた、あるいは高ぶらせかたをする。プールサイドで瞑想《めいそう》にふける者。ジャグジーバスで体を温める者。後半戦へむけてコーチからの指導をあおぐ者。スタンドの家族とくつろぐ者。時化《しけ》る海に訪れた一時の凪《なぎ》をだれもが思い思いにすごしていた。  そこに、素手で嵐を起こすような剣幕で飛びこんできたのが夏陽子である。  夏陽子はまっすぐ要一へ駆けよると、ものも言わずにむんずと彼の腕をつかみ、再びすさまじい形相で会場の外へと連れ去った。あまりの早業に知季も、飛沫も、レイジもとっさに反応ができなかったほど。  しかし数秒後、三人は目と目で合図をし、そろって動きを開始した。  結果、数十秒後にはプールサイドから三人の姿も消えていた。  救護室のベッドに横たわる要一の姿を彼らが見たのは、さらにその数分後のことだ。 「ひどい熱なの」  夏陽子の口からそう告げられた瞬間、知季は十メートルから、飛沫は七・五メートルから、レイジは五メートルの高さから水に打ちつけられたような顔をした。要一の体調に対する認識の程度が、そのままショックの度合いとなって表れた。  更衣室。中庭。エントランスホール。館内をばたばたと駆けまわったあげく、「その二人なら……」とドームの係員に案内されて行きついた救護室。かたわらの椅子に腰かけた夏陽子の見つめるベッド上では、要一が頭まで毛布をかぶり、片ひざを立てた姿勢であおむけになっている。その片ひざがかろうじて彼の闘志を支えているようにも見えるが、毛布の下からもれてくる息は荒かった。  ついさっきまで十メートルの階段を上り、そこから宙返りとともに飛びこみ、再び階段を上っていた人物とは思えない。 「予選から具合が悪いのはわかってたわ。でも、まさかここまでひどいなんて……」  押し殺した夏陽子の声を背に、知季はとっさに戸口をめざしていた。 「どこへ行くの?」 「富士谷コーチを……」 「呼ばないで」 「え」 「絶対に呼ぶなって、富士谷くんが」 「だって、お父さんだよ」 「父親だからって代理で飛んでくれるわけじゃあるまいし、って」 「そんな……」  扉の前で立ちつくす知季に、飛沫が低くつぶやいた。 「つまり、やつはまだ飛ぶ気ってことだ」  八つの瞳《ひとみ》が見つめる毛布のふくらみは微動だにしない。  その頑《かたく》なな沈黙を前に、夏陽子が肩をすくめた。 「止めても無駄でしょうね」 「そんな、他人事みたいに……こんな体で飛んだら要一くん、死んじゃうよ」  思わず声を荒らげた知季に、 「他人事じゃないからよ」  と、間髪を入れずに夏陽子も応酬した。 「他人事じゃないから言ってるの。もしもあなたたちが彼の立場だったら、どう? 今、ここでリタイアできる?」  三人は同時に目をそらした。 「できっこないわよね。だってオリンピックがかかってるのよ。四年に一度の大舞台……しかも彼は一度、その代表権を自ら返上している。MDCのため、そして自分のためになんとしてもそれをとりもどさなければってプレッシャーはだれより強いはずよ。たとえここに百人のマッチョマンがいても、彼はふりきって飛込み台へ上るわ。ちがう?」  ちがう、と言い切れる者はいなかった。  釈然としない理由でオリンピック代表の座にすえられた要一。しつらえられたその場所に、しかし彼はどうしても甘んじることができず、自らそれを返上した。夢のオリンピックを自力でとりもどす方法はただひとつ。今日の試合で600点以上をマークし、優勝すること——。  止められるわけがない。 「くそ、もっと早く気がついてたら……」  飛沫が唇をよじらせた。 「昨日の練習で富士谷が百パーセントの力をだしてないのはわかってたんだ。でも、それは試合前の調整だと思ってた。熱があるなら神戸になんか行かなかったのに」 「ぼくだって、船が見たいとか、夜景が見たいとか言わなかったのに」 「ぼくも昨日の夜、要一くんが練習に行くのを止めてれば……」  飛沫と知季に続こうとしたレイジを、そのとき、鋭い声がさえぎった。 「レイジ、よせ」  要一の声だった。  六つの瞳が再び毛布のふくらみにそそがれる。  しかし、残る二つはそのままレイジを見すえていた。 「丸山くん、今、なんて?」 「いえ、なんでも」 「昨日の夜って、なに?」 「だから、なんでも……」 「なんでもないわけないじゃないっ」  夏陽子が声を乱した。 「たしかにここ最近の富士谷くんは調子がよくなかったわ。たまりにたまった疲れで限界寸前だった。だからこそ昨日、早めに練習を切りあげてリフレッシュさせたのよ。でも、熱なんか……そこまで悪化していたなら私は必ず気がついたはずよ。ねえ、昨日の夜、何があったの?」  夏陽子の詰問と、要一の無言のプレッシャー。  その板挟みになったレイジが瞳を泳がせる。  助け船をだしたのは要一自身だった。 「昨日の夜、ホテルのプールでかかりの練習をした。軽く切りあげるつもりが、ちょっとやりすぎた。それだけだ」 「夜、プールで練習を……?」  夏陽子の顔色が一変した。 「なぜそんなバカなことを? この大事なときに」 「大事なときにバカをやるのが趣味なんです」 「ふざけないで!」  激昂《げつこう》した夏陽子の手が力まかせに要一の毛布をめくりあげた。白い毛布は応援旗のように宙を舞い、それからはらりと床に沈んだ。 「試合の前夜に練習だなんて……それがどんなに自殺的な行為か、夜のプールがどれだけ体を疲弊させるか、富士谷くん、あなたにはわかってるはずよ。これまでだれより自己管理を徹底してきたあなたじゃない。それを、最後の最後にこんな……。なんのためにこれまでがんばってきたの? 血を吐くような二週間はなんだったの? SSスペシャル'99、必ず成功させてシドニーへ行くって豪語してたのは……」  我を忘れてまくしたてていた夏陽子が、突然、はたと口をつぐんだ。毛布の下から現れた要一の、激しい、燃えるような怒りの色を見てとったからだ。  青ざめた唇。白すぎる肌。赤くにごった白目。しかし、それだけじゃない。今日の彼をいつもの要一から遠ざけているのは高熱だけではないのだと、夏陽子は初めて気がついた。 「じゃあ、あんたはどうなんだ」 「私?」 「あんたはおれに言ったよな。トモや沖津、それにレイジを見てたら、コーチに必要なのは目的じゃなくて選手だとわかった、と。貴重な時間をこいつらと完全燃焼させたい、と。あれは嘘だったのか」 「嘘じゃないわ」 「じゃああんたの完全燃焼ってのは、MDCからどれでも一人をオリンピックへ送りだすことだったのか」 「どれでも一人?」 「たった一人のオリンピック代表さえだせばMDCは救われる。結局はその目的がすべてじゃねーか。目的さえはたせば、あんたは安心してアメリカへもどれる。あとのことは人に任せて、みんなに感謝されて、MDCを救った天才コーチなんて伝説を残してさ。いやかっこいいっすよ、マジ。七人の侍《さむらい》みたいだ。でも、残された負け組はそのあともずっとかっこ悪い現実に立ちむかっていかなきゃならないんだ」  要一は挑むように上半身を持ちあげ、夏陽子と対峙《たいじ》した。 「今日の試合は勝者よりも多くの敗者を生む。そんなのはわかりきってたことだろう。おれはあんたが自分の目的を遂《と》げても、勝者より敗者のためにここへ残ると信じてた。もしも目的を遂げられず、MDCがつぶれたとしたらなおのことだ。なぜなら、あんたは自分のコーチとしての才能を知ってるからだ。その才能が日本の飛込み界に必要なことを知ってるからだ。敗れ去った者たちの前に五年後のアテネへの道を開けるのは自分しかいないと、知ってるからだ」  最後のほうはかすれ声で言い切った要一の、肩のラインがぐらりとかたむいた。熱に潤んだその瞳は、しかし、彼の求めているものを強く、正確に訴えていた。  彼が、彼らが夏陽子に求めているもの。  昨夜からずっと胸にくすぶらせてきたもの。 「つまり」と、飛沫がそれを言葉に置きかえた。「富士谷はできるだけ遠回しにこう言ったわけだ。MDCには麻木夏陽子が必要だ、と。アメリカなんか行くなってさ」 「賛成」と、知季もすかさずあとに続いた。「麻木コーチにもらった自主トレのメニュー、おれ、まだ続けてるよ。最初は途中で吐きそうになったけど、最近は物足りなくてこまってる。そろそろバージョンアップさせてほしいって、この試合が終わったら言おうと思ってたんだ」 「……」 「おい」 「おい」 「おい」 「ぼくも……」と、周りの三人にせっつかれ、レイジも小声で同意した。「ぼくも、麻木コーチからもっと新しい何かを教わりたい」  言うだけ言った彼らが口を閉ざすと、ほかに音源もないその小部屋は静寂の穴に沈みこんだ。穴の上からは薄々と、スタンドの声援が木漏れ日のように射してくる。試合中は傍《はた》迷惑な競泳の応援合戦。けれど薬品臭の染みついたオフホワイトの壁の中では、そんな喧噪《けんそう》さえ人肌のぬくもりを思わせる和みの音となる。  教え子たちのまっすぐなまなざしを浴びながら、夏陽子はそのぬくもりを胸にたくわえるように息を吸い、それから、言いづらそうに口にした。 「ありがとう。みんなの気持ちがわかってうれしいわ。でも……」 「でも?」 「でも私、アメリカへ行くなんて一言も言ってないんだけど」 「え」 「え」 「え」 「え」  四人が一斉に硬直した。 「言って……ない?」  静寂の穴のさらに底。その果ての行きつくところまで行きついたような、完璧《かんぺき》な沈黙がその場を支配した。  が、若い彼らは持ち前の瞬発力でそこから這《は》いあがるのも早かった。 「だってそんな……レイジが高級レストランで、なあ」 「アメリカ人との話を、なあ」 「レイジ、おまえほんとに英語わかんのかよ」  三人から疑いの眼をむけられ、レイジが顔を赤らめる。 「ほんとだよ。ほんとに麻木コーチ、アメリカに行くとか言ってたんだよ」 「昨夜、市内のレストランでアメリカ行きの話をしていたのは事実よ」  夏陽子はあっさりと認めた。 「でも、アメリカへ行くのは私じゃないわ」  一瞬、だれもがその真意を測りかねた。 「麻木コーチじゃない?」 「となると……」 「一体……」 「だれが?」  四人がきょとんと目を合わせる。  夏陽子はためらいがちにその面々を見まわした。  今、ここで真実を言うべきか。言わずにおくべきか。  いや、こうなった以上、もはや言わずにはすまないだろう。 「アメリカへ行くのは……」  夏陽子はこくんと息を呑《の》み、彼らの一人に視線を定めた。 「あなたよ」  あなたよ。  そう言われた瞬間、飛沫はなぜ夏陽子が自分を見ているのかさっぱりわからなかった。  にもかかわらず、これまで数ある単語のひとつにすぎなかった「アメリカ」が、急に色鮮やかな光沢をともない、ポップアップ絵本のように迫ってくるのを感じた。  アメリカ。  サクセス・ストーリーの国。  多民族国家。  自由の女神。  マクドナルドにコカ・コーラ。  ……で、なんで自分が? 「時間がないからざっと話すわ。アメリカに、スポーツ障害のエキスパートといわれるコーチがいるの。フロリダで飛込みを教えているベン・ブラッドリー氏。筋トレによる肉体改善と科学治療を並立させた独自のプログラムで、これまで医者から匙《さじ》を投げられた選手を何人も世界のトップ舞台へよみがえらせてきた達人よ。日本でも知る人ぞ知る存在で、各地のDCからレクチャーの依頼が絶えないって話。で、今回、ついに来日が実現したわけ」  ひとたび口を開いた夏陽子にもはや迷いはなかった。彼女は軽快な口ぶりで「自分がいかにすばやくアポとりを開始したか」「ベンとの交渉にどれだけ奮闘したか」「大阪でスケジュールを調整できたのがいかにすごいことか」などを得々と語った。 「それで昨夜、ついにそのベンとの対面がかなったってわけ。もちろん沖津くん、あなたの腰のことを相談するためよ。あなたの生い立ちやおじいさんのことも交えて話をしたら、思いのほか興味を示してくれたわ。日本海とか、網元の血とか、なんとなくオリエンタルな要素が彼のハートをぎゅっとつかんだみたい。あなたさえその気なら力になるって約束してくれた。すぐにでもフロリダへ来るべきだ、って」 「すげえ!」  いち早く事態を呑みこんだ要一が声を張りあげても、飛沫は依然としてきょとんとしたままだった。  話があまりにも大きく、すごすぎて頭がついていかない。  アメリカ。  アメリカン・ドリームの国。  世界の警察。  摩天楼にスラム街。  ミッキーマウスにビル・ゲイツ。  きれぎれのイメージがほとばしる中、でも、どうしても、フロリダがどこにあるのかわからない……。 「ただし」と、夏陽子の声が飛沫を日本の現時点へと引きもどした。「問題がないわけじゃないの。ベンは凄腕《すごうで》の名コーチだけど、べつに慈善事業を営んでるわけじゃない。彼のDCに入るとなれば、それなりの費用が生じるわ。本気で腰を克服するつもりなら、少なくとも半年はフロリダに滞在する必要があるそうだし、諸々《もろもろ》をふくめるとふつうのご家庭には負担の大きすぎる額になってしまう。そこで、私から日水連の前原会長に直談判してみたの」 「前原会長に?」 「未来のメダリストを育てるための先行投資。待っていてもメダルは転がってこないって彼の持論に矛盾はしてないと思ってね。実際、事と次第によっては沖津くんを日本初の飛込み留学生にしてもいいって、約束してくれたわ」 「事と次第?」 「最後まで言わせたい?」  夏陽子の唇に煽動《せんどう》的な笑みが浮かんだ。教え子に無理難題を突きつけるときの、あの至福の微笑だ。 「オリンピックよ」 「オリンピック……」 「下手なプレッシャーをかけたくないから黙ってたけど、こうなったらしかたないわね。つまりは今日の試合の結果次第。あなたがフロリダへ行くためには、まずはこの試合を制してシドニーへ行かなきゃならないってこと。あの会長がオリンピックと縁のないことにお金をだすわけないでしょう」 「……」 「もちろん、フロリダに行くも行かないも、決めるのはあなたよ」  飛沫の鈍い反応に、夏陽子が心持ち声を弱めた。  要一も、知季も、レイジも、だれもがこの展開に驚き、興奮しながら飛沫の返事を待っていた。 「フロリダ……」  やがてようやく飛沫の口が動いた。 「そこには、コアラはいるのか」 「コアラはいないわ。でも、あなたが必要としている設備があり、コーチがいる」 「そこで腰を治せば、おれにもまだ世界のでっかい舞台で戦えるってことか?」 「戦うだけじゃない。勝って、そのばかでかい舞台をあなたのものにできるわ。あなたの飛込みにはそれだけの力がある」 「これから先、まだ何年もみんなと遊べるのか?」 「あなたはまだ十七歳。うまくすれば何十年だって遊べるわ」 「……」  飛沫はあいかわらずきょとんとしたまま、しかし腹の底から何かがわきあがってくるのを感じていた。  何か熱いもの。  皮膚の裏側をむずむずさせるもの。  眠らせていた期待を呼びさますもの。  ずっとそれが必要で、ずっと探していた——。 「わかった」と、飛沫は言った。「フロリダに行く。どこにあんだか知らないけど、とにかく行く。そのためにも、まずはこの試合で優勝するよ」 「そうよ。まずはこの試合に勝つこと。でも、この試合に大きな夢を賭《か》けているのはあなただけじゃない」 「わかってる。ライバルに不服はない」  飛沫が燃えるような目をそのライバルたちへむけた、そのとき。  夏陽子のジャケットのポケットから、突然、携帯電話の着信メロディ———〈いつか王子様が〉の一節が流れてきた。 〈いつか王子様が〉? 〈ロッキーのテーマ〉から一転し、やけにムーディーなその奏でに一同が当惑する中、夏陽子はロスのない動きで携帯電話をとりあげ、ロスのない言葉で話を片づけた。 「……はい。わかりました。行きます」  電話を切るなり、獣《けもの》のような俊敏さで四人をふりかえる。 「あと五分で後半の自由選択飛びがはじまるそうよ」  弛緩《しかん》していた四人の顔が引きしまった。 「富士谷くん、行ける?」 「当然」  要一は即答し、機敏な動きで床へ足を下ろした。 「要はスイッチの問題だ。今、戦闘モードをONにした。フロリダの話をきいて、こっちまでやる気がでてきたよ」 「OK。じゃあ、遅蒔《おそま》きながら急いで本題に入るわね」 「本題?」 「簡単な状況説明よ。べつにあなたを休ませるためだけにここへつれてきたわけじゃない。後半戦の前にこれだけは伝えておきたかったの」  夏陽子は走り書きを加えたエントリー表を手にとった。 「富士谷くんの現時点でのトータルは139点。上位の選手とは50点以上もの開きがある。でも、実際は数字の上ほど引き離されてるわけじゃないのよ」 「どういう意味ですか」 「あなたには難易率という強みがあるってこと。なんせ自由選択飛び六本の平均難易率が3点ですもの。もちろん出場者の中では断然のトップで、坂井くんの平均難易率とは0・2の、沖津くんとは0・35の、丸山くんとは0・55もの開きがある。この開きが後半、じわじわと底力を現すわ。つまり、まだまだ逆転は可能ってことよ」  燦然《さんぜん》と輝く猫の目は、彼女がまだなにひとつあきらめていないことを物語っている。  要一は色のない唇をつりあげ、不敵な笑みを返した。 「それはどうも。でも、逆転が不可能だなんて片時も思ったことありませんから」 「それはそれはどうも。ただし、その体で飛ぶこと自体が危険な賭けであることを片時も忘れないで」 「危険な賭けならお互いさまだ」と、要一が飛沫に目をくれた。「エントリー表を見て驚いたよ。沖津の十本目……たんなる前飛込みの伸び型とはな。最後の最後にただ飛ぶだけ、か。なに考えてんだか全然わかんねーけど、とにかく楽しみにしてるよ」 「おれはおれの個性に賭けて飛ぶだけだ」と、飛沫は動じずに言い返した。「だいたい、危険な賭けって点では坂井が真打ちだろ。成功率五パーセントの四回半をラストで飛ぶとは、いい度胸だ」 「五パーセントじゃないよ、失礼な」と、知季が唇をとがらせた。「六パーセントまで上がったんだから」 「六パーセント……自暴自棄ともいえるな」 「自暴自棄は熱があるのに飛ぶ要一くんだって」 「試合の前に腐ったりんごを食うレイジも相当なもんだけどな」 「ちょっとしなびてただけだよ!」  見つめあい、探りあい、やがて笑いだした彼らの瞳《ひとみ》に少年らしい光が宿った。  一瞬先のことなんてだれにもわからない。  わずか一・四秒後のことですら。  だからこそわくわくするし、駆け足でそれをたしかめに行きたくなる。 「さあ、時間よ」  夏陽子の声が四人の背をはじいた。 「行って、思うぞんぶん遊んでいらっしゃい」  一同はそろってうなずき、戸口へと足を踏みだした。レイジが、飛沫が、要一が、それぞれのステージへと翼をひるがえしていく。その末尾に続いた知季は、退室する直前に「そういえば……」と、ふと思いだしたように夏陽子をふりむいた。 「麻木コーチは、結局、MDCをやめないってことですよね」  すでに廊下へ消えていた三人の足音が止まった。 「ええ、もちろん。五年後に訪れるオリンピックで、今度はあなたたち全員をドラゴンにのせるって大役があるもの。五年なんて、きっとあっという間だわ」 「でも、じゃあどうして最近、やたら物思いにふけったりしてたんですか」 「ああ……あれ、ね」  夏陽子が目の下をひくつかせた。 「ちょっと気になることがあっただけ」 「気になること?」 「大阪に来る前、原宿によく当たる占い師がいるってきいて、行ってみたの。一体だれがシドニーへ行くのか、やっぱり私だって気になるじゃない。でも、いざとなるとやっぱりね、占いなんかに頼るのはばかばかしいかなって。それで急遽《きゆうきよ》、私の恋愛運を占ってもらったの」 「恋愛運……」 「私の恋愛運、今年の八月で通りすぎたって言われたわ。次に新たな恋のウエーブが訪れるのは、五年後」 「……」 「五年後なんて生きてるのか死んでるのかもわからない大未来じゃない。だいたい私いくつ? って感じだし。それでちょっと落ちこんでたんだけど、でも前向きに考えれば、こうも言えるのよね。私の新しい恋は五年後のアテネで待っている!」 「みんな、行こうか」 「おー」  五年後へ馳《は》せていた目を夏陽子がもどしたとき、すでに四人の姿はなく、白い壁の中には彼女と、ベッドと、再び音を奏ではじめた〈いつか王子様が〉だけが残されていた。 [#改ページ]   5…WHERE'S HE GOING?  ドーム側面の窓——「巨大などらやき」の餡《あん》のあたりからそそぐ陽光が、ほどよく熟した橙《だいだい》を帯びてきた。ガラス越しの西日はまるで水彩色鉛筆のように、水しぶきに溶け入りそうな淡い線を伸ばしている。そういえば、どでかいまんまるの夕日を最後に見たのはいつのことだっけ?  なんらかの遮蔽物《しやへいぶつ》でつねにどこかが欠けている都会の夕日。それに慣れたころには東京暮らしにも慣れるかもしれないと、津軽から上京した当初、飛沫はぼんやり思っていた。まさかそれに慣れる前に日本を離れ、異国の夕日を仰ぐことになるかもしれないなんて……。  救護室からぎりぎりで駆けつけた後半戦。  まだ息も荒いレイジを先陣とした五巡目の出番を待つあいだ、飛沫の頭は降ってわいたようなアメリカ行きの話でいっぱいだった。  アメリカ。  アメリカンコーヒーの国。  NASAにFBIにCIA。  ハリウッドにラスベガス。  銃社会。  乏しい予備知識が尽きていく中、飛沫の胸は尽きることのない興奮でわいていた。  フロリダ。そこで何が、どんなことが自分を待ちうけているかわからない。わからないからこそ、わくわくする。知らない国。知らない町。知らない人々。その真っ白な未来へのときめきが止まらない。  飛沫は今こそ、かつて十六歳で故郷を捨て、未知なる都会へと飛びこんだ祖父の思いを真に理解した気がした。オリンピックだのメダルだの、そんなのはとってつけたような言い訳にすぎなかったのかもしれない。ジジイはただ新しい世界にときめき、胸のわくわくを抑えきれずにあの小さな村を飛びだした。それだけのような気もするし、それだけでいい気もする。  例の十六ミリを観て以来、飛沫の中からは過ぎし日の祖父に対するこだわりが嘘のように消えていた。自分は自分。その基本へ立ち返ったときから、しかし、ふしぎにも以前より祖父を身近に感じる。  ときおり、ふつふつとたぎる沖津の血。村のため、豊漁のために荒海へ身を投じてきた代々の血潮。断崖《だんがい》の絶壁に孤影をさらしながら、彼らも本当はあの水平線のむこうを、未知なる世界を夢見ていたのかもしれない。  まずは祖父の白波が一歩、足を踏みだした。  自分はそのさらにむこうへ、海を越えて飛びだしていけるのだろうか?  すべてはこの一戦にかかっている。  否が応でも奮いたつ後半戦。この段階では二位につけているとはいえ、状況は決してかんばしくなかった。意地でも顔にはだすまいとしているが、腰の痛みは回を重ねるごとに耐えがたくなっていく。不安が高まるたびに飛沫は肩や首をまわして腰から意識を遠ざけ、それからちらりと、観客席の一階に見える黄色い点に目をやった。  白鳥のくちばしみたいに黄色いVネックのセーターをまとい、見慣れぬ飛込み台に必死で目をこらしている恭子《きようこ》。時折、文《あや》さんの耳もとでなにやらささやくその姿を見るたびに、飛沫のときめきは一瞬、弱まった。  アメリカへ行く。  もしもそう告げたら、恭子はなんと言うだろう?  いつもの恭子なら無理にでもほほえみ、その三日後くらいに猛烈に怒りだすかもしれない。が、今の彼女は微笑を顔にはりつけたまま、ふらりとどこかへ消えてしまいそうな気がした。  その危うさが、その謎めいた面影が、遠い異国へと駆ける心の前に唯一、暗く立ちはだかっていた。 「今度の選考会だけど、文さんと一緒に見に行こうかと思って」と、十日ほど前に恭子からの電話を受けたときから、どうもへんだなと思ってはいた。 「一度、試合を見てみたかった」 「オリンピックのかかった決戦だし」 「大阪見物もかねて」  恭子はあれこれ理由をつけていたものの、もともと彼女は男としての飛沫にしか興味を示さず、ダイバーとしての彼には賢く距離を置いていたし、まして大阪に興味があるとも思えなかった。最後にとってつけたように「飛沫に会いたい」と言っていたけれど、選考会が終われば冬休みで、正月には帰郷すると伝えてある。まあ、ほんの思いつきだろうとそのときは流しておいた。 「飛行機の切符を手配した」と、五日前に電話があったときには、本気だったのかとしばし絶句した。無論、恭子が応援に来るのはやぶさかではないが、しかしなんとなく照れくさい気もする。旅費も安くはないし、わざわざ仕事を休んでまで……と言葉をにごしたところ、恭子はむきになって「どうしても行きたい」と言い張った。女がどうしてもと言いだしたら、それはもうどうしても止められないのだろう。 「近くの宿をとりたいから、飛沫の泊まるホテルを教えて」と三日前に電話があったときには、もうすっかり観念してホテルの名と場所を告げた。大阪では団体行動なので会うのは難しいと言いそえはしたものの、少しでも会えたらうれしいと言われると、それはまあ、自分だって会えたらうれしいという気持ちになる。  そして昨日の神戸観光中、携帯電話に「大阪到着」のメールを受信して以降、飛沫は心密かにMDCの群れを離れる隙を見計らっていたのだった。  幸い、大阪へもどったのは午後八時。すぐに恭子の携帯へ電話し、ホテルの斜《はす》向かいのファミリーレストランで待ちあわせをした。その後、レイジと幸也に軽く挨拶《あいさつ》をしてからホテルをぬけだすつもりでいたのだが、そこで夏陽子の衝撃の事実(無根だったが)が発覚。夏陽子がMDCを去ると知らされた皆のダメージは大きく、飛沫自身、しばし恭子のことを忘れていた。  互いのへこみ具合に互いにいやけがさして散会したのが、九時二十分。同室の大島にだけは外出の断りを入れ、ようやく恭子のもとへ駆けつけたときには、それなりの罵声《ばせい》を浴び、ケーキのひとつもおごらされるものだと覚悟していた。が、しかし窓辺のテーブルでぼんやり外をながめていた恭子は、飛沫に気づいても空虚な瞳《ひとみ》のまま、ただうっすらとほほえんだだけだった。  恭子ほど、その表情を読みやすい相手はいない。弱っているときには弱っている顔を、強がっているときには強がっている顔をする。そして、何かを隠しているときには隠している顔を。 「どうした?」 「なにが」 「いや、なんとなく。大丈夫か?」 「飛沫こそ、試合の前日にこんなことしてて大丈夫?」 「こんなことくらいなら大丈夫だけど、セックスは翌日に響くからやめとけって同居人に言われたよ」 「バカ」  いつもの調子を装いながらも、恭子は決して三秒以上、飛沫と目を合わせようとしない。飛沫の注文したブルーベリーヨーグルトを見ても、「不気味な色」といつものように鼻にしわをよせなかった。 「そういえば……」  飛沫は困惑し、この妙な空気を変えるスイッチでも探すように視線をさまよわせると、やがてジーンズのポケットから赤い紐《ひも》を通した貝殻をとりだした。 「文さんにもらったこれ、持ってきたから」 「あ。お守り」 「そういや、文さんは?」 「ホテルで寝てる。旅行なんて久しぶりだから、昨日は興奮してあんまり眠れなかったって」 「せっかく来たのに、なんもできなくて悪いな」 「大丈夫。ちゃんと二人で通天閣に行ってスタンプもらったし、たこ焼きも食べたし、くいだおれ太郎と写真も撮ったしね」  恭子が言って、どこか嘘のある笑顔をこしらえた。  少し髪型が変わった。夏は剥《む》けていた鼻の頭が本来の色をとりもどした。頬のあたりがやや痩《こ》けた。  何を隠している? 「恭子」 「え」 「明日の試合で負けたら、おれ、今度こそ津軽に帰るから」  突然、口をついてでた告白に、自分でも驚いた。 「うちの女コーチ、明日の試合を最後にMDCをやめる気でいるらしい。さっき仲間からきいたんだ。だからってわけじゃないけど、おれもオリンピックがダメだったら、今度こそ飛込みから足を洗おうと思ってる」  今、ここで恭子に明かすつもりはなかったものの、これはだいぶ前から飛沫が決意していたことだった。  一度は逃げるようにして帰った津軽から、再び上京して約四か月。鍼《はり》。指圧。整体。気功。電気治療。あらゆる手段で痛む腰をなだめながら、飛沫は夏陽子のもとでスワンダイブにとりくんできた。それは彼が想像していた以上に険しい道のりだった。  ただ飛ぶだけ。最もシンプルなその技で見る者を魅了するには、飛沫の売りである力強さだけでは事足らない。頭の先から爪先まで、すべての神経、すべての筋骨を駆使して、一分の隙もない美を表現する必要がある。それにはまず第一に繊細な動きを身につけることだ、と夏陽子は力説した。 「野性味、結構。ダイナミズムも大いに結構。でも、あなたがトライするのはコンドルではなく、白鳥の舞なのよ」  美への意識を高めるため、夏陽子は飛沫をバレエや絵画展、日本庭園にまでつれまわした。そんな特殊な場にかぎらず、たとえば道端の野花ひとつをとってみても、飛沫は夏陽子の言うことを認めざるを得なかった。たしかに、美しいものはどこかに繊細さを忍ばせている、と。そしてそれを確認するかのように、飛沫は十月のなかばに一人、白鳥の渡来で有名な秋田の十文字町を訪ねたのだった。  十文字町の皆瀬《みなせ》川には、例年、千羽近くの白鳥が羽を休めにくるという。川面《かわも》に浮かぶその白い群れは圧巻だったが、体重が十キロもあるオオハクチョウは、その重さ故になかなか翼を広げようとしない。寒風の吹きすさぶ中で飛沫は日の入りまで粘り、ようやく一羽の白鳥が飛び立つところを見た。目を見張るほどに大きな翼を羽ばたかせ、夕焼けの紅い空に舞いあがる白鳥の力強く、美しいシルエット——。そう、まさに夏陽子の言うとおりだった。野性の勇ましさを放ちながらも、白鳥はその翼で、そのくちばしで、その足で、一分の隙もない美を表現していた。 「来週からはバレエのレッスンよ」とある日、いきなり夏陽子から申し渡されたときには、さすがに喧嘩《けんか》を売っているのかとカッときたものの、その白鳥の舞を見て以降は、自主的にステップのおさらいをするまでになった。ただし、このバレエ通いのことだけは恭子にいまだ言えずにいる。あのぴっちりしたタイツに足を通したことが知れたら男の威厳にかかわるし、人間の尊厳にも触れる恐れがあるからだ。  恥を忍んだかいがあり、飛沫はバレエのスパルタ教師によって、指の先から足の爪先、これまで神経を通わせていなかった体のすみずみまで意識を通わせる術をたたきこまれた。  成果は上々。トップフォームが格段に美しくなったと夏陽子に言われると、飛沫もそれなりに自信が高まった。けれど反面、そうして一歩一歩スワンダイブを極めていくにつれ、今度は別種の不安が胸をかすめるようにもなった。  最後の切り札であるこのスワンダイブが、もしも試合で通用しなかったら?  先天的な力強さ、それに後天的な美しさまでとりこんで最善を尽くし、それでも結果がついてこなかったら?  通常の選手ならばひとしきり落ちこんだあと、次の舞台へと頭を切りかえ、より高い技、より良い演技への追求をはじめることだろう。が、腰の疾患を抱えた飛沫には、より高い技を求めることができない。  よしんばスワンダイブが喝采《かつさい》を浴びたとしても、この技が世界の檜舞台《ひのきぶたい》で何度も通用するものではないことを、飛沫は十分に心得ていた。最初の一、二回は観衆をうならせ、わかせ、なんらかの感動を与えることができるかもしれない。けれど三度目には恐らく、飽きられる。夏陽子がスワンダイブの練習場としてわざわざ千葉の海を選んだのは、飛込みという競技の原始の姿にもう一度立ち返るためだけでなく、この技を本番まで極秘扱いにするためでもあったのだろう。  つまり、スワンダイブがうまくいこうといくまいと、どのみち自分には限界があるということだ。  十一月十九日。シドニーへむけての最終決戦。その戦いを終えたとき、要一と知季は勝っても負けてもひとまわり成長し、新たなステージへと躍進することだろう。が、自分にはともに進むことができない。彼らと遊ぶため、戦うためにもどってきた飛沫には、それでもなお、東京に留まるだけの動機が見出せなかった。 「明日、あのでかいドームで富士谷や坂井ともう一度戦える。それだけでおれは結構、満足してるんだ」  恭子に告げたその思いは、まんざら強がりでもなかった。 「やるだけやって、ぜんぶだしきって、それで負けたら津軽に帰るよ。あの村で恭子と毎晩セックスして、高校卒業したら結婚して、ガキつくって、船を買って、その日に釣った一番うまい魚を家族で食って……そんな人生も上々だ」  その思いも決して嘘ではなかったのだ。  けれど恭子は、このときはまだ飛沫自身ですら知らずにいたアメリカ行きをまるで見越していたかのように、表情をかたくした。いつも二人で描いていた未来図を、初めて疑う目を見せた。「高校を卒業したら結婚して」のところで必ず浮かぶえくぼも、この日は影をひそめていた。  飛沫はこのとき、ようやく悟った。  そうか、恭子はゆれているのか、と……。  いつも放りっぱなしで、自分から電話をすることもなく、恭子から電話をもらっても話の途中で寝てしまうことが少なくない。知季じゃないけれど、いつ心変わりをされても何も言えないと思ってはいた。  が、いざその危機を迎えてみると、情けないほどにあせっている自分がいた。 「恭子。おれに、負けてほしいか?」  だからつい、愚かな問いを口にした。 「負けて、津軽に帰ってほしいか?」  恭子はアイスティーに浮かぶレモンへ瞳《ひとみ》を落とした。混ぜるとにごるものを嫌う彼女は、飲みものに決してミルクを入れない。飛沫が一度、オレンジジュースにチョコレートアイスをのせてぐるぐるかきまぜたら、心底|軽蔑《けいべつ》した顔をして、しばらく口をきいてくれなかった。  やがて飛沫にむきなおった恭子は、そのときと似た顔をしていた。 「飛沫。あんたはずっと村の人たちをうらんでたよね。ジジイの夢を応援して、オリンピックへの遠征費用まで積み立ててたくせに、ジジイが夢にやぶれて帰ってきたとたん、掌を返したみたいに冷たくなった、って。でも私、そんなみんなの気持ちもわかるんだ。ジジイの夢は、みんなの夢でもあったんだよ。あの小さな村から飛びだすことのできないみんなは、飛びだしたジジイに夢を託して、本気で応援して……きっと本気になりすぎちゃったんだね。だから夢にやぶれたとき、悲しすぎて、くやしすぎて、ジジイが憎くなった。それでも私、やっぱりジジイがいてくれてよかったと思うよ。ジジイのおかげでみんなも夢を見られて、わくわくできて、一緒に輝けたんだから」  恭子はその澄んだ瞳でつらぬくように飛沫を見た。 「飛沫の夢は、みんなの夢だよ」 「……」 「勝ってほしい」 「……」 「勝って」  飛沫はたまらずに頭を垂れた。 「悪い。バカなこときいた」 「勝ったら、許す」  恭子が言って、ようやく嘘のない笑みをたたえた。  とはいえ、そのままいつもの恭子にもどったわけではなく、ホテルへ送っていく道すがらも彼女はやはり心ここにあらずで、魂までがふわふわと凍《い》てついた空をさまよっているかのようだった。 「恭子」  すべてを顔で語りつくす恭子は、自分からその気にならないかぎり、口では何も語らない。何を尋ねても無駄と思いつつ、飛沫は別れぎわに一言だけ問いかけた。 「ほんとはなんのためにここへ来た?」  一瞬の迷いのあと、恭子は言った。 「たしかめるために」 「なにを」 「自分を」 「たしかめられたか?」 「明日、飛沫が飛ぶのを見たらわかるかも」  飛沫はそれ以上恭子を追いつめようとはせず、冷たい夜気をふくんだ黒髪をなでながら引きよせた。みずみずしいフルーツの香り。シャンプーの匂いだけは変わっていない。妙にほっとした気分でつややかな唇にキスをした。  恭子との別れぎわのキスは三秒以内と決めている。それ以上触れていると離れられなくなるからだ。 「じゃ、明日な」  大島との約束を守るため、飛沫は未練をふりきるように体を離した。  恭子のことは気になる。  が、今は明日の試合や夏陽子のことも気になる。  気になることが一定の容量を超えると飛沫は無性に眠くなる。  とりあえず今日は帰って寝よう、と小走りでホテルへ引き返した飛沫は、しかしそこでまたひとつ、気になるものを目撃した。七階でエレベーターを降りようとしたとき、一寸早く開いたとなりのエレベーターから、見知った顔が降り立ったのだ。  要一だ。  恭子と会っていた後ろめたさから、飛沫はとっさに身を隠した。それに気づかず自分の部屋をめざす要一の後ろ姿は、やけに頼りなく不安定に映った。髪が濡《ぬ》れているところを見ると、どうやら大浴場にでも行ってきたらしい。ひと風呂《ふろ》浴びて疲れを癒《いや》すつもりが、長湯をしすぎてのぼせたんだろう。  案外、まぬけなところがあるんだな。  飛沫はそう思いこみ、要一の体調を案じながらも少々くつろいだ気分になった。そして翌日の試合で要一の絶不調を目のあたりにしても、湯あたりのせいだとずっと思っていた。  まぬけなのは、おれだ。  ようやくそう気づいたのは、インターバルに救護室で真相を知らされたときだ。  そのインターバルの明けた五巡目、自由選択飛びの最初の一本は、天理高の小川が後踏切前宙返り三回半抱え型の入水に失敗した以外はさしたる波乱もなく、各自が順調に点を重ねたまま要一の番を迎えようとしていた。  背中をかがめ、しんどそうに階段を上っていた要一が、観客の見守るプラットフォームへと一歩、足を進ませる。その瞬間、まるで何かがのりうつったかのように、彼の肉体は隙ひとつない気迫を宿して引きしまった。  こいつにはかなわない、と飛沫が思うのはこんなときだ。自分が恭子と会っているあいだ、要一はプールで最後の練習をしていた。飛沫が三秒のはかなさを嘆いていたときも、要一は一・四秒の貴さを忘れてはいなかった。そのちがいが、誰より努力をしつづけてきたというプライドが、彼のこの土壇場での気迫を支えているのだろう。  こいつにはかなわない。  だが、負けるわけにもいかない。  そして、もう一人——。飛沫はふたつ後ろで順番待ちをしている知季をふりかえった。案の定、要一が心配で見てられない、でも目をそらすのは卑怯《ひきよう》だ、でも……という葛藤《かつとう》をそのまま表情にだしている。  ライバルにここまで感情移入する人の好さ。転じれば、アスリートとしての甘さ。正直、飛沫はそんな知季にときおり、いらだつことがある。ふつうの友達としては最高だが、ライバルとしてはあまりに軟弱すぎるのではないか、と。  ところが、ひとたび陸から離れるや否や、彼の体は一瞬にして強烈なオーラをひらめかせる。まるで重量から解き放たれた水の精が、光の帯を幾重にもまとって舞うように。人間離れしたその軽さ。しなやかさ。知季はそれを、要一や自分のように努力によってではなく、生まれながらにしてさずかっていたように思えてならない。  だからこそ知季が、怖かった。もしかしたら要一以上に。  飛沫が奥歯を噛《か》みしめたそのとき、要一の背中がゆらりと宙へ浮き立ち、視界の外へと飛びだした。ややして水を切る音。要一にしては少々水面がざわついたが、しかし彼はこの演技で今日初めて、ジャッジから二つの8点を獲得した。  あの熱でこれだけの演技ができるとはさすがだ。  が、はたして要一の体は最後までもつのだろうか?  そういう自分の腰も、あと六本、最後まで入水時の激痛に耐えてくれるのだろうか?  耐えて、勝って、沖津家未踏の新天地へと飛び立てるのか?  そして恭子は……。  要一に続いて水面下へと消えたキャメルの次に出番を迎えた飛沫は、ゆっくりとドラゴンの鼻先へ足を進めながら、昨日の夜から頭を占めていた疑問へ立ち返った。  恭子は飛込みを続ける自分と、故郷へ帰る自分と、本心ではどちらを望んでいるのだろうか?  あるいは、もはやどちらも望んでいないのか?  何かをたしかめたいと恭子は言っていた。飛沫の飛ぶ姿を見ればわかるかもしれない、と。  飛沫もたしかめたかった。  自分の未来を。  恭子の思いを。  要一の、知季の、それぞれの夢の行方を。  そのためにはまず、ここから飛んでみせること。  プラットフォームの先端へ到着し、遠い漁《いさ》り火のような天井のライトをふりあおいだ飛沫の耳に、そのとき、演技の開始を告げるホイッスルが響いた。  第五巡後の順位(累計)  ㈰沖津飛沫(285・21点)  ㈪山田篤彦(264・84点)  ㈫浅間孝(251・85点)  ㈬坂井知季(250・95点)  ㈭鏑木進治(246・21点)  ㈮仲山政彦(236・94点)  ㈯松野清孝(233・91点)  ㉀小川忍(223・29点)  ㈷守谷一輝(215・64点)  ㉂辻利彦(205・35点)  ㉃丸山レイジ(204・42点)  ㈹富士谷要一(200・43点) [#改ページ]   6…WHERE'S SHE GOING?  自分《わい》のことば年よりだで、まだまだ思ってねえ。したばて、眼《まなぐ》見えねくなったはで、近頃だば、まず遠くば見えねぐなってまった。飛込みだば、どったらもんだか興味ねえわけではねがったが、ただぼけらっとした棒だけんだもんが台の上がらのべつまぐなぐ転がり落づでいぐだけだでば。回転だの、ひねりだの、あたらだ僅《わん》かのあいだにわかるもんでねい。  となりでぶつくさとこぼしつづける文さんに、恭子が「ひゃあ」と抱きついた。 「文さん、飛沫がついにトップに立ったよ!」 「トップ、どこだば」 「一位のことだよ」 「なしてそしたらだごど、わがるんじゃ」 「ほら、あそこの電光掲示板に今の順位がでてるでしょ」 「んにゃ、何がなんだか、さっぱどわがんねじゃ」  しかつめらしく目を細めながらも、文さんはまんざらでもなさそうだった。 「したばて、トップだば、めでていな。私《わ》にはどの顔も区別つかねばたって、沖津の息子《せがれ》だけだば、わがるな。あの息子《せがれ》ばでったらでっけえでな」 「うん。ほんとに飛沫って大きいよね」 「よぐ見えね眼《まなぐ》でも、ながながの男ぶりだ」 「うん。ほんとにいい男だよね」  臆面《おくめん》もなく言ってのける恭子に、文さんが「おや」という目をむけた。 「晴れの舞台見で、ほれなおしたが」 「やっぱり飛沫は水の子だって、よくわかった。名前にさんずいが三つも入ってたら、もう運命だよね。だれにも、飛沫自身にだって変えられない」 「おめもだか」 「私に変えられるのは私の運命だけだよ」 「簡単に変えられるんだば、運命だてば言わねべな」 「じゃ、私の人生だけ」 「人生、変える気になったが」 「さあ、どうかなあ」  思わせぶりな微笑を浮かべつつ、恭子は飛沫が水から上がり、再び十二人の最後尾へとまわっていく姿を目で追った。  約八か月前、突然「飛込みをやりに行く」と言い残し、それまで忌み嫌っていた東京へと旅立った飛沫。残された恭子にはなにがなんだかわからなかったし、あのころは飛沫自身もわかっていなかった気がする。夏に腰を悪化させて帰郷したときも、まるで羽を痛めたカモメみたいにひどい顔をしてたっけ。  でも今、無心に飛込み台の頂点をめざしていく飛沫はきっと知っている。自分がここにいる意味を。故郷の海から遠く離れたプールの上で舞うわけを。  次は、私がたしかめる番だ。  恭子は居住まいを正して飛込み台をふりあおいだ。本当のところ、答えなんてもうとっくにでている気もするけれど、とにかく最後まであのコンクリートの先から片時も目を離すまいと思った。  飛沫の夢が、そして自分の未来がかかった舞台なのだから。  自分の未来——それは飛沫と結婚して家庭を築くこと。この三年半、一寸のゆらぎもなくそう信じてきた恭子にとって、ふいに訪れた心の惑《まど》いは、まさに予期せぬ事故だった。  事のはじまりは、ケンの出現だ。いや、恭子のほうがケンの前に出現したのかもしれない。もともとケンはあの教室にいて、そこに恭子が踏み入ったのだから。  英会話教室へ通おうと思い立ったのは、ほんの些細《ささい》なきっかけからだった。高校卒業後、恭子は村のスーパーマーケットで働きながら文さんと二人、質素に、しかしそれなりに楽しく暮らしてきたけれど、飛沫の姿が消えたとたん、そんな自分の生活が急に殺風景に思えてきた。飛沫のいない空間。飛沫のいない時間。すべてをもてあましてしまったのだ。この際だから習い事でもしてみようかと探してみたところ、最寄りの町にあったのは英会話教室、ロシア語教室、それに少林寺|拳法《けんぽう》の道場だけ。十中八九、だれもがそうするであろうように、恭子は無難な英会話教室を選んだ。それだけのことだった。学校の授業じゃないんだから、億劫《おつくう》な日は休めばいいし、いやになったらやめればいい。  その程度の気持ちであったにもかかわらず、恭子は結果的に、週に一度のレッスンをほとんど休まず通うことになった。少人数でのグループレッスンは和気藹々《わきあいあい》として楽しかったし、なにより、マニュアル通りでないケンの教えかたが気に入ったのだ。  白い肌と黒い髪を持つケンは、アイルランド系の父親と日系の母親とのハーフだった。ロンドンの郊外で生まれ育ち、大学卒業後、自らのルーツをたどりに単身で来日。そのまましばらく腰をすえようと英会話講師の職を得て、もうすぐ二年になるという。「なぜこんな田舎に?」と尋ねてみたところ、「求人があったから。それに、日本を知るなら都会より田舎だと勧められた」とスローな英語が返ってきた。  ケンは日本語が堪能だが、普段は英語しか使わない。ごくプライベートな話をするときのみ日本語になる。恭子はケンが日本語を口にするたびに、少しばかり身構えた。彼が自分を気に入っていることを知っていたからだ。 「あなたの笑顔がすてきです」 「一緒にいると楽しいです」 「もっとそばにいたいです」  さすが外国育ち、彼は出会った当初からストレートな直球を恭子に送りつづけた。 「どうか恋人になってください」  そのたびに恭子ははっきりと拒絶した。 「できないわ」 「なぜ」 「あなたとは正反対の恋人がいるから」  ケンは基本的に紳士だったので、そう言うとしばらくはおとなしくなる。けれど数週間後には再びそろそろと接近を開始する。いっそ教室をやめるべきかもしれないと思いつつ、恭子はそれを先延ばしにしつづけた。ケンといる時間をどこかで楽しんでいる自分がいたからだ。  断じて恋ではなかった。ケンは穏和で屈折のない青年だったから、一緒にいるとたしかに心がなごんだ。ときどき教室の帰りに二人でご飯を食べたり、お酒を飲んだりすることもあった。飛沫とろくに話もできない日々の空虚さを、ケンで埋めていたところがなかったとも言いきれない。が、それはあくまで心の内側のこと。ケンとは体の交わりどころか手をつないだことさえもなかったのだから。 「恭子が恋人に操《みさお》を立ててるなんて!」  幾多の男と寝ては別れ、寝ては別れ……をくりかえしていたころの恭子を知っている友達は、ケンの話をするとこぞって目をまるくした。しかし、べつに恭子は操を立てているわけじゃなく、ただ単純に、飛沫以外の男と寝る気がしないだけだった。飛沫と寝るのが好きだったし、飛沫と目覚めるのも好きだった。戯《たわむ》れの夜をともにした男たちにはその後者が欠けていた。  自分には淫乱《いんらん》の血が流れているにちがいない、とかつての恭子は思っていた。まだ物心もつかない恭子を捨てて若い恋人に走った母親の血。母親ほど狂ってはいないつもりだが、セックスでしか満たされない何かをつねに自分の中に感じていた。  最初の相手は中二のときの担任の教師。恭子のほうから誘惑した。母親を狂わせたものの正体を早いうちに見破っておきたかったのだ。  なるほど、これか、と最初の夜にして開眼した。肉体の快楽が云々《うんぬん》というわけじゃない。そこにはもう肉体も必要ないほどに、ただただ濃厚な時間がたちこめていた。自分と、自分以外のだれか。その境界を溶かして心と心、命と命が直接|交《まじ》わりあうような。そんな時間がこの世に存在するなんて思いもしなかった。  ベッドの上で男は自分だけを見つめている。自分だけに触れ、自分だけにささやき、自分だけのために時として震える。その汗ばんだ肌に顔をうずめているとわけもなく泣けてきた。十四年待った甲斐《かい》があった。世界とつながる方法をやっと手に入れた。もう放すまい。この夜を。この濃厚な時間を。  相手はだれでもよかったけれど、一人の男とそんな時間を共有しすぎるのは危険な気がした。夜が明けると、だから恭子はまたちがう男へ目をむけた。そんな夜と朝のくりかえしの中で、やがて飛沫とめぐりあった。  飛沫との夜は最初からほかの男たちとまるでちがった。いつもの息づまるような濃厚さがそこにはなく、どこか淡くて、なのに妙に心地よい。そして驚いたことにその心地よさは夜を越え、朝になっても続いていた。  これは一体なんだろう。  なぜ彼だけはちがうのか。  それをたしかめたくて何度も飛沫と寝た。  気がつくと、「恭子が一人の男と一週間も!」と周りの友達が騒いでいた。  飛沫が恭子を切り立った断崖《だんがい》へとつれていったのは、さらにその一週間後のことだ。 「見せたいもんがある」 「なに?」 「たいしたもんじゃないよ。つーか、たいがいだれもが目を覆う」  網元の家に生まれた飛沫が危険な伝統を受けついでいることは人づてにきいていた。が、むきだしの上半身を風にさらし、断崖の尖端《せんたん》から水平線をにらむ飛沫を目のあたりにしたとき、恭子は初めて納得した。ああ、この子はきっとベッドの上でもこんな遠い目をしているのだろう、と。彼の祖父と父を呑《の》みこんだ海に縛られ、囚《とら》われて、焦がれている。  威圧され、声もなく立ちつくす恭子の目前で飛沫は波間へ身を投じ、濡《ぬ》れた体を再び崖《がけ》上に引きずってくるなり、問いかけた。 「目を覆ったか?」 「覆わないわよ」 「でも、おれから離れたくなった?」 「なぜ?」 「今までここに三人の女をつれてきた。三人全員にふられたよ。こんな危ないことをする男なんかとても見てらんない、って」  それはそうだ。こんな男とつきあってたら一時たりとも心が安まらない。しかも彼は一時たりとも自分一人を見てくれない。  三人の女たちに大いに賛同しながらも、 「あんたは見ててくれるか?」  飛沫に問われた瞬間、恭子は迷わずうなずいていた。 「見てるわ」 「飛込みをするおれも?」 「飛込みをするあんたもよ」  なぜなら、それはこの子が世界とつながる方法なのだから。  それ以来、恭子は濃厚な時間を捨てて飛沫一人とよりそい、飛込みに打ちこむ彼を応援してきた。朝も夜も愛しく思える相手とめぐりあえたことに感謝し、飛沫を宝物みたいに思ってきた。いつになるかはわからないけれど、飛沫が東京での生活に区切りをつけるまでは今の職場で働き、たまに習い事でもしながら彼の帰りを待とう。そして飛沫が帰ってきたら毎晩セックスして、結婚して、子供を産んで、船を買って、その日に釣れた一番おいしい魚を家族のみんなで食べよう。ずっとそう夢に描いてきた。  だからこそ、ケンの告白に心がゆらいだとき、その裏切りに最もショックを受けたのは恭子自身だった。 「来月、イギリスへ帰ることになった」  と、ケンは十二月の最初のレッスンのあと、恭子を喫茶店に誘って言ったのだ。 「あなたにも一緒に来てほしい。まずは二人で新しい生活をはじめて、軌道にのったら結婚したい」  イギリス。ケンとの結婚。浜辺の砂の一粒ほども思っていなかった未来だが、なぜだかそれをきいたとき、これまで吹いたことのない風が恭子の胸を吹きぬけるのを感じた。ごうごうとすさまじいうなりをあげて。  そのうなりにとまどい、意識を奪われていた恭子は、ケンにNOと言うタイミングをうっかり逃してしまった。 「大事なことだから、ゆっくり考えて」  ケンは誤解をしたようだ。来週こそははっきりと断らなければ。  しかし、その翌週も恭子はNOと言いそびれ、帰宅後、すっかり自分がわからなくなって文さんに泣きついた。  恭子は昔からめったに悩みを口にしない子だったが、どうしようもなく行きづまったときには文さんを頼った。どんな友達より、先生よりも祖母を高く買っていた。べつに文さんは高尚な思想をかかげているわけでも、とんちが働くわけでもなかったけれど、どんな悩みにも徹底してニュートラルな姿勢をつらぬくところが信頼できたし、なにより、彼女は現実主義者だったのだ。 「沖津の息子《せがれ》よかもいい男さ現れれば、そっちゃ選べばええべや。なもかもおめの気持づ次第だべ」  恭子の話をきいた文さんは言った。 「したばて、イギリスで暮らすんだば、男《おどご》に銭っこの世話だげば受げねほうがええべよ。遠《とぐ》い異国で身動きとれねぐなれば面倒だがらな。おめの親父《おやず》が送りつづげできた銭っこが、もう僅《わん》かで五百万さなるはで。それば持っていげばいいはんで」  かつて母親が家をでたあと、そのあとを追うように姿をくらませた父親から、月々いくらかの送金があることは恭子もきいていた。二年前まで町の呉服屋に勤めていた文さんが、意地でもその金に手をつけずにいたことも。 「文さん、そのお金は死んでも使わないんじゃなかったの?」 「私《わ》が死んでも使わねどなると、おめしか使う者はいねい。丸々《のつつど》、使ってまれじゃ」 「でも、文さんはいいの? 私が行ったら文さん、一人になっちゃうんだよ」  混乱する恭子に、文さんは悠然と笑ってみせた。 「私《わ》はこの村さもう何十年もいるんだじゃ。そごらば歩げば、いやでも話し相手さ行き会うし、こまったとぎは若衆《わげもの》ば呼べばいい。退屈《たいぐつ》せば友達《けやぐ》と昼飯《ひるまま》でも食うがら。えが、恭子。人は、そのどき周りさいる人間と家族さなればいいんだ」  おっとりと諭され、恭子は胸に刺すような痛みを覚えてうつむいた。そのとき周りにいる人間と家族になればいい。そう、文さんはきっとそうして生きてきたのだろう。恭子は実の両親に捨てられた。ずっとその事実を忘れずに生きてきたけれど、文さんもまた、実の息子と嫁に捨てられているのだ。そして恭子には頼りになる祖母が、文さんには頼りない孫が残された……。 「わかった」  再び口を開いたとき、恭子はある覚悟をかためていた。 「やっぱり行ってみる」 「イギリスさ行くんだが」 「ううん、まずは大阪に行く」 「大阪?」 「十九日に大阪で飛沫の試合があるの。オリンピック代表が決まる大事な選考会。文さん、一緒に行ってくれないかな」 「そごさ行げば答えっこ、でるんだか」 「でるような気もするし、でない気もする。どっちにしても飛沫に会わなきゃ何もはじまらないから」  文さんは沈黙し、思案顔で思いをめぐらせてから、「大阪万博ば、いづ終わってまったべか」とたった一言、つぶやいた。  大阪。  ひとまずの目的と猶予ができたことで、恭子は少し落ちついた。まずは飛沫と会ってから。それまでは英会話教室にも行かず、ガイドブックをながめたり、旅行用の服を買ったりしてすごせばいい。村を離れるのは高校の修学旅行以来で、恭子は少しばかり浮かれている自分に気がついた。  が、それもせいぜい三日前までのこと。大阪行きが迫ってくるにつれ、恭子は徐々に飛沫と会うのを恐れるようになった。  飛沫と会って、それでも答えがでなかったら?  思いもしないような答えがでてしまったら?  まさかとは思うけど、これが飛沫との最後になってしまったら?  飛行機の中で、ずっとどきどきしていた。文さんとたこ焼きを食べているときも、通天閣でスタンプを押しているときも、くいだおれ太郎と記念撮影をしているときも。どきどき。どきどき。こんな怖い目にあうくらいなら村にじっと閉じこもっていればよかったと後悔した。でも、それじゃだめだからここへ来たのだ。  飛沫と待ちあわせのファミレスへむかうあいだじゅう、どきどきしすぎて周りの景色がチカチカどぎつく見えた。  甘いものをとれば少しは落ちつくかとアイスティーにシロップをどぼどぼ入れたけど、血糖値が上がったせいかどきどきはいっそう勢いを増した。  一時間半、精も根も尽きはてるほどにどきどきどきどきしつづけた。  そして、飛沫が現れた。 「あの瞬間、あんなにどきどきしてたのが、嘘みたいに消えたの。飛沫の顔、ひとめ見ただけでわかっちゃった。すごく簡単なことだった。私が好きなのはやっぱり飛沫だけだって。ケンはいい人だけど、飛沫とは全然ちがう。哺乳類《ほにゆうるい》とシダ類くらいちがうって……」  運命の一戦は着々と進行し、すでに六巡目もなかばにさしかかっていた。だれかが成功するたび、あるいは失敗するたびに観客席はぴりりと緊迫する。しかし、飛沫の出番だけを待ちわびる恭子には、ほかの十一人の演技などじれったいだけだった。  だれかが台上に現れて飛び、水中へ没する。すると代わりのだれかがまた台上に現れて飛び、水中へ没する。一体それがなんだろう?  彼らの演技や得点を尻目《しりめ》に、恭子は切々と文さんに自分の思いを語った。 「でも、それなのにあのとき、ケンにイギリスへ行こうって言われて、たしかに気持ちがぐらついた。なんでだろう、なんでだろうって、昨日、飛沫と話をしながらずっと考えてたのね。で、別れてからも考えて、夜も寝ないで考えて、今、ここでも考えてて……やっと少しだけわかった気がする。私は、ケンじゃなくて、イギリスに惹《ひ》かれていたのかもしれない」  またべつの選手が台上へ現れ、水中へ没した。ジャッジが点数をつけ、電光掲示板にそれが記された。 「飛沫はああして自分の好きなことに打ちこんで、大きな舞台で輝いて、もしもこの試合に勝ってオリンピック代表になったら、ますます遠くへ行っちゃうわけだよね。引退なんて何年先かわからない。私はそのあいだずっと、じっと変わらずに待ってるだけ。ほんとにそれでいいのかなって……。もしかしたら私も飛沫みたいに知らない土地へ行ったり、知らない何かに出会ったりしてみたかったのかもしれない」  またべつの選手が台上へ現れ、水中へ没した。ジャッジが点数をつけ、電光掲示板にそれが記された。 「でね、さっきふと思ったの。もしも飛沫がこの試合に勝って、もっと大きな世界へ羽ばたくことになったら、私も思いきって知らない土地へ飛びだしてみようかな、って。どこへ行くとか、何をするとか、まだ決めてないよ。でも、とにかく勇気をだして羽ばたいてみたい」  また次の選手が台上へ現れた。  とたん、コンクリートの味気ない舞台は切り立った崖《がけ》と化し、場内に磯の香りがたちこめた。天井のライトは太陽に。足下のプールは荒海に。観客席の人類は魚介類に——。  一瞬のマジック。  こんなことができるのは一人しかいない。 「文さん。飛沫の番だよ」  ほんの一瞬、目線をわきへそらした恭子は、がちがちに硬直した文さんの顔を見て「ひっ」とおののいた。 「やだ、文さん。もしかして緊張してる?」 「んだば、なんぼなんでも、トップさなったどきげば、どったら者《もん》でも息呑《いきの》んで見る。ぺらぺらくっちゃべられるのは、おめぐらいだ」 「だって、私の未来が……」 「そだごとよりも、あの息子《せがれ》の試合だね」 「あ、動いた」  高々とそびえる断崖《だんがい》の絶壁。そのせりだした尖端《せんたん》へと飛沫が足を進めていく。今にも白波が打ちよせ、潮風がその波頭をなでて走り、遠い水平線から船の汽笛がきこえてきそうだった。  こうでなくっちゃ。  がぜん楽しくなってきた恭子の横で、文さんはお経でも唱えだしそうな緊張ぶりだ。 「大丈夫だよ、文さん」  後宙返り二回半抱え型。台の先端でまわれ右をしてスタンドに背をむけ、演技開始のモーションに入った飛沫を見つめたまま、恭子は文さんの掌に自分の手を重ねた。 「飛沫はね、文さんからもらったお守り、ちゃんと持ってたから。きっと守ってくれるよ」 「そっだらごとねべ」 「は?」 「あれは縁結びのお守りっこだべや」 「ひっ」  恭子が小さな悲鳴を上げた。  と同時に飛沫の分厚い背中がかたむき、足下で待ちうける水のきらめき——二十五メートル四方の大海原へと吸いこまれていった。  第六巡後の順位(累計)  ㈰沖津飛沫(357・3点)  ㈪山田篤彦(329・64点)  ㈫浅間孝(322・32点)  ㈬坂井知季(317・94点)  ㈭小川忍(299・73点)  ㈮松野清孝(297・42点)  ㈯辻利彦(277・89点)  ㉀丸山レイジ(269・22点)  ㈷富士谷要一(268・29点)  ㉂守谷一輝(267・48点)  ㉃鏑木進治(261・33点)  ㈹仲山政彦(254・76点) [#改ページ]   7…LINE 『シドニーへDIVE!! MDC』  応援の旗をにぎる手が、汗で湿って、なまぬるくなってきた。油性のインクをにじませた白地の旗。ちょうど給食のトレーくらいの大きさで、四隅には全然似ていない知季、要一、飛沫、レイジの似顔絵もついている。サポーターたるもの、何がなくても旗だけは用意せねばならない、と幸也が大阪へ発つ前日、ホームセンターで材料を調達してこしらえた力作だ。  片時も旗を手放そうとしない幸也のとなりでは、先程から敬介がしかつめらしい目つきで試合の経過を見すえていた。試合中の敬介はいつもこんな具合で、めったに口を開かない。代わりに夏陽子と大島がこれまでの経過について意見を交わしていた。 「六巡目が終わって、トモは四位のままか。山田の素質にはおれも一目置いてたけど、まさか浅間がここまで粘るとはな」 「持ち技の難度が高くて失敗率が低い。ベテランの強みよね。でも大丈夫、得点の上ではさほどの差はないわ。むしろあの若さで坂井くん、よくついていっている。それより……」 「それよりやばいのは飛沫だな。今のところは絶好調で嘘みたいに点が伸びてるけど、なにしろやつの最終種目は難易率1・6だ。10点満点をだしてもたったの48点だぜ。九巡目までに相当リードを広げておかなきゃ、600点はきついぞ」 「反対に、坂井くんの最終種目は難易率3・5の四回半。もしも10点満点をだしたら、それだけで105点が転がりこんでくる」 「10点満点なんて生まれてこのかた見たことないけどな。で、要一はどうだ?」 「読めないわ。彼の後半の難易率はハンパじゃないから、本来の調子がもどってくれば大逆転も夢ではないでしょうね。でも、今はまだ苦しみながらもがいてる。あの体で九位まで浮上してきただけでも、さすがだわ」  夏陽子は言いながら敬介の横顔をうかがった。例のインターバルのあと、観客席にもどった夏陽子が要一の高熱を報告したところ、敬介は「そうか」と一言つぶやいただけで、眉《まゆ》ひとつ動かそうとしなかった。知っていたのか? それとも感情を殺しているのか? 「ともかく、あと四本ね」 「あと四本か……」  夏陽子と大島が重くつぶやき、再び試合に集中する。  決勝戦の第七巡。舞台の上ではやや疲れを帯びてきた選手たちが、文字どおり、体を張っての熱戦をくりひろげていた。  MDCでこの回、すでに演技を終えているのは、トップバッターのレイジだけ。四巡目から突然なにかがふっきれたように、かつてない攻めの演技を連発してきたレイジだが、惜しくも今回は苦手な後宙返りで入水を派手にオーバーし、手痛い減点に泣かされた。それでも幸也は水から上がったレイジに、「レイくん!」と大きく旗をふりつづけた。  得点とか、順位とか、そういうことはコーチたちに任せればいい。この試合で幸也はただただ応援係に徹することに決めていた。だれが勝っても、だれが負けても、自分は最後まで力一杯、旗をふりつづけよう、と。  サポーターとは、よくわからないけど、きっとそういうものなのだ。  そもそも、高所恐怖症の自分がなぜ飛込みのクラブに通っているのか、幸也はいまだに腑《ふ》に落ちない。 「弱点は子供のうちから克服しておくにかぎるのよ」と鼻息を荒くした母親につれられて、初めて辰巳国際水泳場を訪れたのは小四のときだった。飛込みとはどんなものか話にはきいていたものの、あの高々とした飛込み台をあおいだ瞬間、幸也は腰をぬかしそうになった。  階段を上る必要も、プラットフォームに立つ必要もなかった。たった一目で、ほんの一瞬で、幸也には本能的にわかったのだ。もぐらに空が飛べないように、羊に狩りができないように、蛇に背中が掻《か》けないように、ぼくには飛込みができない、と。  しかし、無情なる母は言った。 「飛込みがだめなら、次はスカイダイビングね」  この一言が幸也にMDC入会を即決させた。  とはいえ、よく考えてみると、なんでも最初だけ威勢のいい母親は、二年目に入っても三メートル以上の台に上ろうとしない幸也のていたらくに、「やめたいならやめてもいいわよ」と、早々に匙《さじ》を投げていたのだった。「弱点っていうのは克服するものじゃなく、上手につきあっていくものかもしれないわねえ」なんて、今さらのように。  なのになぜ、これまで自分は四年間もMDCに通いつづけてきたのか?  それは幸也の十三年間の人生における三大不思議のひとつだった。  幸い、敬介は理解のある指導者で、いやがる幸也を無理やり台上へ引きずりあげたりはせず、鬼ごっこにおける「おまめ」のように見て見ぬふりをしてくれた。とはいえ、わざわざおまめになるために毎日、片道一時間もかけてプールに通う者はいない。  シンクロママさんウォッチングという趣味を見出したことにより、暇をもてあましていた練習時間がぐんと充実したのも事実だ。が、夏期の練習場である桜木高校のプールにはシンクロママさんの影も形もなかった。  練習に行けばMDCの仲間に会える、というのも当然あったけど、しかし年上の彼らは皆、幸也とはちがって練習に忙しく、さほど相手をしてくれるわけではなかった。幸也には彼らに話したいことや、相談したいことが山ほどあったのに。  そう、幸也はいつも兄貴分の彼らに話をきいてほしくてたまらなかった。  たとえば、小五の夏。幸也の通っていた小学校で幽霊騒動が相次いだことがあった。校内で起こるすべての事象が幽霊のしわざとされた数日間。だれかの机に染みが浮いていたら、それはその昔に自殺した女の涙。トイレの水が流れなければ、それはその昔に水死した男の怨念《おんねん》。そしてついに魔の手は幸也にも伸びてきた。授業中、窓から入ってきた虫が、不運にも幸也のつむじに止まったのだ。言うまでもなく、それはその昔、虫に殺された男の悪霊であり、「サッチンが悪霊にとりつかれた!」とみんなが机ごと離れていった。  その放課後、幸也は半べそで桜木高校のプールへむかった。これまで人間と動物と昆虫と、みんなで仲良く生きてきたのに、たった数日ですべてが見えないものたちに支配されてしまった。世界はいきなり変質し、幸也には複雑すぎる様相を呈《てい》してきた。「そんなの嘘だよ」と知季に言ってほしかった。「虫は虫だよ」とレイジに言ってほしかった。けれど幸也がそこへ到着したとき、彼らはすでに黙々と練習をはじめていて、とても幽霊の相談を持ちかけられる雰囲気ではなかった。  しかたなく、幸也はプールサイドにぺたんと腰かけ、皆の練習をながめていた。  七・五メートルの台から知季が飛ぶ。レイジが飛ぶ。陵が飛ぶ。そのたびに水しぶきが上がって西日に照らされる。十メートルの台から要一が飛ぶ。もっと高い水しぶきが上がって西日に照らされる。その絶え間ないくりかえし。やがて水面は夕日に赤々と映え、夏の匂いを抱いた薄闇に皆の影も抱かれていく。いつもの夏の一齣《ひとこま》。 「今日はここまで」と敬介が言ったとき、だれにも相談していないのに、なぜだか幸也はしんとした気持ちになっていた。大丈夫。この星は正しく回転してるし、ぼくは悪霊になんてとりつかれてない……。  小六の冬、幸也の両親が初めて目の前で大喧嘩《おおげんか》をしたときも、そうだった。  普段は仲のいい両親のあんなに激しい喧嘩は後にも先にも見たことがない。原因は、秋葉原の家電ショップに勤める父親と、同じく秋葉原でパソコンのインストラクターを務める母親の、互いに意固地な〈秋葉原観〉の不一致だった。 「じゃああなたは、商品のことを何も知らない素人は秋葉原に来るなっていうの?」 「来るなら来るで、それなりの武装をしてからかかってこい、って言ってるんだ。秋葉原は戦場なんだよ。売るほうも買うほうも、伸るか反るかの真剣勝負をしてるんだ。商品の質も型番も知らずに安くしろ、安くしろって、そんな甘えが通用するお子さまランドじゃないんだよ」 「でも、そうした素人の消費が秋葉原を支えている一面もあるのよ。彼らが足を運ばなくなったら、秋葉原は電気バカに占拠されてしまうわ」  互いに秋葉原を心から愛しているだけに、父親も母親も一歩もゆずらず、次の朝が来ても二人は顔をそむけあっていた。  どうしよう。二人はこのまま離婚してしまうのだろうか。秋葉原のせいで。その秋葉原もいつかどこかのバカに占拠されてしまうのか。  不安な気持ちで一日を終え、放課後、幸也は辰巳のプールをめざした。父と母と自分と妹と、これまで当たり前のように仲良く暮らしてきたけれど、それはいとも簡単に当たり前ではなくなってしまうものなのかもしれない。そんな気持ちをきいてほしかったけど、みんなはそれどころでないのがわかっていたので、おとなしく練習をながめていた。  十メートルの台から知季が飛ぶ。レイジが飛ぶ。陵が飛ぶ。そして要一が。そのたびに彼らの肢体《したい》は鮮明な、ゆるぎない垂直のラインを宙に刻みこむ。何度も、何度も。  練習が終わったとき、幸也はやはりしんとした気持ちになっていた。大丈夫。お父さんとお母さんは離婚をしないし、秋葉原だってだれにも奪われない。  最大のピンチに直面したのは今年の夏だった。人類の滅亡が予言されていた一九九九年の七月。今回はネタもとがあの有名なノストラダムスであり、対象が全人類に及ぶだけあって、危機感は学校や家庭内にとどまらず日本全国を網羅した。さすがに幸也もこのときばかりは、いくら皆の練習をながめたところで「大丈夫」との確信に至ることができなかった。  そこで練習後、ロッカー室で彼らを待ちうけてきいてみた。 「あのさ、みんな。ノストラダムスって、どう思う?」  知季は言った。 「だれそれ、アメリカ人?」  陵は言った。 「バカ、人類を滅ぼす大魔王のことだよ」  レイジは言った。 「ノストラダムスと大魔王は別の人でしょ」  要一は言った。 「大魔王って、人なのか。空から降ってくるんだろ? ふつうに考えると、自分がまっさきに滅びるな」  飛沫は言った。 「東京じゃそんなドラマが流行《はや》ってたのか」  幸也はもう二度と彼らに相談を持ちかけまい、と胸に刻んだ。と同時に、なんだかおびえていた自分がばかばかしくなって、家に帰りついたころにはノストラダムスも大魔王も怖くなくなっていた。  こうしてふりかえると本当に、世間の常識や流行にはうとい、陸の上では当てにならない兄貴分たちだった。でも、ひとたび水の上に立ったら、それはもういつだってかっこよくて、強くて、輝かしくて、勇気満々で、幸也の平和をみんなで守ってくれた。世界の軸《じく》が狂いそうになるたびに、十メートルの垂直なラインでもとどおりにしてくれた。  三大不思議のひとつは、だから本当はとっくに解明されているのかもしれない。  浅間孝の小柄な背中が水中に没して、旗をにぎる幸也の手に力がこもった。  MDCの兄貴分たちのうち、知季とレイジ、飛沫の三人は、今日の試合をまずまずの成績で戦っていた。幸也には演技の巧拙などわからないが、水しぶきの上がりかたとジャッジの点数、それに夏陽子と大島の話をきいていればだいたいの見当はつく。知季と飛沫は互角の好勝負。レイジもいつになく積極的なところを見せている。ただ一人……。  唯一、苦戦を強いられている要一が、再びドラゴンの頭上に姿を現した。  知季の名づけた飛込み台の別称、コンクリート・ドラゴン。生まれながらの才能と努力でこの奇獣を手なずけ、その頭上に王のごとく君臨してきた要一だが、心なしやら今日は足下の龍《りゆう》が荒れている。 「要一くん!」  大きく旗をふりかざしながらも、幸也は内心、不安でならなかった。  いつもみんなの先頭にいる兄貴中の兄貴。MDCの裏のボス。その要一がまさかこの大事な試合の当日に熱をだすなんて……。  うろたえてはいけない。もう小学生じゃないんだから泣いたりしちゃいけない。そう自分に言いきかせながらも、夏陽子からその事実をきいたとき、幸也はやはり泣きたくなった。  しかも、次の種目は難易率3・0のスーパーダイブだ。 「前宙返り三回半|蝦《えび》型。今の彼にはリスクの高い技ね」  エントリー表に目をやる夏陽子の表情も暗い。 「そうか? 蝦型はやつの十八番だぞ」 「でも彼はこの種目、助走をつけて飛ぶでしょう。問題はそこ。彼は助走中のリズムのとりかたがさほど得意ではないの。おまけに今日は高熱で勘を失ってる。もしも助走中にふらついてリズムを狂わせでもしたら……」 「一巻の終わりだな」  夏陽子と大島の会話をきいているうちに、幸也はますます泣きたくなってきた。  四年間、無言のうちに幸也を守ってくれた要一の、絶体絶命の大ピンチ。なのに自分は何もすることができない。それが歯痒《はがゆ》くて、くやしくて、情けなくて、鼻の奥がつんとなる。  どうか要一くんがぶじに演技を終えられますように。  やかましく騒ぎたてる幸也の鼓動が、どっくん、とひときわ高鳴った。演技開始のホイッスルが響いたのだ。  いち。にい。さん。  いつもはこのタイミングで飛びだす要一だが、今日はことのほか慎重で、なかなか足を動かそうとしない。プラットフォームの奥にたたずむ彼の、いつもはほれぼれするような立ち姿勢も、今は微妙にふらついている気がする。  しい。ごう。ろく。  伏し目がちに精神統一をする要一の肩が、また微妙にふらついた。幸也のとなりで敬介がこくんと息を呑《の》み、大島は見ていられずに目を伏せ、夏陽子は祈るように両手を組みあわせた。  しち。はち。きゅう……。  じゅう、と同時に、要一が駆けだした。  瞬間、幸也はとっさに立ちあがり、右手の旗を天井へ高々と突きあげていた。  ちっぽけな旗の柄が宙に刻む、精一杯の垂直なライン。  どうかどうか——。  この世界の軸がまっすぐに保たれますように。  第七巡後の順位(累計)  ㈰山田篤彦(403・59点)  ㈪沖津飛沫(403・41点)  ㈫浅間孝(381・72点)  ㈬小川忍(373・68点)  ㈭坂井知季(371・94点)  ㈮松野清孝(355・74点)  ㈯富士谷要一(342・99点)  ㉀辻利彦(342・57点)  ㈷守谷一輝(312・84点)  ㉂仲山政彦(309・48点)  ㉃丸山レイジ(307・02点)  ㈹鏑木進治(294・63点) [#改ページ]   8…PERFECT WHITE  ごく一瞬の、コンマ三秒程度の隙が波乱を招いた。集中力のとぎれがちな後半にはよくあることだが、さっきの七巡目で飛沫が痛恨のミスをした。  練習ではなんら問題のなかった前逆宙返り二回半蝦型。なのに蝦型から入水に移るタイミングが遅れ、最後まで体勢を制御しきれなかった。飛沫のふたつ前に演技を終え、プールサイドからそれを見上げていた要一は、宙高く砕け散ったスプラッシュのしずくを頬にひんやり受けとめた。  たいしたミスではない。恰幅《かつぷく》のいい飛沫でなかったら、さほどスプラッシュも上がらなかったかもしれない。が、ここへきてセービング技術の甘さもたたり、飛沫は断トツの一位から二位へと転落した。  代わって一位に躍りでたキャメル山田は、信じがたいことに、今日はめだったミスがない。ピンクだろうとらくだ色だろうと、人間はパンツ一丁でそうそう変われるものではないから、じきにいつもの大ポカをやらかすだろうとにらんでいたのだが、いまだ危なげのない演技を展開している。立ち居ふるまいにも疲れを感じさせず、薄気味の悪い存在だった。  続いて三位につけている浅間、それから四位の小川。この二人は最後までこの位置に居座るだろうと要一は読んでいる。むしろJSS宝塚の仲山あたりが試合を引っかきまわすかもしれないとなかば期待していたのだが、仲山は六巡目の前逆宙返りで両腕の構えが間に合わずに肩から水没、入水とも呼べないような醜態をさらして、一気に優勝争いからはじきだされた。  無難にやれば無難な結果に終わるし、冒険をすれば命とりになる。一筋縄ではいかない戦いの最中、要一はつねに試合の風向きやツキの波、ライバルたちの息づかいに至るまで、ぬかりなく神経を張りめぐらせている。  この選考会において、600点以上で優勝の可能性がまだ残されているのは、飛沫、キャメル、浅間、小川、知季、そして自分の六人くらいだろう。  この六人中、残す三種目の難易率が最も高いのは?  考えるまでもなく、このおれだ。  この六人中、最も体力を残しているのは?  一見、飛沫に見える。が、やつは腰に爆弾を抱えている。年齢や基礎体力、昨夜の睡眠時間など(飛沫は昨夜、例の彼女に会っていたという噂だ)、トータルで見ると知季あたりが一番元気なのではないか。知季の体力は北京における合同合宿でも証明済みである。  この六人中、最も勝利への執念が強いのは?  このおれだ、とだれもが思っているだろう。高熱を押して飛びつづける自分も当然その一人だが、さっきのインターバルでフロリダ行きの話が浮上したとたん、にわかに風向きが変わるのを感じた。執念の強さは同等でも、勢いは飛沫にあるかもしれない。  この六人中、最もツキに恵まれているのは?  今日のところは知季か、キャメルか。知季には予選からの波があるし、キャメルは今、追い風にのっている。  この六人中、最もキャリアが長いのは?  最もプレッシャーに強いのは?  最もコーチに恵まれているのは?  頭の働きは正常で、絶えず形勢を見通していた。だれがどれくらい有利で、だれがどれくらい不利なのか。油断なく観察し、分析し、戦略を立てる。なのに……。  ドラゴンの足下で八巡目の出番を待ちながら、要一は猛烈な悪寒にぞくりと身を震わせた。  なのに、頭の機能は正常でも、体の機能が正常に働いてくれない。  息が熱い。なのにひどく寒い。喉《のど》が渇く。でも水を飲むと吐きそうになる。体はだるくて重く、まるで錘《おもり》でも抱いて飛んでいるみたいだ。  こんな状態でよく前宙返り三回半|蝦《えび》型を飛べた、と自分でも思う。さっきの七巡目、演技の寸前までは足下がぐらついて、世界が二つにも三つにもゆがんで見えていた。けれどほんの一瞬、それがクリアに重なって、その機を逃さず飛びだした。空中での回転は体が覚えている。  結果はジャッジが教えてくれた。  7点。9点。8点。8点。8・5点。9点。8点……。  要一にとってこの日、初の9点が電光掲示板に点灯した。  が、しかしあまりにも遅すぎる。  残す演技はあと三つ。そのたった三回で600点を超えるには、ジャッジの全員が要一の全演技に9点をあげつづけても、まだ足りないほどなのだ。  はたしてこの体でそんなことが可能なのだろうか? 「逆転が不可能だなんて片時も思ったことありませんから」  さっき夏陽子へうそぶいた言葉がむなしく耳をかすめていく。  自分がくずれれば、みんなが動揺する。みんなの前ではあくまで平静を保たなければならない。この期に及んでもなお、MDCのリーダーであろうとしている自分が、要一にはうざったくも滑稽《こつけい》でもあった。 「要はスイッチの問題だ」  どこにスイッチがあるんだよ。 「今、戦闘モードをONにした」  おれの嫌いな精神論じゃねーか。 「フロリダの話をきいて、こっちまでやる気がでてきたよ」  やる気だけで勝てるなら敗者は存在しない。  本音を言えば、こうだった。 「もういやだ。なにもかも投げだしたい。このままここで寝ていたい」  正直、今も全身がベッドを渇望している。あの白いシーツ。やわらかな布団。暖かな毛布。強烈な誘惑だ。あそこに体を横たえたらどんなに楽だろう。ふらつく足で立つことをやめたら。階段を上ることを、飛ぶことをやめたら。冷えきった体を水中へぶちこむことをやめたら。せめて髪が乾いたら。  やめたいことをやめ、あのベッドで安らぐ。なにもかも忘れ、とろけるような眠りに身をゆだねる。それだけで自分はすべての苦しみから解放されるのだ。一瞬のうちに。完全に。  けれどもそれを選ぶわけにはいかなかった。  なぜなら、思うぞんぶん眠り、ベッドの上で目覚めたとき、自分はすべてを失っているだろうから。  一瞬のうちに。完全に。すべてを。  そもそも昨夜の練習がすべての元凶なのだと、じつのところ、要一はとっくに認めていた。  試合の前夜に体を痛めつけてもいいことなんかひとつもない。まったく夏陽子の言うとおりだ。軽率で、無意味で、頭の悪すぎる愚行だった。  なのに気が動転し、暴走する自分を止められなかった。  別段、演技の仕上がりに自信がないわけではなかったのだ。いや、むしろ自信満々だった。SSスペシャル'99。敬介は絶対に不可能と言いきったその技を、自分はたったの二週間で可能にしてみせたのだから。  新しい種目を獲得する。その秘訣《ひけつ》は「できるまで練習する」の一語に尽きる。が、しかし今回のSSスペシャル'99 にかぎっては、それだけでは足りないこともわかっていた。だからこそ夏陽子の助けが必要だった。  ポイントは、恐怖心の克服。要一はすでに二回半を蝦型でまわる技術を体得している。前宙返り二回半蝦型。後宙返り二回半蝦型。どちらも得意種目だ。なのに前逆宙返りになると体が萎縮《いしゆく》してしまうのは、過去の事故の記憶を引きずっているせいにちがいない。夏陽子もそれを指摘し、「前逆宙返りは怖くない」と理屈ぬきに体が信じこむまで、何度でも要一に前逆宙返りを飛ばせた。  最初の一日目は、ただの前逆飛込み伸び型のみを五メートルの台から、延々と。二日目は前逆宙返りの抱え型を、三日目はその蝦型を、同じ高さから。四日目は一回半抱え型を、七・五メートルから。五日目はその蝦型を、同じ高さから。六日目は二回半抱え型を、十メートルから。  ついに二回半蝦型——SSスペシャル'99 の練習に入ったときには、試合まであと一週間を残すばかりになっていた。さすがにあせりに駆られたものの、しかし要一は飛込み台の頂《いただき》に立ったとき、自分の体がこれから挑む前逆宙返りを恐れていないことに気がついた。  それ以降は、夏陽子の怒声がとどろく中、ただただ新種目の練習にのみ明け暮れた。そして大阪入りから二日目、要一はついにその技をノー・スプラッシュで飛ぶことに成功したのだった。  当然、体は疲れきっていた。抵抗力が弱まり、風邪の初期症状が顔をだしはじめているのも気づいていた。が、試合前はいつだって疲労がたまっているものだし、風邪くらいなら緊張感で追い払える。なにより今は一刻も早く、この新しい技を、新しい自分を皆に見せつけてやりたかった。  心の高ぶりは、しかし昨日、六甲山で知季がある一言を口にした瞬間に消滅した。 「MDCは、おれたちが守るから。だからコーチは失業の心配なんてしなくていいからね」  大島に対する知季らしい心づかい。べつになんてこともない一言だった。  なのに、グリーンサラダしか通していない要一の喉に、なぜだかそのとき、いくつもの小骨が刺さったような感触が焼きついた。  小骨はその後、レイジから夏陽子のMDC退職を知らされたことによって、さらに倍増した。  喉だけじゃない。食道にも、胃にも、内臓にも。至るところにチクチクと小骨が刺さって、片時も気が安まらない。  SSスペシャル'99 は完成した。積年のトラウマは克服され、自尊心は満たされた。自分に関してはパーフェクトだった。が、何か肝心なことを忘れていた気がした。  レイジの部屋をあとにした要一は、その何かを探すように敬介の宿泊するシングルルームへと足をむけた。夜、時間があったら顔をだすようにと言われていたのだ。  敬介は薄暗い机にむかって原稿を書いていた。大方、日水連の会報にでも寄稿するのだろう。床上のサイドライトに淡く照らされた室内は、要一と知季のツインルームよりもひとまわり小さく、そのせいかエアコンの暖気がやけにこもっていた。 「今日は日本晴れの行楽日和だった」  戸口の前に立ちつくしていた要一に、敬介は原稿の続きでも口述するように言った。 「は?」 「どうだったかね、神戸は」 「はあ」 「大いに息ぬきができたかな」 「まあ」  従来、そりの合わないこの父子の関係は、要一がオリンピックの代表権を返上して以来、険悪の一途をたどっていた。日水連に意見するなど、敬介にとってはお上《かみ》に逆らうも同然なのだ。おまけに要一はMDCの命綱をにぎるミズキ社長の逆鱗《げきりん》にも触れている。敬介は要一と顔を合わせるたび、その不遜《ふそん》さを瞳《ひとみ》で責めつづけた。あげく、SSスペシャル'99 にまで異を唱えだし、頑として引かない要一とさらなるバトルを展開。大阪入りをしてからは、さすがの敬介も態度を軟化させたものの、こうして二人きりになるのは初めてだった。  一体、なんの用だろう?  机のわきに身をかがめ、黒革の旅行|鞄《かばん》を探る敬介に、要一は怪訝《けげん》なまなざしをむけた。  いくら不遜な息子でも、一応はMDCのエースであり、明日の優勝候補だ。この人も時には父親らしい餞《はなむけ》の言葉を贈ったり、知恵をさずけたりしたくなるのだろうか?  しかし、ふりむいた敬介は右手に旧式のカメラを、左手にフィルムをにぎっていた。 「なんすか、それ」 「日水連の広報部から、なみはやドームを撮ってきてほしいと頼まれた。どうも機械は苦手でな」  どうやら、カメラにフィルムを入れてくれ、と言いたいらしい。  要一は苦笑し、手早くフィルムをセットした。そしてカメラを敬介に返しながら「じゃ」と腰を上げかけて、再びもとへもどした。今もちくちくと内臓をいたぶる小骨が、彼をその場に引きとめた。 「もしも……」  再び原稿へむきなおった敬介の横顔に、思いきって問いかけた。 「もしも明日の選考会の結果、MDCが閉鎖ってことになったら、あなたはどうするんですか?」  敬介は一瞬だけ万年筆を休めた。 「小樽《おたる》の大学から、教員として迎え入れたいという話が来ている」 「小樽?」  道内で飛込みのさかんな大学などきいたことがない。 「小樽で飛込みを教えるんですか」 「いや、国際スポーツ学の講義だ」 「国際スポーツ学?」 「MDCはミズキの元会長が奮闘し、あふれるような情熱と私財をそそぎこんで築かれたクラブだ。私の力不足で閉鎖に追いやるからには、それなりの責任のとりかたがある」 「どういう意味ですか」 「老兵は消え去るのみ。それだけのことだよ」  小骨が鋭い針となり、要一の体内を駆けめぐった。  なぜ、どこがこんなに痛いのかわからない。 「まさか……飛込みのコーチをやめる気とか?」  返事はない。 「そんな、飛込みをやめるなんて、そんな……」  言いたいことは山のようにあった。なのに気がつくと、一番ふもとの小石を拾って投げていた。 「そんな、カメラにフィルムも入れられないくせに」 「母さんにゆっくり教えてもらうとするよ」  敬介は目元に渋い笑いじわを刻んだ。 「どのみち私の指導法は古かった。君はそれに気づいていただろう。幸い、私がぬけてもMDCには麻木コーチと大島コーチがいる。たとえMDCの名が消えようと、トレーニングセンターがなくなろうと、辰巳や桜木高校のダイビングプールまで消えうせることはない。君たちが情熱を絶やさないかぎり、だれも君たちから飛込みを奪えない。心配することはないよ」  いや、ちがう。明日の試合が終わったら、麻木夏陽子はアメリカへ帰るんだ。おれたちのだれかが600点以上で優勝しないかぎり、あんたが必死こいて守ろうとしてきたMDCは、名実ともに失われるんだ。おれがシドニーの代表権を返上したばかりに。  そう大声でぶつけていたら、案外、それで気がすんだかもしれない。  けれど要一はぶつけず、いつものように胸に押しこめたまま、無言で敬介の部屋を去った。自分の部屋へもどると知季はすでに寝息をたてていて、その規則的な息づかいになぜだか逆に鼓動を乱され、気がつくとナイロンバッグを抱えてホテルのプールへ急いでいた。途中でレイジと出くわしたのも、じつは憶えていない。頭が混乱して、ひどく気が急《せ》いて、自分が何をしているのかもわかっていなかった。  わからないまま、温水プールでかかりの練習をくりかえした。飛びだしのフォームとタイミングの練習。フォームやタイミングを冷静に見極める判断力を失いながらも、ただただ闇雲に、立ち止まって考えることを拒むためだけに体を動かしつづけた。  もしも明日、MDCの中から600点以上で優勝する者が現れなかったら——。  MDCは事実上の空中分解を余儀なくされ、クラブの皆は行き場をなくす。  MDCの創設に心血をそそいだ故ミズキ会長の遺志は泡と化し、日本飛込み界はまたひとつ、貴重な若手育成の場を失う。  そして、これまでの人生のすべて、朝から晩まで、元旦《がんたん》から大晦日《おおみそか》までのすべてを飛込みに捧げてきた父親は、水の一滴もない乾いた教壇で余生を送ることとなる。  そんな恐ろしいことを考えるくらいなら、針と化した小骨がナイフと化し、自らの肉を切り裂いていくように、疲弊した体にとどめを刺しつづけるほうがマシだった。  バカなことをした。  そう我に返ったのは、ぐったりとした体を引きずって部屋へもどり、知季の寝顔を見たときだった。  知季は安らかに眠っていた。とても気持ちよさそうに。明日の試合が楽しみでならないといった顔をして。そこにはどんな影もなく、ただシドニーへのまっすぐな夢だけがぴかぴか光っていた。  くずれるほどの後悔が、そのとき、要一を襲った。  MDCの窮地を知った今、自分がしなければならなかったのは、その場しのぎの衝動に身を任せることではなかった。知季みたいに安らかな顔をして、意地でも、すやすやと眠ることだった。明日の試合のために力を温存しておくことだった。シドニーへのまっすぐな夢を、何があっても曇らせないことだった。  バカなことをした……。  虚脱し、床に頭を押しあてた要一の中で、ナイフは針にもどり、針は小骨にもどり、小骨はくだけて無にもどった。  けれど要一にはもはや、さっきまでの自分にもどることはできなかった。  すでに弱りはてた体が熱を帯び、背中を悪寒が走っていた。  八巡目の二人目、守谷が演技を終えた。続く三人目は、辻利彦。辻はこの回も五メートルの台から飛ぶようだ。  そろそろまた階段を上らなければ。あの十メートルの高みまで自分を持ちあげていかなければ。正常に機能する要一の頭が、正常に機能しない体を急きたてる。わかってる、わかってる。飛ぶためには、まず上る。それが物の道理だ。が、いかんせん足が動かない。直立さえもおぼつかないのに、なおかつ、この足を動かすなんて。上へ上へと絶え間なく動かしつづけるなんて。そのくせ、下りはほんの一瞬でジ・エンド。すべての努力が報われるのも一瞬なら、泡になるのも一瞬。なんてはかないゲームだろう。だれがこんな競技に手をだしたんだ? おれだ。そう、おれがこの手をあの夏の日に。初めて桜木高校の飛込み台から飛んだ。小二の夏。あれでいちころだった。一発で参った。初めて親父がおれを見てくれたあの日。その後は飛込み漬けの毎日。希望も失望もみんな水の上。陸のすべてを失ったってかまわなかった。友達。食事。恋。勉強。部活。休日。失えば失うほどシンプルに研ぎすまされていく自分がいた。体ひとつで脇目もふらずに突き進んだ。前へ。前へ。前へ。でも、もういいか。少しくらい休んだっていいじゃないか。麻木夏陽子はアメリカへ帰らないとわかった。万が一、MDCの名が消えても、あの理想的なケツが日本から消えることはない。知季も飛沫も飛躍的に成長した。日本飛込み界の前途は洋々だ。だからもうコアラはあきらめて、小樽でキタキツネと戯《たわむ》れるのも一興かもしれない……。 「富士谷」  外側からの耳慣れぬ声に、内の声がひそまった。  要一はぼんやり顔を上げ、天井からふりそそぐ白い粒子に目を細めた。その光のつぶつぶを背に、昔ながらの馴染《なじ》みの顔——なのにほとんど口をきいたこともない男がこちらをのぞいている。 「もうすぐ出番だ。行こうぜ」  ピンキー……もとい、キャメル山田だった。  要一は耳を疑った。キャメルとは昔から反目し、うとんじあってきた仲だ。どちらもめだちたがりやで、一番でなければ気がすまない性分で、けれどキャメルはおちゃらけ系で、要一はむっつり系だった。互いに互いの表現法が気にくわなかった。 「時間がないって。ほら、行くぞ」  再び強くうながされ、要一はとっさに言い返した。 「むりだ。先に行ってくれ」 「そうしたいのは山々だけどさ、おれの出番、おまえのあとなんだよ。おまえが飛ばなきゃ、おれも飛べないわけ」 「ぬかして飛べよ」 「そうは問屋がおろさない」  キャメルはふふんと鼻を鳴らした。 「せっかくのメモリアルデーなんだからさ、ラストまでばっちりエンジョイさせてくれよ」 「は?」 「おまえとはおれ、これまで数えきれないほど対決してきたよな。けど、予選でおまえに勝ったの、今日が初めてなの。決勝のビッグステージで生まれて初めておまえのあとに飛ぶ。この優越感を最後まで味わいたいってわけよ」  要一は頭を抱えた。 「早く行け。あんたまで失格になるぞ」 「いやだ。予選四位通過のおれは、予選五位通過の富士谷要一のあとに飛ぶ権利がある」 「くそ、バカがまた一人……」 「おまえに言われたかないよ」  キャメルはさらりと言い返した。 「もともとこの選考会は、一人のバカがオリンピックの内定を蹴《け》ったおかげで実現したもんだろ。一度はどっかの会議室でにぎりつぶされた夢を、もう一度、おれたちのフィールドで奪いあえる。それだけでもうOKじゃん。おれは、おまえのあとに飛ぶ。おまえが飛ばないなら、おれも家に帰ってテレビでも観ながら寝るよ」  軽くて重いその声に、要一は再び視線を持ちあげた。天井のライトにも目が慣れて、ぼやけていた場内が再び輪郭をなしてきた。 「ピンキー……」 「その呼びかたはやめてくれ。おまえのおかげでおれも一から出直す気になったんだ。今日からは新生、らくだ山田だ」 「せめてキャメルって言えよ」 「キャラメル色じゃなくて、らくだ色だ!」 「……」 「どうした?」 「本物のバカがいた……」  二人が言い合っているあいだにも、辻が、鏑木が演技を終えて、刻々と要一の出番が近づいてくる。  頭は痛い。体は重い。足はだるい。でも……と要一は全身の声に耳をかたむけた。頭の天辺《てつぺん》から爪先まで、ほんのひとにぎりの余力さえ残っていないわけでもなさそうだ。小二のときから約十年、こんなときのために底力をたくわえてきた。探せ。きっとどこかにある。その蓋《ふた》を開ける鍵《かぎ》がある。 「どうするよ、富士谷」  キャメルが要一の肩に手をかけた。 「おまえが階段を上らないなら、おれも上らない。ノープロブレムだ。たぶん沖津も坂井も丸山も、おまえをぬいては上らないだろうよ」  言われて後ろをふりかえると、たしかにそこには知季の、飛沫の、レイジの険しい顔がある。要一を見つめ、探り、どうすべきかと思いあぐねている瞳《ひとみ》。人の心配をしてる場合でもあるまいに。  そう思った瞬間、反射的に足が動きだしていた。  右足を段にのせ、ぐ、と腰を持ちあげる。また左足を段にのせ、ぐ、と腰を持ちあげる。その地道なくりかえし。やってみれば単純なことだった。あいつらに見られてる。その気配だけで最初の五段くらいは勢いこんでいける。我ながら恐るべき自意識だ。  が、六段目からは、自分だけの勝負だ。 「行けるか?」  階下からキャメルの声がする。ああ、こうなったらもう、行くしかない、口にださずに要一は答える。この体ひとつ、這《は》ってでも上まで引きずっていくしかない。陸から離れた瞬間、ダイバーはすべての支えを失って丸裸になる。だれの手も借りず、無防備な素足でそれぞれの孤独を、それぞれの夢を運んでいく。曲がりくねった急|勾配《こうばい》の花道。ようやく頂上へたどりついたら、今度は休む間もなく台上へ引きだされ、観客やジャッジのさらし者。むきだしの頂には隠れ場も逃げ場も存在しない。肩に背負ったその孤独が、その夢が重すぎるなら、逃れる道はただひとつ。眼下の水へ突っこむだけ。つくづく過酷なゲームだ。そして壮快なゲームだ。緊張。恐怖。高揚。重圧。そのすべてがなんのさえぎりもなく、直接、肌へ突き刺さる。それに勝つ者と負ける者。そこで輝ける者と翳《かげ》る者。自らをコントロールしきれる者としそこなう者。すべてがくっきり分かたれる。なんてわかりやすくてすがすがしいんだろう。そう、おれはこの過酷で壮快なゲームが大好きだった。ガキのころからほれこんでた。このぎりぎりの崖《がけ》っぷち。しびれるほどの孤立感。その極限で自分を表現し、寸分の狂いもないラインで観衆を圧する快感。ああ、考えるだけでわくわくする。やっぱりどうかしていた。高熱くらいでオリンピックを投げだすなんてばかげてた。ぎりぎりの崖っぷちから転落しそうになったとき、最後の最後にものを言うのは正常な頭でも体でもない。いつの日か芽生え、ここまで自分を導いてきた本能であるのを忘れていた。地を離れ、宙を求めて、水へ還《かえ》る。この本能を前にして、頭痛が、めまいが、ふらつく足がなんだろう。行ける。まだ行ける。あの白いライトにもっと近づける。視界が真っ白になるくらい。雪。そう、おれはこの手で自分の雪を降らせるんだ。プールもドラゴンもスタンドも白一色に埋めつくす雪を——。  ドラゴンの頭上へ到達したとき、寒気に震えていた要一の体は武者震いをはじめていた。  早く飛びたい。  水に抱かれたい。  演技開始のホイッスルが待ちきれない。  逸《はや》る心にかきたてられ、要一は今か今かとその時を待ちわびる。  たとえ一・四秒後、このテンションがまたふりだしにもどっていようとも……。  第八巡後の順位(累計)  ㈰沖津飛沫(476・49点)  ㈪山田篤彦(456・24点)  ㈫浅間孝(447・96点)  ㈬坂井知季(435・69点)  ㈭富士谷要一(426・51点)  ㈮松野清孝(407・82点)  ㈯小川忍(407・34点)  ㉀辻利彦(393・57点)  ㈷仲山政彦(373・83点)  ㉂丸山レイジ(355・98点)  ㉃守谷一輝(351・72点)  ㈹鏑木進治(337・47点) [#改ページ]   9…RETURN GAME  舞台へ立った選手がその本質を虚空にきらめかせるのは、試合の終盤からだ。  試合の序盤、次々と舞っては沈む選手たちは、必ずしもそこに素顔をさらしているわけではない。幾重にも鎧《よろい》をまとって武装し、ジャッジや観客、ライバルたちの目を意識した上で、「こう見せたい自分」を演じている。一回、二回ともぐりこむ水に武装を溶かされ、その素顔をのぞかせてくるのは試合の中盤から。消耗し、言うことをきかなくなっていく体に、結果にとらわれていく頭。おぼろに浮かぶ最終順位を前に、選手たちは終盤、おもしろいほどはっきりとふたつのタイプに分かれる。  消極的な演技で守りに入るタイプと、あくまで積極的に攻めていくタイプ。  自分の教え子たちが皆、その後者に属していることに、敬介は内心、大いに誇りを感じていた。  あまりの積極性に見ているほうがハラハラし、息をつく間もないほどだ。  試合も大づめを迎えた八巡目。階段を上る足どりも心許なかった要一は、もはや限界かと思いきや、難物の後踏切前宙返り三回半抱え型をノーミスでクリア。陸上でふらついていた体がなぜ空中のトップフォームでぴたりと静止するのか、敬介に首をひねらせながらも83・52点もの高得点をマークした。  続く飛沫も後踏切前宙返り二回半|蝦《えび》型でスケール感のある演技を見せつけ、土壇場に強い大物ぶりを発揮。73・08点を加算して再びトップへ返り咲いた。  ラストの知季が挑んだ種目も、やはり第四群の後踏切前宙返り二回半抱え型。知季は踏みきりの高さでまず観衆を引きつけ、回転の速さでうならせ、入水角度もぴたりと決めた。しかし、技自体の難易率の低さが響いて前の二人には及ばず、63・75点の加点に終わった。  ひとまず三人ともぶじに成功し、「600点以上で優勝」への夢をつないだことになる。  が、ほっとする間もなく、台上には早くも九巡目のトップバッターであるレイジが姿を現していた。  午前中の予選をぎりぎりで通過したレイジは、やはり技術の差から徐々に後退し、すでに優勝への夢も消えている。が、それでも普段に比べれば、彼は今日、この息づまる本番で驚くほど意欲的な姿勢を見せていた。これまでは階段を上るときですら、ちまちまと足下を気にしていたレイジが、まっすぐ上をむいている。それだけでも敬介の胸は熱いもので満たされた。  入賞できるかできないか。最終的に何位に終わるのか。選手自身にとってそれは大きな問題だろうが、コーチたる者、順位のような相対評価には流されず、個人個人の絶対評価を心がけるべきだと敬介は思っている。  数字には記されない個々の活躍を見すごさないこと。  四人いるなら四人、十人いるなら十人、それぞれの「今」に応じた評価を下すこと。  すなわち、公平であること。  その確固たる信念のもとにレイジの演技を凝視し、爪の先が完全に水面下へ隠れるまで見届けたあと、ようやく敬介はほっと肩の力をゆるめた。  と同時に、夏陽子をはさんだふたつとなりの席から、大島が声をかけてきた。 「富士谷コーチ、富士谷コーチ」  その声が敬介の耳に届くまで少々時間がかかったのは、あちらも佳境を迎えたメインプールの観客席が、また一段とざわめきを増していたからだ。応援団のエール。熱狂的な拍手。入場行進の音楽に、選手紹介のマイクエコー。その派手派手しい入場行進中、プラットフォームに立つはめになった選手は不運としか言いようがない。 「富士谷コーチ!」  三度目の呼び声で、ようやく気がついた。  ふりむくと、大島はわざわざ身をのりだし、もったいぶった忍び声で敬介にささやいた。 「あそこのあの、一階席の真ん中あたりに、おばあさんと女の子の後ろ姿がありますよね。さっき飛沫がトップに立ったのを見て、抱きあってた二人……」 「ああ」 「あれ、飛沫のコレですよ」  大島の立てた小指を眼前に、敬介は無表情のまま眉間《みけん》に深いしわだけを刻んだ。  同じ日体大出の後輩でもある大島は、裏表のない良い男だが、少しばかり辛抱のきかないところがある。試合が山場を迎えるにつれ、深まるシリアスなムードに耐えきれなくなるらしく、ときおり、意味もなく軽率な言動へ走るのだ。 「君と同室のその沖津くんだが」と、敬介はいくばくかのいましめをこめて言った。「昨夜はそのお嬢さんと外で会っていたそうだね」  大島は露骨に「しまった」という顔をした。 「いやあの、短時間なら問題ないかと……その、肉体関係にも重々注意を与えておきましたし。でも、なんでそれを?」 「君がその口をすべらせたせいだろう」 「あ」 「キジも鳴かずば撃たれまいものを」  大島が赤面し、大きな体を小さくすくませる。  こうなると敬介は少々気の毒になり、「ところで」と、試合中にしてはめずらしく自分から声をかけた。 「トモの応援には、ヒロくんと交際中のお嬢さんも来ているそうだな」 「ああ、トモの元彼女ですね」 「いや、ヒロくんの恋人だろう」 「でも、トモの元彼女なんです」 「いやいや、ヒロくんの……」 「以前は坂井くんの彼女で」と、夏陽子が割って入った。「今は弟さんの彼女なんです」  敬介は混乱した。 「それは、同一人物なのか」 「ええ。早い話が、横恋慕です」 「はあ。しかし、あのトモにまで恋人がいたとは……」 「近頃の中学生ですもの」 「いやしかし、それにしても……」  口ごもる敬介の眉間にさらなるしわが刻まれていく。 「それにしても、レイジにはいないだろう」 「は?」 「いやその、恋人だが」 「ええ、丸山くんはいないと思いますけど」  いぶかしげに答える夏陽子に、敬介はほっと眉間の力をゆるめた。  大島が追いうちをかけたのは、その直後だった。 「でも、レイジのやつ、ラブレターもらったことあるんですよ」 「なに?」 「中一のときだったかな。あいつ、ウブで返事も書けなかったくせして、今でもその手紙、大事に持ち歩いちゃって……。やっぱ青春ってうるわしいっすねえ」  敬介はもはや口を開かず、二本の指で眉間をこすりながら心を鎮めようとした。  たいしたことではない。なにを動揺する必要があるものか。  飛沫に大阪まで応援に駆けつける恋人がいようとも、知季に色めいた思い出があろうとも、レイジが大事なラブレターを持ち歩いていようとも、それはそれ。たとえ要一だけがその手の色事とは無縁の、うるわしくない青春を送ってきたとしても、MDCのヘッドコーチである自分が、我が息子にのみ特別な肩入れをする理由にはなりはしない。  敬介は脊柱《せきちゆう》に気合いを入れなおし、しゃんと飛込み台へむきなおった。  あくまでも公平。私はこの信念を最後の最後までつらぬいてみせる、と——。  そもそも敬介に今朝、飛沫の恋人の話をしたのは知季だった。  偶然、もたらされた時間の招いた会話の所産とも言える。  朝食はミーティングを兼ねて七時より。一階のレストランに全員集合。そう念を押しておいたにもかかわらず、敬介が朝、時間どおりにレストランへおもむいたとき、テーブルについていたのは知季と大島だけだった。 「要一くんとサッチンは寝坊、沖津くんは目覚めのシャワーを浴びてるところで、レイジと麻木コーチもまだ支度中だって」  知季の説明をきくまでもなく、そんなことだろうとピンときた。  要一が寝すごすのは稀《まれ》だが、飛沫と幸也の目覚めの悪さは毎度のこと。レイジは支度に時間がかかるし、夏陽子はメイクに時間がかかる。五分ほど待ってみたものの、依然としてだれも現れないため、大島が皆を呼び集めてくることになった。  テーブルに残されたのは敬介と、知季と、二人の運んできたビュッフェの皿だけ。知季はすでにがつがつとオムレツやソーセージをほおばっていた。試合前には小食になる者もいるが、知季の食べっぷりはいつ見ても気持ちがいい。 「昨夜は、よく眠れたか」  焼きのりで白米を包みながら敬介が尋ねると、知季は「うん」とフレンチトーストを飲みこんで笑った。 「知らないうちに寝てた。たぶん要一くんが毛布をかけてくれたんだと思うよ」 「そうか。たっぷり寝たなら、体調は万全だな」 「まあね。昨日は神戸でのんびりしたし、なんとなく調子はよさそうだよ」 「神戸はよかったか?」 「うん。水《すい》餃子《ギヨーザ》おいしかったし、夜景も見られたし、神戸はよかった。ほんと、神戸まではよかったんだけどなあ。あのあとレイジが麻木コーチの……あ」  知季がはたと口をつぐんだ。 「どうした?」 「ううん、べつに」 「麻木コーチがどうした?」 「なんでもない」  知季はバナナを口に押しこみ、栓をしたように黙りこんだ。  十四歳になったのか。  と、敬介が感じるのはこんなときだ。  敬介の教え子たちは、大抵、小学校の低学年でMDCに入会する。最初のうちは屈託なく、なんでもぺらぺらとよく話すのに、小四あたりから話すことと話さないことを区別するようになる。中学生になると飛込み以外の話はもはやほとんど口にしない。若手のコーチになら打ちあけられることも、はるかに年の離れたヘッドコーチには言いづらいようだ。 「トモ」  小二の知季。MDCに入会したばかりのぽかんとした姿を思いだしたら、知らずしらず口が動いていた。 「君には悪いことをしたと思っているよ」 「え。なにが?」 「君の才能を見抜いてやれんかった」 「は?」 「いや、見抜いてはいたが、伸ばしてやれんかった。君の動体視力と柔軟性……五年も見てきたのに、結局、開花させてやれんかったな。麻木コーチのもとでみるみる伸びていく君を見て、すまないことをしたといつも思っていた」  知季はしばし絶句し、それから静かにフォークをおろして、「なにそれ」と口をとがらせた。 「そんなこと言ったら、おれが富士谷コーチや中西コーチに教わった五年間が無駄だったみたいじゃない」 「いや、無駄とまでは言っておらんが」 「あたりまえだよ。今のおれは……うまく言えないけど、今までのぜんぶなんだから」 「ぜんぶ?」 「うん。おれには元オリンピック選手の両親もいないし、幻の天才ダイバーとか言われるおじいちゃんもいない。でも、ふつうの家族がいつもいた。父さんがいて、母さんがいて、ヒロがいた。MDCに行けば要一くんがいて、レイジがいて、サッチンがいて、陵がいて、沖津くんがいた。それからもちろん富士谷コーチがいて、大島コーチがいて、中西コーチがいた。中西コーチがいなくなってからは、麻木コーチがいた。そんなみんながいて、空や山や川みたいにいつもいて、十四年間のぜんぶがぴったり合わさって、今のおれがいる。最近、よくそんなふうに思うんだよね」 「……」 「学校の友達には年よりくさいとか言われるけど、でもほんとに思う。一人でも足りなかったら、ぴったり合わさらなかったって」 「……」 「ほんとだよ」 「わかってるよ」  神妙にうなずいてみせながらも、敬介は内心、ぞくりとした思いに駆られていた。ああ、この子は今後も留まることなく成長していくだろう、と。  知季はまっさらな子だ。ある意味、空疎ともいえる。しかし、だからこそ多くのものを受け入れ、自らの中にたくわえていく余地がある。友も、家族も、指導者も、空も山も川も、彼をとりまくすべてを吸収し、未来を切り開く力に変えていける。この先も知季は出会うもの、見るもの、触れるもののすべてをエネルギーに変えて、どこまでも羽ばたいていくだろう。  反対に、飛沫の中にはすでに一寸の余地もないほど多くのものがつまっている。先祖代々の血。祖父のなしえなかった夢。その祖父と父の死。残された母と二人の妹。いずれは帰郷する津軽の村社会。通常ならば重圧となってしかるべきそれらを、しかし飛沫は原動力として、爆発的なパワーをはじきだす。何かを抱えこめば抱えこむほどに、彼は今後もますます凄味《すごみ》を増していくだろう。  そして、要一は——。 「あのさ、富士谷コーチ」  考えにふけっていた敬介に、そのとき、知季がおずおずと切りだした。 「こういうの、よけいなお世話かもしんないけど、でもなんか気になるから言っちゃうけど……」 「なんだ?」 「富士谷コーチ、今日は要一くんだけを応援してもいいと思うよ」 「なに?」 「さっき大島コーチが言ってたけど、今日の試合、沖津くんの彼女が応援に来るんだって。昨夜も会ってたらしくて、ぼくも津軽で会ったことあるけど、ものすごくきれいな人なんだよね。で、おれにはヒロが応援に来てくれる。ものすごくかわいい彼女と一緒にさ。でも、要一くんの身内は、富士谷コーチだけじゃん」 「……」 「オリンピックのかかった大事な試合だし、要一くんすごくがんばってきたし、今日だけは富士谷コーチ、要一くんだけを応援してあげてもいいんじゃないかな」 「……」 「やっぱよけいなお世話?」  いや……と首をふったきり、敬介は次の言葉に窮して押し黙った。  コーチとして教え子の一人を特別視することはできない。私を信頼し、大事な子供を預けてくれたご両親に報いるためにも、君たち全員に平等に目を行きわたらせる責任がある。理屈はいくらでも浮かんでくる。が、知季が求めているのは恐らくそんな答えじゃない。 「要一は……」と、やがて敬介はしゃがれ声でつぶやいた。「私が応援したところで、要一の力にはならんよ」 「なんで?」 「そうした因果な星の下に生まれた選手がいる」  知季は両目をしばたたき、きょとんと小首をひねらせた。どんなに言葉を尽くしたところで、恐らく知季にはわからないだろう。知季のように外部のすべてをエネルギーにしていくことも、飛沫のように内部のすべてをエネルギーにしていくこともできない選手がいることを。  つねに自らを追いこみ、孤独の淵《ふち》のぎりぎりのところに立って、初めて力を発揮する。  そんな星の下に生まれた選手を理解できるのは、恐らく同類の者だけなのだ。  この子にはどこかしら自分と似たところがある。  敬介が要一の幼年期にあえて飛込みを教えなかった理由は、その一語に尽きた。  融通のきかない頑固さ。プライドの高さ。背負わなくてもいい荷を背負い、わざわざ茨《いばら》の道を行く酔狂《すいきよう》さ。  今でこそ、指導者としての歳月を経てほどよく枯れてきたものの、敬介は若い時分、まさにそんな性分の選手だった。何をするにもいちいち考えては立ちどまり、納得しなければ一歩も先へは進めない。納得がいかないとなるとコーチにも平気で突っかかる。ライバルたちにも大口をたたいては自らを追いこみ、その大口を誠とするため練習に心血をそそぎこむ。  まさしく今の要一のようだ。  当時はこれが自分だ、何が悪いかと居直っていたものの、しかし時を経た今、一歩も二歩も距離を置いたコーチとしての目には、やはりその手の選手は損な性分として痛ましく映った。知季のように皆に愛され、かわいがられ、それをエネルギーにして伸びていくほうがどんなにいいかわからない。  できるならば要一にもそんな道を行かせてやりたかった。MDCのリーダーという立場を与えることで、彼の社会性を育《はぐく》もうともした。要一が前原会長に直訴をしたときも、内心、起こるべくして起こったことだと思いつつ、組織に逆らう不遜《ふそん》さをうるさく言ってきかせた。  けれどもやはり要一は自分の息子なのだと、敬介はどこかで観念していたところがある。この因果な星の下に生まれてしまったからには、現役であるかぎり自らの業《ごう》を背負いつづけるしかないのだ、と。  ただひとつ救いがあるとしたら、それは要一が自分よりも格段に優れた才を宿していたことだ。一九七二年のミュンヘン五輪に出場し、あっさりと予選で敗退した富士谷敬介。今では指導者としての名が勝っている自分とはちがい、要一には世界でも通用する資質がある。  桜木高校の教員をしていた当時、七歳の要一を初めて飛込み部のダイビングプールへ連れていった。妻の不在のためにやむをえず同伴したのだが、要一がどんな反応を示すのか一抹の興味もあった。もしも関心を示したら、一メートルのかかり台から飛ばせてみるのもいいか。けれどその必要はなかった。敬介が目を離した隙に、要一はたかたかと五メートルの台へ上がっていた。  はっと気づいて目をやったときには、すでに八月の青空の下に舞っていた。  見事なダイブだった。  あの瞬間、この子の才を封じることはできないと、早くも敬介は観念していたのかもしれない。けれど表立っては賛成も反対もせず、飛込みのことは要一の自主性に任せる形をとりつづけた。  そんな曖昧《あいまい》な態度が許されなくなったのは、敬介が桜木高校からMDCへと引きぬかれたときだ。 「ミズキの新設するダイビングクラブの主任コーチとして来てもらえませんか」  故ミズキ会長直々の誘いを受けること自体に迷いはなかった。現役引退から十数年、桜木高校で飛込みを教えてきた敬介は、その仕事にやりがいと充実を覚える一方、つねに抜本的な問題を抱えていた。日本飛込み界を担《にな》う選手を本気で育てるには、高校からでは遅すぎる。子供時代からの長い年月をかけた修練が不可欠条件なのだ。そのための機関の乏しさを憂えていた敬介にとって、MDCの創設はまさに願ったりかなったりの話だった。  迷ったのは、要一をどうするか、だ。  当時、要一はまだ十歳。飛込みに夢中になってはいたものの、それ以外の可能性も残されていた。今ならまだ茨の道から引き返せる。この段階で要一をMDCに入会させるのは、彼の人生を決定的に方向づけてしまうようでためらわれた。  そしてまた、自分の性格上、もしも要一をMDCに入れたら、今後は父と子としてよりもコーチと選手としての関係を優先させてしまうことも目に見えていた。息子にのみ偏《かたよ》った情をそそいではいけない。そんな自制心が必要以上に要一との距離を広げていくことも。  迷いに迷った末、敬介がついにあきらめの境地に至ったのは、ある土曜の夜だった。飛込み体験教室の半日ボランティアを終えて帰宅した敬介が、入浴後に居間で晩酌をしていると、薄いのれんを隔てた台所から妻と息子の話し声がきこえてきた。 「今日は学校で何があったの?」 「先生が『走れメロス』を読んでくれた」 「あら、懐かしい。どうだった?」 「まあ、メロスの作戦勝ちだよね」 「え……どうして?」 「だってメロスはさ、早めに出発してふつうに走ってれば、余裕で間に合って、らくらく友達を助けられたわけじゃない。でも、妹の結婚パーティーを楽しんだり、のんきに眠ったり、鼻歌を歌いながら歩いたりするもんだから、最後にあわてることになったんでしょ。あれは絶対、作戦だと思うんだよね」 「作戦?」 「うん。余裕じゃきっとダメなんだ。もっとぎりぎりの、間一髪の、もう絶体絶命ってくらいになんなきゃ、メロスは燃えないんだよ」  その数分後、居間の食卓についた要一に、敬介は力なくMDCの話を切りだした。  入会の意志を確認するまでもなく、要一は瞳《ひとみ》を輝かせた。  その後の展開は予期したとおり、敬介は要一の父親である以前にコーチとなって、もともと母親任せだった要一との関係はますます他人行儀なものとなった。初めのうちはどうしたものかと頭を悩ませもしたが、今では互いにコーチと選手の関係が板につき、へんな具合に落ちついている。  MDCのヘッドコーチを務めた七年間、敬介が父としての顔を露呈しかけたのは、二度だけだった。  一度目は、要一が小五の春、前逆宙返りに失敗して頭部に傷を負ったとき。  二度目は、その忌まわしい前逆宙返りの新種目を、要一がこの選考会のラストで飛ぶと知ったときだ。  一度目はMDC開設からまだ半年たらずの時期だったため、飛込みをはじめて間もない子供たちに恐怖心を植えつけてはならないとの一心から、取り乱しそうになる自分を懸命に抑えた。  が、二度目は抑えきれずに少々取り乱し、種目については夏陽子に一任していたにもかかわらず、気がつくと要一に新種目など不可能だの非常識だのとわめきちらしていた。翌日には大人げないことをしたと恥じ、あの事故のトラウマをだれより引きずっているのは自分かもしれないと反省したのだが。  しかし、どちらにしても寿命の縮む試合はこれで見納め。そう思えばいくばくかのなぐさめにはなった。  この試合の結果、MDCが存続しようと閉鎖に追いこまれようと、敬介はヘッドコーチを退くことを決意していたのだ。  MDCは水城真之介《みずきしんのすけ》が構想し、奔走し、実現にこぎつけたクラブだ。その要《かなめ》役であるヘッドコーチの座を、真之介の孫娘である夏陽子にゆずり渡すのに、なんのためらいもあるわけがなかった。夏陽子は稀《まれ》にみる天才肌のコーチであり、若いながらもゆるぎない信念を持っている。加えて、あの強気。まだ本人には話していないものの、夏陽子にならば教え子たちをゆだねられると敬介は安心していた。  そして敬介自身は退任後、MDCに新設予定の成人コースへの転任を考えていた。  たとえ閉鎖をまぬかれたとしても、MDCの赤字経営は続く。その打開策の一環として、幅広い年齢層に趣味としての飛込みを教えてみてはどうだろう、との案が持ちあがっていたのだ。今はまだ構想の段階だが、もし実現した暁には、敬介はその成人コースの専任コーチを買ってでるつもりでいた。  桜木高校では育ちざかりの高校生たちに飛込みを教えた。MDCではこれから育つ子供たちに飛込みを教えた。そろそろ勝った負けたの表舞台からは離れ、別の角度から飛込みとつきあってもいい時期だ。それもまた飛込み界の裾野《すその》を広げるひとつの方法だし、正直、かわいい教え子たちが勝負の世界で苦しむ姿ももう見たくなかった。  無論、選考会の結果いかんでは、成人コースどころかMDC自体が消滅する可能性もある。その場合は、もっと話が早かった。敬介は責任をとって飛込み界を去り、小樽の大学で教鞭《きようべん》をとる覚悟を決めていた。富士谷敬介から飛込みをとったら何が残るのか? だれもが口をそろえるのは目に見えているが、敬介自身、それをたしかめたくもあったのだ。飛込みをとった自分に何が残るのか。何を失い、何を引きずって、次は何をめざすのか。  どちらにせよ、敬介が教え子たちの試合に直接かかわるのは、このオリンピック代表選考会が最後だった。 「あとで、時間があったら私の部屋へ来なさい」  昨夜、神戸帰りの要一に思わず声をかけたのは、最後の日を前に知らずしらず心が高ぶっていたせいだろうか。試合終了まではよけいなことを語らず、すべてを一人の胸に秘めておくつもりでいたのに、なぜあんなことを口走ったのか自分でもわからない。  来いと言ってはみたものの、何を話せばいいのやら。落ちつかない気分で『精神修業——心で舞うために』なる原稿をしたためていると、九時をまわったあたりでノックの音が響いた。敬介はペンを置き、要一を部屋に迎え入れた。 「明日の一戦を迎えるにあたり、最後にこれだけは言っておきたい。明日、だれが優勝し、だれがシドニーへ行くことになろうと、それはほんの序章にすぎないということだ。富士谷要一。沖津飛沫。坂井知季。三人ともにたぐいまれなる資質をそなえたダイバーだ。が、いかんせんまだ若い。君たちの戦いはシドニーのあともまだまだ続いていく。今回、勝ったとしても、それは最初の一歩にすぎない。今回、負けたとしても、この先いくらでも挽回《ばんかい》の余地はある。どうか広い目で未来をとらえ、今後も三人で切磋琢磨《せつさたくま》しあいながら、世界の頂点へとともに精進してほしい。そしてできるなら水の外では、互いに互いを支えあう良き友でいてほしい」  そう言って旅行|鞄《かばん》から三本の矢をとりだし、「折ってみろ。折れぬだろ。一本では弱くても、三本なら強い」なんてことを自分はやりたかったのかもしれない、と敬介は思う。  しかし、もちろん旅行鞄に三本の矢などは仕込んでおらず、何をどう言ったものかとあせりに駆られた指先がつかみあげたのは、カメラとフィルムだった。 「日水連の広報部から、なみはやドームを撮ってきてほしいと頼まれた。どうも機械は苦手でな」  父としての復帰戦はまだはじまったばかりだ。  メインプールから再びけたたましい音楽が鳴り渡り、両手を突きあげた競泳選手の一団が入場してきた。男子四×百メートルのメドレーリレー。最終種目とあって、応援団もここぞとばかりに身をのりだし、さかんに鳴りものを響かせている。  その最中にプラットフォームへ上がった松野は、場内の雰囲気に呑《の》まれたまま飛び急ぎ、ミスを恐れた小さな演技で低得点に甘んじた。  続く浅間もひねりの演技で両足が割れ、いまひとつふるわず。  いやなムードのたちこめる中、ついに、再び要一が台上へ姿を現した。  すらりと長い手足に、均整のとれた肉体美。一目で観衆をとらえるその外貌《がいぼう》はいつものとおりだが、よく見ると要一の顔色はすぐれず、瞳だけが異様にぎらついている。  要一が体調をくずしていることは、夏陽子に知らされるまでもなく敬介も気づいていた。今朝、レストランに遅れて現れた要一を一目見ただけでわかった。ああ、また自分を追いつめたのか、と。ぎりぎりの縁から暗い谷底をのぞくような目をしていた。  あんな状態で最後まで飛べるのか。  あるいは途中で失墜するのか。  どちらにしても自分はコーチとして、ここから最後まで見届けるほかはない。教え子の一人がオリンピックへのラストチャンスに賭《か》ける姿を、冷静に、公平に。  九巡目のエントリー種目は逆立ち後宙返り三回抱え型。  MDCの全員が目をこらす中、演技開始のホイッスルが鳴った。  要一が大きく息を吸い、目線を下へかたむける。続いて額からゆっくり頭を垂らし、下半身の安定を保ちつつ腰を折る。柔軟性に富んだしなやかな動き。そのまま上半身をかがめ、同時に台の先端へと両手をさしのべていく。 「法政大学が日本新記録を樹立しました!」  メインプールから華々しいファンファーレが鳴り渡ったのは、要一の指先が台へ触れようとするまさに直前だった。 「おめでとうございます、男子四×百メートルメドレーリレーのベストレコードです!」  たちまち場内は割れんばかりの喝采《かつさい》に包まれ、メインプールのスタンドは総立ちで拍手。プールサイドで抱きあう四人の選手にむかい、応援団も我を忘れて叫声を響かせる。まるでオリンピックの金メダルでも手に入れたかのようだ。  一瞬にして大きなうねりに呑みこまれたドーム。  その騒然たるメインプールとは対照的に、ダイビングプールは物音ひとつせず静まり返っていた。  敬介も、夏陽子も、大島も、幸也も、階段で順番を待つ選手たちも、ジャッジも、そして台上の要一も、だれもが呆然《ぼうぜん》と対岸の祭りをながめていた。  もしもそのとき、ホイッスルの音が鳴り渡らなければ、だれもが永遠にその場で凍りついていたかもしれない。 「おい、まずいぞ」  真っ先に我に返ったのは大島だった。  審判委員長の鳴らした二度目のホイッスル。それは、台上でためらう選手への警告を意味する。選手はこの警告から一分以内に演技を開始しなければ0点となる。  敬介の、夏陽子の、大島の顔に緊迫が走った。  が、当の要一はドラゴンの頭上で糸の切れた人形のようにたたずんだまま。さっきまでぎらついていた瞳《ひとみ》はうつろに宙をさまよい、足下は頼りなくぐらついている。迷う時間はない。躊躇《ちゆうちよ》の余地はない。今すぐ逆立ちをはじめなければ最下位まで転落だ。なのに要一はぴくりともその体を動かそうとしない。  十秒が経過した。  要一は動かない。  夏陽子の額に汗が浮いた。  二十秒が経過した。  要一は動かない。  旗をにぎる幸也の瞳に涙の粒が浮いた。  三十秒が経過した。  要一は動かない。  法政大学の応援団が校歌を合唱しはじめた。  四十秒が経過しようとしていた。  依然として要一は動こうとしない。  敬介が動いたのは、そのときだった。 「やめろ、歌ってる場合じゃないんだ、うちの息子が飛ぶんだ!」  突如、仁王のごとく直立した敬介の怒号に、応援団の合唱がぴたりとやんだ。夜の砂漠なみの沈黙に覆われた場内で、砂嵐のような視線が四方八方から敬介に突き刺さる。  夏陽子は真紅の唇をぽかんと開けたまま閉じるのを忘れていた。その横で大島は息をするのを忘れていた。応援を忘れた幸也の指からすべりおちた旗がこつんとつむじに当たった。けれど敬介はそんなものは何も見てやしなかった。  敬介の瞳はただ、遠い台上の要一が二本の腕でその体を、茨《いばら》を踏みしめた足を持ちあげていく姿だけを一心に追っていた。  十メートルの高みで完璧《かんぺき》な九十度を描く、不動の倒立を。  その不屈の意志と力を。 「あ」  観衆がようやく視線を台上へもどしたとき、すでに要一の体は地を離れ、水上に華麗な弧をきらめかせていた。  その体が音もなく水中へ吸いこまれて初めて、敬介はかくん、と椅子の上にくずれた。  第九巡後の順位(累計)  ㈰沖津飛沫(552・09点)  ㈪山田篤彦(519・24点)  ㈫富士谷要一(514・83点)  ㈬坂井知季(510・45点)  ㈭浅間孝(493・71点)  ㈮小川忍(473・58点)  ㈯松野清孝(451・74点)  ㉀辻利彦(447・03点)  ㈷仲山政彦(425・91点)  ㉂守谷一輝(408・27点)  ㉃丸山レイジ(405・48点)  ㈹鏑木進治(359・31点) [#改ページ]   10…FINAL STAGE▼YOICHI  クリアだ——。  ついに最後の一本。運命のコアラは果たしてだれにほほえみかけるのか、泣いても笑ってもこの十本目で勝負の行方が決定する。  最終決戦のステージへのりこんでいく要一の頭は、燃えたぎるような高熱に浮かされながらも、恐ろしいほど明瞭《めいりよう》に澄みわたっていた。  やっとここまで来た。なんとか這《は》いあがった。しかも自分にはまだ、このぎりぎりの十本目で600点を狙う楽しみが残されている。  九巡目の終わった段階で、600点への望みをつないでいたのは、要一、飛沫、知季、そしてキャメルの四人のみ。最終種目の難易率からして、浅間や小川はたとえ満点をだしたところで夢かなわず、実際、すでに十本目を飛んだ彼らの総合得点は600点を大きく下回っていた。  これまでに全演技を終了した各選手の、今の時点での順位は以下のとおりだ。  一位、浅間孝(547・47点)。  二位、小川忍(513・18点)。  三位、辻利彦(504・15点)。  四位、松野清孝(491・74点)。  五位、丸山レイジ(453・09点)。  六位、守谷一輝(452・82点)。  七位、鏑木進治(382・83点)。  ここに、残す五選手の結果をはめこみ、最終的な順位が確定する。  この大舞台で二人の大学生に打ち勝ったレイジは、すでにプールサイドの片隅でクラゲのようにへたりこんでいた。今はまだ実感がわかないのだろう。が、やがては喜びがこみあげ、続いてくやしさがこみあげるはずだ。その喜びとくやしさが選手を次なる舞台へと駆りたてていく。  SSスペシャル'99。自ら命名までしたこの最終種目を終えたとき、要一は喜びのみを噛《か》みしめることができるのか。それともくやしさのあまり一段と熱が上がるのか。  600点に必要なのは、あと85・17点。難易率2・9の種目でこの得点をだすのが至難《しなん》の業《わざ》であることは、要一も重々承知していた。  でも、もうそんなことはどうでもいい。  重要なのは今、自分がここにいること。  ここにいる自分に納得していること。  ——なんだか完璧だ。  まだ演技もしていないうちから、要一は早くもマイ・コアラを胸に抱いているような、かつてない幸福感に満ちたりていた。  演技開始のホイッスルのあと、いち、にい、さん……のリズムで飛びださず、ゆっくりと十秒数えたのは、その幸福感を手放すのが忍びなかったからだ。  高々とそびえるコンクリート・ドラゴン。そこに立った全員の汗を、熱を、震えを受けとめてきた母なる龍《りゆう》の頂に両足を預け、要一はいつになくじっくりと場内を見渡した。祭りの引けたメインプールでは、早くもスタッフたちが後片づけをはじめている。スタンドも潮が引いたようにがらんとなり、さっきまでの喧噪《けんそう》が悪い冗談のようだ。はなから静かなダイビングプールのスタンドには、夏に津軽で顔を合わせた恭子が応援に来ている。知季の弟の弘也と、噂の元彼女もつれだって来ている。後ろのほうにはあいかわらず挑発的な目をした前原会長もいる。小さな旗をまっすぐに突き立てた幸也が、そわそわと身じろぎをする大島が、いつものようにかたく両手を組みあわせた夏陽子がいる。それから、苦虫を噛みつぶしたような顔をした父、富士谷敬介が——。  思いだすとつい、口元がにやけた。さっきの九巡目、まさかあの父があんなことをやらかすなんて思いもよらなかった。本人にとっても不測の事態だったのか、演技を終えて水からあがった要一が目をやると、彼はまるで炎のジローのように真っ赤な顔をうつむけていた。  なんだか笑えた。一人でウケた。けれど笑いながら、ウケながら、喉《のど》の奥がつまって、熱くなって、何かじわじわしたものがこみあげてきて、全力でそれをこらえていた。  その余熱を胸に最後の戦いに臨む要一に、もはや怖いものなどなにひとつなかった。  熱も。  悪寒も。  頭痛も。  ともすれば遠のく意識も。  事故のトラウマも。  すべてが降りしきる雪に覆われて、真っ白な、さらさらの過去になる。  SSスペシャル'99。  今ならきっと、完璧《かんぺき》に飛べる——。  視線を固定し、あごを引き、全身の筋肉を瞬時にチェックする。僧帽筋。大胸筋。腹直筋。上腕筋。肘筋。指伸筋。大殿筋。大腱直筋。内側広筋。中様筋。スタンバイOK。  よし行け、と脳がそのすみずみまで指令を渡らせ、要一の足を突き動かして、宙高くはねあげる。きっかり四十五度の方向へ。重心は踵《かかと》から爪先へ。「前へ」飛びながら「後ろへ」回転をかけるという矛盾に耐え、全筋肉が練習どおりの動きで寸分の狂いもないトップフォームを象《かたど》ったとき、要一の脳裏に去来していたのはこれまでの血でも汗でもなく、なぜだか母親の気のぬけた声だった。  予選終了後の昼休み、あまりのしんどさに決勝戦の棄権さえ考えていた要一の携帯に入った、一本の電話——。  もしもし、要一? あなた、何かあったの? ええ、さっきお父さんから電話があってね、なんだか様子がおかしかったものだから。どうってその、メロスがどうのって……だからその、メロスは結局、間に合ったのかどうかって、怖い声で……そう、あのメロスでしょうね。私、よく憶えてないけど、とにかく最後まで走ったのはたしかよって言ったの。そしたらお父さん、そうか、最後まで走ったか、ならいいんだって……そう、ならいいんだ、いいんだって、何回も……。  微塵《みじん》もひざを割らず、完璧な二回半|蝦《えび》型で観衆の目を釘《くぎ》づけにした要一は、九十度の角度でぴしゃりと入水を決め、そこで力はてた。 [#改ページ]   10…FINAL STAGE▼SHIBUKI  あまりにも卓越した何かを目のあたりにしたとき、人はそれを表現する手段を奪われ、無防備な虚をあらわにする。文字どおりの完璧な前逆宙返りをやってのけた要一が水面下へ消えたあと、場内は一種、異様な沈黙に包まれた。  しかし、それはほんの数秒のこと。十数秒後にはにわかにスタンドがどよめき、運営スタッフまでもが色めきたった。  時速六十キロの肉塊を受け入れても、なおも静かに凪《な》いでいた水面。その静寂はあまりに深すぎ、そして長すぎたのだ。  たしかに今、目の前で入水したはずの要一が、いつまでたっても浮かびあがってこない。  ドラゴンの首で出番を待っていた飛沫も、一瞬、「死んだか!?」と顔の色を失った。が、スタッフの一人がプールへ飛びこもうとした寸前、要一はようやく自力で水から顔をだし、今にも溺《おぼ》れそうなフォームでなんとかプールサイドまでたどりついた。  即刻、二人のスタッフに両脇から抱えられるようにして救護室へと運ばれた。もはや足下もおぼつかない要一は、それでも電光掲示板の映しだした得点を、その目のすみでとらえていたのを飛沫は知っている。なぜなら、よろよろと退場していく道すがら、要一はスタンドのある一点にむかい、すっと親指を突き立てたからだ。  10点。  9・5点。  10点。  10点。  9・5点。  9・5点。  10点。  合計85・26点。  総合得点600・09点。  力のかぎりを尽くした要一の健闘を讃えていたスタンドの拍手が、その瞬間、祝福の喝采《かつさい》に変わった。すでに出番を終え、夢にやぶれた選手たちでさえ、ドラゴンの足下から惜しみない拍手を送っている。  その余韻も冷めやらぬ中、プラットフォームへと足を進めたキャメルの後方で、飛沫はドームに満ちる熱い潮にその身をひたしていた。  かつてプールを嫌悪していた自分に、知季はこう言った。飛沫の「最高」が海にあるように、自分たちの「最高」はプールにあるのだ、と。当時は皆目《かいもく》見当もつかなかったその「最高」が、今、飛沫の目の前で波濤《はとう》のようにくだけて、盛大なしぶきを上げている。  たしかに、こんな興奮は海にはなかった。  ライバルの演技に感動することも、嫉妬《しつと》することも、奮起することも。  競いあうことの苦しみも、楽しみも、なんともいえない味わい深さも。  一人では決して味わえないそれらを胸に、もしかしたらこれで最後になるかもしれない演技の出番を待つ飛沫の耳に、そのとき、スタンドからの拍手と、それに続くため息のさざ波がきこえた。得意の後宙返り一回半二回半ひねり自由型で最後まで見せ場を作りながらも、キャメルは惜しくも600点には至らなかったようだ。電光掲示板には総合得点578・04点という非情な数字が灯《とも》っている。  十中八九、自分も数秒後には同じ非情にさらされていることだろう、と飛沫は覚悟を決めていた。これまでのところ、飛沫の合計得点は552・09点。自ら買ってでた勝負とはいえ、難易率1・6の最終種目では、もはや満点でもださないかぎり600点の壁をやぶることはできない。  けれど数字には表せない何かをこの会場に、MDCのみんなに、そして恭子の瞳《ひとみ》に刻みつけることならできるだろう。  そのための個性だ。  そのための沖津の血だ。  そのためのスワンダイブだ——。  十分な助走の距離を置いてプラットフォームに立ったとき、飛沫の腰は実際のところ、もはや限界を超えていた。さっきから階段を踏みしめるたび、切り裂くような痛みが全身を駆けぬける。が、シベリアから日本までをわずか数日で渡りきる白鳥も、その美しい翼の下に無数の傷を負っているにちがいない。  飛沫は軽く目を閉じ、十文字町で見たあの飛翔《ひしよう》を思い起こした。  黄昏《たそがれ》の空を潤す際やかなシルエット。  力強く。そして美しく。  あの生命の輝きを、この腕で、この足で、この全身で呼び起こすために——。  ホイッスルの音とともに、飛沫は果敢な鳥となって飛び立った。プラットフォームの先端までの数秒間。この一瞬だけは陸のしがらみから解き放たれ、生きている人間も死んでいる人間もはるか彼方《かなた》へ遠ざかる。だれかの夢も。愛も。希望も。絶望も。痛みも。すべてを陸に置き残し、台の先にぽっかり口を空けた虚空へ、自分一人の魂をぶちこんでいく。大きく広げた両腕の爪の先まで神経を通わせ、繊細に。そして雄大に。夕暮れの空に焼きつけるようなトップフォーム。  決まった! そう心で叫んだ次の瞬間、飛沫の体はのびやかなカーブを描きながら急降下。近づきすぎた天井のライトにくらんでいた瞳は、早くも迫りくる水面をとらえていた。そして……。  シュッ、とノー・スプラッシュ特有の音を立てて水を切ったその刹那《せつな》、飛沫はすべてをやり遂《と》げた達成感の中で、再び大地と結びついた。 [#改ページ]   10…FINAL STAGE▼TOMOKI  これまで超然と、我関せずといった様子で鎮座していたドラゴンが、割れるようなスタンドの歓声に、初めてその身を波立たせた。階段で出番をひかえていた知季もまた、足下から突きあげてくるその波動に、ぞわっと全身を粟立《あわだ》てた。  津波のようにわきあがる場内の熱狂は静まるところを知らない。  総立ちになって歓声を送るMDCの面々に、半泣きでとなりの老婦人に抱きついている恭子。さっきまで競泳の応援をしていた人々も、メインプールを片づけていたスタッフも、ほかの選手の関係者も、そしてあの前原会長までもが興奮の面持ちで激しく両手を打ち鳴らしている。  これと似た光景を見たことがある、と知季は絶望と背中合わせの感動の中で思った。そう、今年の夏。合同合宿の参加権をかけた選考会で飛沫が初めて試合に出場した、あの日だ。飛沫は成績こそ七位に甘んじたものの、その強烈な個性でほかのだれよりも観衆の目を引きつけた。飛込みの観客も、メインプールで泳ぐ人々も、気がつくとだれもが飛沫を見つめていた。まるで今のこの会場のように。  前飛込み伸び型。  回転もひねりもなく、ただ前に飛ぶだけのダイブが、こんなにも激しく、こんなにも美しいものだったなんて!  白鳥。まさにその舞は飛びたつ鳥のようだった。津軽の海や、潮や、磯の香りだけじゃない。飛沫はその上に見渡すはてしない空を、海よりも深い無限の広がりを、そこに羽ばたく野生のきらめきを、わずか一・四秒の中に凝縮させて見せたのだ。  飛込みをはじめて六年、これまで知季はこんなダイブなど見たことがなかった。  そしてそのダイブが手にした得点も、当然、見たことのないものだった。  10点。  10点。  10点。  10点。  10点。  10点。  10点。  合計48点。  総合得点600・09点。  観衆の熱狂は、つまり半分は前代未聞のパーフェクトに対するものであり、残りの半分は600・09点という、信じがたい偶然に対するものだった。  要一とまったくの同点——。  なんてことだろう。  台の上では仲山が、飛沫のあとに飛ぶ不運を呪うような目つきで演技をはじめていたけれど、もはや観客の関心はそこにはなかった。  もしも要一と飛沫が同点優勝ということになったら、オリンピック代表の行方はどうなるのか?  スタンドの観客と同様、知季の脳裏にもそんな疑問がうずまいていた。  二人そろってシドニーへ行くことになるのか?  それとも代表の座を二人でもう一度、競うのか?  無論、試合のラストを飾る知季が四回半に成功し、600・09点以上で優勝を手にすることができたら、そんな問題はたちどころに解消する。  でも、無理だ……。  知季は突如、体の芯《しん》から自信がはがれおちていくような不安に襲われた。教本のように完璧《かんぺき》な要一のダイブに、型破りを極めた飛沫のダイブ。どちらもまるで神業だ。あんな二人にこのぼくがかなうわけがない。  さっきまでの落ちつきがまるで幻であったかのように鼓動が騒ぎだす。強くなったはずだった。体と心を鍛えあげ、タフな男になったはずだった。なのに、この大事な最後の最後で、これまで見て見ぬふりをしてきたプレッシャーに足下をすくわれた。  ひざが震える。肩が異様に力む。下半身が緊張でがちがちになっているのがわかる。仲山はいつのまにか演技を終えていたようで、電光掲示板にはすでにその得点が表示されている。さあ、ぼくの番だ。なのに足が動かない。飛べない。こんな状態で四回半なんてできるわけがない。ダメだダメだダメだ——。  すべてを投げだしたくなったそのとき、どん底へと急降下していく心を、何かがぴしゃりとはねかえした。  いつかの夏陽子の声だった。 「頂点をめざしなさい。あなたはそれができる子よ。うんと高いところまで上りつめていくのよ。そこにはあなたにしか見ることのできない風景があるわ」  いつかの飛沫の声もした。 「麻木夏陽子は言ったよ。だってあの子はダイヤモンドの瞳をもっているのよ、ってな」  要一の声もした。 「不可能だなんて思うなよ。はじめるまえからあきらめるのはやめろ。可能性はだれにでもある。おれにも、おまえにも、な」  未羽の声もした。 「未羽たちには越えられないもの、トモくんだったらきっと越えられるよ。未羽たちもそんなトモくんを見て、何かを越えた気分になるんだと思う」  気がつくと知季は台の上に足を進め、演技開始のホイッスルをきいていた。暴走していた心臓は収まり、震えも、力みも消えている。  そう、ぼくがめざすのは優勝でも、オリンピックでもなかった。  この世界の、この時代の、この毎日の至るところに存在する見えない枠を越えること。  越えて、自分にしか見ることのできない風景をつかむこと。  そのための飛込みで、そのための四回半だ。  そのために重ねた死にもの狂いの練習だ。  昨日までの壮絶な特訓を思いだし、知季は唇を噛《か》みしめた。自分の持っている力を吐きだして、吐きだして、もう何もでないというところでそれでもまだ何かをだしつづけなければ四回半なんてできっこない、と夏陽子は何度も声を張りあげた。力が尽きたなら血を吐きなさい! 汗を吐きなさい! 胃液を吐きなさい! 〇パーセントだった入水の成功率を一パーセントに、一パーセントを二パーセントに、微々たる前進を続けるために知季は実際、何度も胃液を吐きだした。  六パーセント。ようやく到達したこの数字の貴さは、だれより自分が知っている。  たとえ失敗したところで、なにひとつ恥じ入ることはない。  知季はほほえみ、そして走りだした。瞬間、全身の血が、肉が躍動をはじめ、無性に楽しくなってきた。あの台の先へ、予測のつかない未来へ体を投げだす爽快《そうかい》感。自分には要一のような実力も、飛沫のような個性もないけれど、何もないからこそ身軽で、どこまでだって飛んでいけそうな気がする。  知季は軽やかに台を蹴《け》り、その未来へと飛びこんだ。  きゅっとタックルを引きしめて、一回半——ダイヤモンドの瞳にスタンドのみんなが映った。二回半——救護室でのびているはずの要一が映った。三回半——家で吉報を待ちわびている両親が映った。四回半——だれも知らない、知季だけの新しい風景が、そのとき、透きとおった枠のむこうにきらりと瞬いた。 [#改ページ]   11…TAKE OFF  二〇〇〇年一月某日、滑走路を見晴らす成田空港のレストランの一角で、一人の選手と一人のコーチがすきやき御膳《ごぜん》をつついていた。  フライトの二時間前に搭乗手続きをすませたものの、ゲートインにはまだ余裕がある。時間つぶしを兼ねた和食の食べおさめ、というよく見る光景だ。ただひとつ、あまり見ない要素があるとしたら、それは年齢差のある男の二人組のうち、片方だけがやけにしんみりとうなだれていることだった。 「どうだ、食ったか? 満腹したか? その余韻をいつまでも忘れずに、むこうで反芻《はんすう》してくれよ。しらたきに染みこんだ肉汁を忘れるな。豆腐の慎ましやかな旨《うま》みを忘れるな。あっちにゃおまえ、ステーキとポップコーンしかねーけど、達者に生きていくんだぞ」 「それは江戸時代の話で、今じゃ世界中、どこにでも日本食があるんだよ」  いまわの別れでもするような大島を、あきれ顔の飛沫が冷静に諭《さと》した。 「第一、半年なんて一瞬みたいなもんなのに、そんなおおげさな」 「いいや、半年は半年だ。一瞬よりは断然、長い」 「でも、一生よりは短いよ」 「ま、せいぜいそのあいだにすきやきの腕でも磨いておきますよ」 「それより料理のレパートリー、増やしてくれませんかね」  二人は同時にため息を吐きだし、窓の外へと目をやった。  ガラス越しに見える滑走路から、次々に飛び立っていく巨大な鉄の塊。まるで水色の布を裂く断ちバサミのように、ぴんと広げた翼で淡々とした空を切り裂いていく。 「今頃、トモは太平洋の上かな」  大島がその飛翔《ひしよう》を目で追いながらつぶやいた。 「ニュージーランドまであと数時間ってところか。まさかおまえの出発とニアミスになるとはな。もうちょいずれてたら空港で会えたのに、惜しかったなあ」 「甘いな」 「は?」 「あの女がわざわざ同じ日におれの旅券を手配したに決まってんだろ」 「麻木コーチが? なんでまた」 「あいつはそういうやつなんだよ」  飛沫はひざにのせた拳《こぶし》をにぎりしめた。 「なんつーか……その場その場のムードを盛りあげるためならなんだってするんだ、あの性悪女は。べつに優勝じゃなくても600点クリアしたら金をだすって、あの会長が約束してたんなら最初からそう言やいいのに、しゃあしゃあと大嘘こきやがって……」 「まあまあ、おまえを発奮させるための方便だろうよ。第一、その性悪女の直談判のおかげで、フロリダへの道が開けたわけだしさ」  わなわなと震える飛沫を、今度は大島が諭して、腕時計を一瞥《いちべつ》した。 「そろそろいい時間だ。さあ、行ってこいよ。行って、おまえの可能性を試してこい。おれはあの出国カウンターでの別れってのが大嫌いだから、ここでビールでも飲みながら見送るとするよ」  言いながら大島はメニューを手にとり、意味もなく上から熟読した。まるで飛沫と目を合わせるのを恐れているかのように。  飛沫もそれに合わせて黙礼し、小ぶりの旅行バッグひとつを肩にかけて席を立った。大きな荷物は前もって船便で、ベン・ブラッドリー氏に紹介されたホームステイ先へ送ってある。とりあえず今はフロリダ行きのチケットとパスポートさえあれば、どこまでだって飛んでいけそうな気がする。 「じゃ」  言葉少なに告げ、飛沫が立ち去ろうとした瞬間、「そういえば」と大島が突然、ぱたりとメニューを下ろした。 「おまえのあの美人の彼女、見送りに来てないな」  飛沫は足を止め、事もなげに返した。 「あいつは出国カウンターどころか、空港での別れそのものが大嫌いなんです。それに、今は上京の支度で忙しいみたいだし」 「上京?」 「四月から一年間、東京でフットマッサージの勉強をするとか言いだして……津軽の老人社会に新しい風を吹きこむんだそうで」 「フットマッサージか。渋いな」 「じいさんばあさんは痛がりそうだけど、本人はやっとやりたいことを見つけたとか言って張りきってるんで、いいんじゃないっすか」 「でも東京には悪い虫がわんさといるぜ。おまえのいない半年は長いぞ」  やっかみ半分にからかう大島に、飛沫はにっとほほえみ、指にはさんだチケットをひらひらと羽ばたかせた。 「白鳥の夫婦は、どっちかが死ぬまで一生、つがいをまっとうするんですよ」  飛沫を乗せたジャンボ機が太平洋を眼下に見下ろしていたそのころ、日本の辰巳国際水泳場にはあいもかわらず、夏陽子の怒声がとどろいていた。 「もう一回! レッドの踏みきりが遅れたわよ」 「グリーン! もっとレッドの回転をよく見てっ」 「二人の呼吸が全然そろってない!」 「あんたたち、そんなへっぺけぺえでシドニーなんて行けると思ってんの!?」  情け容赦のない特訓の後、ようやく十分間の休憩が訪れたとき、要一とキャメル……もとい、レッド山田は、そろってへなへなと体を横たえた。  うすぼんやりとしたプールサイドの上に、そこだけ鮮烈な二つの点がにじむ。赤と緑の海パンの、見目《みめ》鮮やかなコントラスト——。 「ちくしょう、あの女、やっぱおとなしくアメリカに帰ってりゃよかったのに……」  最後の力をふりしぼって毒づくなり、要一はしばし目を閉じ、無意識の谷へ沈みこんだ。  三秒か、三十秒か、はたまた三分か。  清浄な静けさに守られたその谷底で、要一はふいにそのとき、新たなる天地へと大空を翔《かけ》る飛沫の姿を、そしてまた別の異国を踏みしめる知季の姿を見た思いがした。  知季のとなりには父、敬介の姿もあるはずだ。オリンピックの前哨戦《ぜんしようせん》といわれるFINAのワールドカップ。その同行コーチに思いがけず抜擢《ばつてき》された敬介にとって、恐らくそれが勝った負けたの世界での最後の仕事になるだろう。  飛込みを続ける者。  やめる者。  続けながらも新しい携わりかたを選ぶ者。  それぞれの道が交錯するその一点に、今の自分がいる。 「まったく人生、わかんねーよな」  ぱちりとまぶたを押し開けるなり、要一はとなりでまだ荒い息をたてているレッドへ声をかけた。 「このおれとあんたがシンクロ飛込みでシドニーをめざすことになるとはなあ。前原のじいさんがシンクロ飛込みにも野心を持ってるなんて、日水連のスタッフも知らなかったらしいぜ。ま、たしかに目のつけどころは悪くないけど、ほんとあのじいさん、抜け目がないつーか、メダルフェチつーか」  言いながら目をやると、レッドはあさっての方向を険しく見つめている。 「どうした?」 「いや、いまいちこう、しっくりこなくてさ」 「シンクロ飛込みか?」 「ああ。シンクロ飛込みはまず第一に、同調性を重んじる種目だろ。言うなれば、二人のハーモニーが勝負の決め手なわけだ。となると、赤と緑の海パンってのは、やっぱいまいちじゃねーか?」 「待てよ、おい。赤と緑にしようって決めたの、あんたじゃん。クリスマスっぽくてかっこいいって……」 「でもどうせならやっぱ、日本代表としておれは和のテイストを大事にしたいわけよ。わびさびの心とかさ、花鳥風月とか、大和《やまと》魂とか……。で、ここはひとつ、ピンクと緑の桜餅《さくらもち》ツートンってのはどうだろう?」 「……やっぱピンキーにもどりたいわけだな」  要一は額を押さえながら上半身を持ちあげた。  とたん、プールサイドの対岸から再び、夏陽子の激しい怒声が飛んできた。 「あんたたち、十分って言ったのにいつまでぐずぐずしてんのよ。やる気がないならシンクロ飛込みなんてやめて、二人で一生、そのプールサイドに張りついてればいいわ。永遠に、孫の代まで!」  やれやれ、と重たい腰を上げ、要一とレッドが再び階上をめざしていく。  シンクロ飛込みでのシドニー行きは、いずれ訪れる本番へむけての有意義なステップになると要一は思っている。四年後に単独でドラゴンのトップに立つときのためにも、シドニーでの五輪経験はきっと大きな財産になる。  しかし、よりによってシンクロする相手がこの男とは……。  そして、日水連のさしむけた専属コーチがあの女とは……。 「ダメダメ、全然なってない! 階段を上る足並みが二人、まったくそろってないわ。そんなんでシンクロだなんて笑っちゃうわよ、ほーっほっほっ」  夏陽子の高笑いを背に、再びレッドと階段を上りなおしていく要一の口からは、知らずしらず力ないつぶやきがもれていた。 「あーあ、早くアテネに行きてーなあ」  要一とレッドがなんだかんだ言いながらも見事なコンビネーションを発揮しはじめていたそのころ、南の海を越えたニュージーランドのオークランド国際空港に、FINAのワールドカップに参戦する日本水泳陣をのせた旅客機が着陸しようとしていた。 「当機が完全に止まるまで、どうかシートベルトをおつけになったまま、席を立たずにお待ちください」  ふしぎな抑揚のあるアナウンスをききながら、ものめずらしげに窓の外をのぞきこんでいた知季に、横から敬介が声をかけた。 「ついに到着だな。体調はどうだ?」 「だるくて眠くてお腹いっぱい」 「まあ、体のほうはあと十日、徐々に慣らしていけばいい。心の具合はどうだ?」 「心?」 「本格的な国際試合は、君にとって初めての体験だろう。西洋諸国とアジアではまた飛込みの趣が異なるし、シドニー代表のプレッシャーに押しつぶされなければいいが……」 「大丈夫、大丈夫」  知季は溌剌《はつらつ》とした笑みを返した。 「初めてって言っても、富士谷コーチが一緒だし。それに昨日、要一くんが電話で西洋人とのスキンシップのとりかたとか、いろいろ教えてくれたし」  要一だけではなかった。知季のナップサックには出発の前日、夏陽子にもらった新しい自主トレのメニューが忍んでいた。レイジと陵からの手紙も、幸也の旗も、なぜだか飛沫の恋人のおばあさんにもらった良縁祈願のお守りも。そして、弘也が作ったオリジナル応援ロックのMDも。  それらのすべてに支えられ、初の国際大会へと臨む知季をのせた飛行機は、すべらかに翼をかたむけはじめてから数十分後、迫りくる大地を車輪でとらえ、ぶじに滑走路へと着陸した。  ぞろぞろと機内をあとにする日本水泳選手団は、総勢、十八名。そのうち、知季と寺本健一郎を除く十六名が競泳の選手だ。いつもながらの多勢に無勢だが、最年少の知季は胸を張り、臆《おく》することなく寺本のあとに続いた。背中にせおったナップサックには、みんなにもらった多くのものと一緒に、あふれるほどのファイトがつまっている。  オリンピック代表選考会での四回半が、たとえ一時のまぐれであってもかまわない。これから何年もかけてそれを本物にしていけばいい。今回のワールドカップも夏のシドニーも、自分がメダル争いとはほど遠いところにいることも重々わかっている。それでも全力で挑めば、ぼろぼろに負けても、どんなに落ちこんでも、きっと自分はまたひとつ強くなる。四年後、あるいは八年後、オリンピックの表彰台を要一や飛沫と競り合うためのパワーを手に入れる。  凜《りん》と前を見すえ、細長い通路を進んでいく知季の視界がふいに開け、横一列に延びるカウンターが飛びこんできた。  これが問題の入国審査か。知季は昨夜の要一のアドバイスを思いだし、みぞおちのあたりに気合いを入れなおした。 「よくきけよ、トモ。西洋諸国ではまず第一に、人と人とのスキンシップが重視されている。このスキンシップ能力を試されるのが、入国審査ってやつなんだ。ここで失敗して日本に送り返された口下手を、おれは何人も知っている。そうならないためにも、いいか、まずは審査官に『サイトシーイング』と大声で挨拶《あいさつ》する。で、相手がなんか言い返してきたら、英語で簡単な自己紹介をするんだ。好きな色とか、花とかさ。要はハートだ。スキンシップへの心意気さえ伝わりゃ相手は満足する。あくまでも明るく、にこやかに、な」  刻々と迫ってくる入国審査のカウンター。白いラインを隔《へだ》てたその手前には、様々な色の肌、様々な色の髪、様々な色の瞳《ひとみ》が渾然《こんぜん》となって列をなしている。知季はどぎまぎと胸を高鳴らせながら、一足先にカウンターへむかう敬介や寺本の姿を目で追った。さすがはベテラン、国際経験が豊富なだけあって、二人とも難なくクリアしていく。ネクスト・プリーズ。いかにもスキンシップを求めていそうな審査官に手招きをされて、ついに知季の番が来た。  知季はこくんと息を呑《の》み、垂れ目で赤ら顔の審査官へと一歩、足を踏みだした。続いて満面の笑顔で「サイトシーイング!」と、空港中に鳴り渡るような大声を張りあげた。  ぼくの名前はトモキサカイ。  日本の中学二年生。  好きな色は、青。  好きな花は、胡蝶蘭《こちようらん》。  好きな動物は、犬とイルカとクジラ。  それから、それから……。 「好きなことは、ダイブ!!」 角川文庫『DIVE!! 下』平成18年6月25日初版発行